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二寸の先には劇場の中■パントマイマー

一冊目を目にとめてくださってありがとうございます。アレな絵描き出身です。その当時、キャラは娼婦でしかなく、キャラの人間性を見てもらえなかったのが本当に辛かったので、オリジナルキャラクターのバックストーリーを掘り下げ、キャラがキャラとして認識され、また、「自称クリエイター」の「自称」のとこを取るべく、毎回本気で書いていきます。

子供の頃、部屋の窓から猫を逃がした。


小太りの白猫で、外にジャンプした時も普段通りに「ウッ」と小さく鳴いていた。

勇ましく、振り返らずに歩いていった。


私は暗闇にその背中が完全に沈み込むまで、じっと見つめて見送った。


そんな私達は確かに、互いにとって一番気楽な存在だったと思う。


彼に名前をつけたのは母で、その名もダイヤちゃん。

いつまで経っても全然しっくり来ないから、ずっと勝手に『ぽんちょ』と呼んでいた。


母が『ダイヤちゃん』を探す姿は今でも夢に出てくる。

私がちょっと探せば見つかったのかもしれないけど、どうしてもそうする訳にはいかなかった。


だって、これは一人と一匹による決死の作戦だったから。


私は年齢のわりには、そこらの大人と同じくらい無関心に対し敏感であった。

家族それぞれのもつ矢印が別の方向を向いているのに気づいていたのだ。


母は学習能力が控えめな人で、同じ行動を何度も繰り返す癖がある。

知らない昔のアイドルソングの同じパートだけを十数分にわたり繰り返し歌うのが、どうしても私は嫌いだった。ひどい時はコマーシャル用のほんの五秒ほどのメロディを延々と続けるものだから、私も気が狂いそうになって、少し静かにしてと言ってしまえば最後、腹を立てて私の分の食事を抜く。

私が肺炎で入院した時には医者の前で自分の行いが、健康に産んでやれなかった自分がと嘆いてみせた。アンチエイジングに強い関心があり、本当の意味で抗うすべなんかなかろうに、セールストークに簡単に金をつぎ込んでは、いつも年齢相応の顔に、不相応な髪型をしていた。


父は逆で、ひどく退屈な眼鏡の小男で、ほとんど何も言わない。

家族との会話がつまらないのかと聞けば違うと答えるのだろうけど、テレビがついていないのがどうしても気持ち悪くてたまらないらしく、何をするにも小さな芸能人たちを連れていた。

食卓ではちっとも面白くないやらせの映像やワイプの中を見ながら、まれにニタリと笑い、嫌いな人間の事ばかり、食べ物が入ったままの口を動かして小さな声でくちゃりくちゃりと呟いていた。

どうも彼に似た性質をもつ特定の芸能人の仕事の一環としての活動が、毎日のテレビ、あるいは新聞の中にあふれる皮肉が、社会的地位の低い彼の自尊心をどういうわけか神輿のように高く保っているようで、発信しているのはその人々だろうに、彼はそんな人々に認識すらされないまま一方的にそうだと頷いているだけだというのに、まるで仲間の一員として国を動かしているかのような帰属意識をもって生きているのが、なんだか芸能人の家畜のように見えて、あまり好きではなかった。


その食卓にだって、全員が揃う日はあまりなかった。


ある日、そんな貴重な一日の夜に父が、お前の頭が邪魔でテレビが見えない、と言うものだから、テーブルの位置を父が見やすいように変えた。


そうしたら父はリビングに戻ったとたんに、急に顔を真っ赤にして嫌味ったらしい真似をするなと私を叱りつけて、細腕で壁を無理に叩いてから部屋に引きこもり、テレビショッピングで物を買ったばかりの母からは謝罪を迫られた。


それは誰にも何の損も与えない良いアイデアだったし、私自身謝られた経験も感謝された経験もなくって、だんだんそんな二人がすごく気持ち悪く見えてきて、また、ほんの少し癪だったので、その通りに正直な気持ちを伝えたら、頬を引っ叩かれそうになって素早く彼女の手首を掴んだ。私は間違いを伝えるように、目をじっと見つめて最後まで謝らなかった。その後、母が電話で私の悪口を言っていたのを見た。どうも父が母に八つ当たりをして、それは娘のせいであるらしかった。


テーブルの位置は次の日には元に戻って、私以外の全てがいつもの関係に戻っていた。


幼い私は両親から、度重なる巻き戻しの繰り返しを経て、たとえたった数日の間であったとしても、家の中には私が変えられるものも、残せるものもないと教わった。


あくまでもここは二体の人形を置くことにより完成した家の模型で、私は「さんにんめ」ではなくて、「あまりいち」だったのだ。


かわいい一人娘であるはずの私は何となく、母は父以外の男性が、父は母以外の女性が好きなんだと思っていた。

家族以外の誰かと会った日は帰りが遅く、父は背筋を伸ばしていて、母は中身が子供に戻る。


さて、肝心の彼、ダイヤちゃんでありぽんちょである彼はといえば、その多くの時間をケージの中で鳴く事に費やしていた。


父はそもそも動物には興味がなくて、母は自身の親にそう教わったからか、彼がどれだけ必死に鳴こうが、かわいい、ダイヤちゃん、と猫なで声で話しかけるだけだった。


ただ、そんな彼に真摯に接していたのは、どちらかといえば父だったように思う。

母は彼を悪しきメッセージツールとして扱う事があったから。


悪しきメッセージツールというのは、例えば、後ろめたい事を抱えながら玄関を開ける時に、私達、人間ではなくて、彼に向けて挨拶をする。そして、私達に向けるべき言いたい事を言いたいだけ言ってから、ねえダイヤちゃん、と括る。


猫の耳の中に宛てさえすれば、脅迫罪も侮辱罪も我が家では無罪放免なのだった。


そんな置物であり道具の彼は、ときどき私の手で私の部屋に運ばれてきては、家族ではなく、単なる一人と一匹として、私と一緒に窓の外を見つめていた。


私たちは同盟関係にあった。


ある日は曇り空、ある日は星空。

雨だったり、まれに流れ星も。


窓際で毎晩一緒にこの不協和音の原因を考え続けていて、ある日、ある仮定が生まれた。

もしかしたら、この家の誰もが、まだ愛というものを知らないからなのではないか。


「ぽんちょ。 ちょっとね、思いついた事があるんだ」


フサフサした、ぷよぷよの横腹に頬をつけると、ぽんちょも何となくこっちに体重を預ける。


記念すべき一日の終わりに、私の開けた窓から彼は振り返りもせずに歩き去ったのだった。




私はまだ子供だった。

全てが偶然のように扱われ、同盟の秘密は守られた。


家の中では当然、想定内のごたごたが続いた。


後悔こそなかったものの、私自身にも、不意に想定外の寂しさに襲われる事なんかがあって、嘘つきついでに少し泣いてしまった時すらあった。


だけど、それからしばらくして、家の中の何かが変わったのを確かに感じるようになった。


母や父と一緒に、時には家の外にだって、いつだって柔らかい光が移動しているのだ。


彼のいない家の様子はまるで劇場のようで、温かいスポットライトがあちこちに灯っていた。


母は寂しい寂しいと買い物ばかりして、父はそんな散財に尻を叩かれるように出世した。

私から言わせてもらえれば、ぽんちょは消えてからも誇らしげに、ずうっと私のそばを歩き回っていた。


私たち名コンビはその絆をもってして、逆に母と父を育ててやるまでになり、自分たちに欠けているものに気づくのに十分すぎるほどの奇跡の山をもたらしたのである。


——まあ、だけど、そういう山を越えれば、大抵あとには谷があるものだ。


結論から言うと両親は、あれからいつまで経っても新たなヒントを手に入れようとしなかったし、今までの行いに関しても何一つ悪びれておらず、もっと、もっと言えば、作戦の日、私たちの投げかけた問いには気づいてすらいなかった。


夜、楽しい食卓の最中に誰かから電話がかかってきて、父に大きな借金があると母に伝えた。

母が肌と同じ色の乾いた唇を埴輪のように開けて、なんでなんでとヒステリーを起こしていたから食事の味はしなかったけど、それでも私は父をまだ信じていたし、なにか助けになれるなら喜んで助けになろうとアルバイトを始めた。


だけど、変わらずの食卓への針はあまりにも早く巻き戻っていった。


もう、誰も彼の光など感じていなかった。


ずっとテレビがついていて、くちゃくちゃ、同じフレーズが何回も耳に入ってくる。


二人が彼のために動き回る姿は当時の私の目には輝いて見えたものだ。


だけど、そんな時があったからこそ余計に、この偽物の夫婦は私の中で再び激しく錆びついていた。


あの二体のお人形は、彼の皮で作った問題用紙をちり紙のように使っては、私の髄を搾ったインク瓶をこぼし、僕らに答えなどわからないよと浅はかにも決めつけ、思考を簡単に放棄して、口笛を吹きながら、粉を撒き散らしてネバーランドへと戻っていったのだ。


濁った四つの目玉がお互いの機嫌を伺いながら別のほうへ、右に左にぎょろぎょろと動いている。


国が仕事が、借金が親戚が、そういう事を聞くたび、何度も何度も、劣化したレコードが針にばきばき削られながら、再生と巻き戻しを繰り返している様を想像した。


タイムリミットが来たとでも言おうか、残念ながらその日の私はとうに物心がつききっていた。

ぽんちょの命がまばゆく照らし続けた舞台は、今やまるで見世物小屋だ。


ここでは全てが下品なエンターテインメントに加工されていく。

人形だから、誰も何とも思っていない。


二匹目の猫がトイレの砂をかいている。

大きな犬が上目遣いでこちらを見やり、囲いの中に沈んでいる。


そして誇り高き彼は派手にラッピングされ、私のそばでイモムシみたいに愉快にうごめいている。

ぐるぐる巻きのテープの隙間からはうめき声が漏れ、か細い光がついては消えていく。


繰り返しのフレーズ。

大音量のテレビからの笑い声。


誰も何も面白がっちゃいない。


そう、それで確か、今からでも遅くないだとか。母の電話から漏れたがさがさした男の声が、途切れ途切れの薄っぺらい言葉を並べ立てて、話のオチに、俺はそういうのを作れると言って、彼のビラを作ろうとか、そんな風に提案したあたりだったと思う。


コマーシャルが終わるのを待つ父のすぐ後ろで、うん、うん、と涙ながらに普段より高い声の母が頷いているのを見ていた私は、なにか突然ぞわっとして、一度だけ唾をのんだ。


それから抑えられないほど強い苛立ちが次から次へとこみ上げてくるのを感じて、名前も知らないひどい感情に背中を押され、いてもたってもいられなくなったのだ。


さあ、奴らへ向かって進め。


だん、だん、だん。


ああ、これは私の足音ではないよ。

そう叫んだ弱い私を私が掴み、心の奥の底の底へとねじ込んでいく。


邪魔をするな、死ね、死ね、と、頭の先が足の裏につくまでに。


電話のもとへ足を進めるごとに一歩、また一歩、まだ一歩と体が冷たくなっていく。


「シャーッ」


猫の威嚇音が響く。

いいぞ、これが最後のチャンスだ、と彼が懸命に二匹目の猫を抑えつけながら怒鳴っている気がする。


私はすぐにその手から受話器を奪い取り、相手の鼓膜が破れるくらいに強く置いてから、捨てる。

投げ落とされた受話器が床につくかつかないかのところで首を吊って、がんがんもがいて揺れている。


混乱によって静寂がもたらされ、その時、熱いくらいのスポットライトが私を目掛けてぱっと灯った。


そして私は、このフィナーレにおいて、人生で最初で最後となるいかづちの自白をしたのだった。

はりぼての観客の邪魔が入るたびに汚れた言葉尻を大声でかき消しては、無意識に握ったハサミを自分の手の甲にざくりと突き刺し警告する。


まさか、娘の血が嫌いだったなどとほざくつもりか。


母は男のような声で父のほうへ向け同じ発言を繰り返して、


父は私を見ないように甲羅の中に首をしまって、テレビの前から母を見ていた。


「なあ、もう、い、いいじゃないか、そんな昔の事は」


次の日の夜、両親を殺した。


償いが何かも教わらなかった私は全てを終えた後、できる限りの事をして過ごした。

そうしたら、思っていたよりもずっと多くの事を警察は見逃した。


少しの間だけ親戚の家にお世話になった。


後から聞いた話によると、動物は電話の男が引き取る事になったらしい。

その男とは誰なんだか、何も知らなかった。


私は最初こそ不幸な子として扱われたものの、警察学校に入る頃には親戚中から祝福された。


捜査一課への配属が決まったお祝いとして、サプライズのパーティを開催してくれた友達が不意に泣いてしまって、本当にすごいよと抱きしめてくれたのを覚えている。


思い返してみれば、あの日は親離れにはいい日だった。

あれから心は完全に自立し、ゆったりと安定していったのだ。


ただ、そう、まだ——

今も同じくらいの強さで感情を言葉にできなくもない。


これを懺悔というのだろうか。


神様、罪人がたった一人をようやく殺している間に、罪なき者はずっと多くを殺しているのです。


それと私は時々、あなたから特別扱いをされていると感じます。


なるはやでお裁きお待ちしております。アーメン。




私の名前は人隣(ひととなれ) 陽乃(ゆの)


別名を『特例作りの陽乃』。

階級は警部。警視庁捜査一課所属のれっきとしたエリート刑事さんだ。


立派なこの姿を見てどう思うだろうか。

バリキャリなオーラ、めっちゃくちゃ出てませんか。


鼻高々に、正直に申し上げよう。


全然サイズが合っていない無地のグレーのTシャツの上から、シワシワの黒のパンツスーツをむごたらしく着こなすのがとても得意で、本業が事件の捜査なのだから、ファッションなんか無頓着なほうがいいでしょうと、狡猾にも議論の分かれ目に滑り込んでは怠ってを繰り返してきたのが人隣陽乃という女だ。


昔なんかずっと、だぼっとした芋っぽいパーカーを着ていた。

今はフーディーなんだっけ。さすがにデニムをジーパンとは言ったりはしないが。

いや、どうだろう。さらに進んでいるのか、もしや、かえってジーパンに戻っているのか。

そう、そうなのだ、この有り様が全てだ。おそらく平均的な女性よりも服装の類が苦手なのだ。


化粧も、まあ、ポジティブに捉えればナチュラルだ。


そんなこんなで一見すると全く刑事に見えないせいか、悲しきかな、珍しく混んだ電車なんかに乗れば、胸元に光るバッジに気づいた男の人にぎょっとされる事がある。


「現行犯」


なんて口に出してからかってみたり、そんな気分の日も一応ありはするのだが——


残念ながら今日の私はただ単に眠気が強いだけの日のようだ。


がたんごとん。電車よ街をゆけ。


白く濁った銀の手すりがすっかり役目を終えた気分で、ただ面白おかしく私の姿を映している。

女刑事は相変わらず、オレンジ色だか茶色だかわからないまま子供の頃から理由もなくずっと短く揃えてきた癖っ毛をふわふわと、通勤ラッシュのピークをとっくに過ぎた電車の中で揺らしている。


降車駅前の車窓でちらりと化粧を確認して、きみって冴えない子だなあと感じて、ドアが開く。


改札をくぐり、人通りのまばらな通りを選び、街で一番威圧感のある建物へ。

つまりは唯一の自慢であるオフィス、警視庁に向けて足を動かしていく。


こつ、こつ。


ううん、この季節の風って生ぬるい。


こつ、こつ、たっ、たっ。


ああ、種類のわからない鳥がいる。

あの子、なんだか昨日もあそこにいた気がする。

私と似た時間に動く子なのかな。


たったったったっ。


仲間だねえ。

知らない鳥くん。君も頑張ってね。


だっだっだっだっだっ。


「お疲れ様です」


「はあ、はあ、はは……ど、どうもお」


まあ、つまるところ、刑事になったところで、ほとんどの日常とは退屈の事なんだなあ。




「365日達成かもな、特例ちゃん。数える気もしねえ」


どこもそうだと思うけど、扉を開けると大体は人のコミュニティを最初に目にして、気さくに接されたり、無言だったり、いびられたりする。

私の場合、ここのところいつも同じ人が出迎えて、気さくにいびってくれている。


「すいません! すいません! ああ、ど、どうしてもですねぇ……あはは」


「遅刻の常習犯なんて匿ってるのが知られたら、捜査一課は終わりだろうよ」


捜査一課のリーダーシップ、加藤(かとう) (すぐる)がキャリアと体格に見合った大声を出し、その他数名の精鋭たちがスンと鼻をならした。

キャプテンに合わせているという意思を示せば十分なので、誰もいちいち大笑いはしない。


社交辞令の到達点が私のオフィスだ。


ぺこぺこと下げる頭には、私にとっても誰にとっても意味がないと皆が知っている。

私はこの辺りか、と頃合いを見て下げるのをやめる。これを毎日のように続けている。


なんだかいつもより後ろ暗いものを感じる。


ええと、小学校の見学の立ち会いなんかだと直々にご指名が入るのだなあ、私に。


そして皆の愛想笑いの余韻を残したまま椅子に座ろうとして、だけど、どうも加藤の手によって後ろ髪を引かれている気もしたので、ちょっと歩いて振り返ってみると、上司でもあり、大の大人でもある大男がまごまごしていた。


おうおう、どうしたんだい。


刑事の勘とかでなく、誰にでも明確にわかる範囲で、あからさまにいつもとは様子が違っている。

言うか言うまいかと迷いつつも怯えている、イタズラがバレた雑種の大型犬、そんな感じがした。


加藤はぐっと私に詰め寄ると、


「まあ、そんなお前とも今日でお別れかもしれん。いよいよだな」


と声のトーンを少し落として言った。

まだ話の全容は見えないが、少なくとも私の次の発言は決まっていた。


「な、何ですか……? つ、ついに? クビ? ですかぁ?」


違うだろうな。自分の実績と根回しを信じなさい、陽乃ちゃん。

ちょっと大げさに嘆いてみた私を見た加藤は複雑そうな顔をして、


「それは……まだ何と言うか、決まったわけじゃない。だが、クビなんかより……わかるだろ」


と刑事にあるまじき発言をした後、数秒の沈黙ののち頭をかいた。


「マル課だよ。さっき呼び出された、電話で、お前が」


——マル課。

私はその名前に覚えがあった。


「いないって言った。ちょっと出てるってな。そうしたら、戻り次第お前をよこせと」


普通、警察は特定の組織に分かれて仕事を行っている。

交通課、会計課などなど、施設の中にはそれぞれに何らかの役割を持った”課”があるものなのだ。


しかし、この警視庁の地下三階にあるマル課という場所だけは別だ。


まったく、誰が最初にそう呼んだんだか。


そこは社会の頂点に近い場所にありながらも、学校の七不思議のような、どこか浮いた存在感を保ち続けている場所だった。


「マル課、ですかぁ……」


私は、すぐに思考に全力を注ぐ値打ちはないと判断した。


だって、マル課というのは私の知る限り、単なる空き部屋の事なのだ。


デッドスペースに無理やり作られた設計ミスの死に部屋だ。

池の周りに柵を作るのと同じで、危ないから施錠されているだけで、鍵だって簡単に手に入る。


「俺の番号を知ってて、ボイチェンを使ってた。イタズラじゃねえんだからさ。あり得ねえだろ」


ところが噂はどういうわけか異様な盛り上がりを見せ、マル課は”課”のすべてを囲う黒幕なのではないか! とか、何の黒幕なのかわからないけど、まことに恥ずかしながら内部の噂は色々で。


幽霊がいるだとか、実はどこかに何かのボタンがあって、極秘資料の保管場所に繋がっているだとか、宇宙人だとか、さらに飛躍してスーパーパワーを持つ者を集めたチーム……って、最後のはいくら何でもひどすぎやしないか。


とにかく、あからさまにそこにある得体の知れない物について説明を受けなければ人はたまらなく気になるものらしく、そんな人々の会話の中に細々と潜り込んで、おこぼれを食らうかのごとく、マル課という噂は警視庁の中でずっと生き延びているのだった。


……もう一度言うと、マル課とはただの地下の空き部屋の事を指す。


私の中では、ああ、何度か入ったので、入りたければどうぞ、ってくらいの認識だ。


誤解しないでいただきたい、私はSFが大好きなのだ。

そう、そんな場所から特別にお呼び出しを食らうだなんて、有り難い事である。


「お前はウスノロだが優秀だ、それは誰よりも俺達が知ってる」


中年男性のねばっこいツンデレをどうも。俺達の誰よりも私が知ってると思いまあす。

いや、加藤が今の私を心配している理由だって知ってはいるのだけど、まあ、サービスで少し突っついてやると決めた。今後のための接待。コミュニケーションである。


「先輩の、同期さん……」


「……言うなよ」


もう大して悲しくないだろうに、言ってほしかったのだろうに、うつむく姿は少し滑稽だ。

この加藤という男はいつも、まるで自分が漫画の主人公であるかのように振る舞う。


いつも厳しいコーチがいる中、厳格なるベルトコンベアを言われるがまま「サー・イエッサー」と進んできたスポーツマン、典型的なアメリカかぶれの日本人だ。


縦社会の真ん中やや上のあたりをせわしなく駆け回っており、毎日毎日疲労困憊なのを冗談でごまかし、こだわりの車に乗り、乗らない時にはビールを飲み、仲間とともに強がり、高いプライドを噛み殺しては国家権力の犬に徹しているものの、やっぱり心の奥底では深い悲しみの受け皿を探している。


自分の事をそういう風に形作っているし、彼自身、誰に対してもそう思ってほしいのだ。


「ちょっと来い」


私は強く手をひかれてさっき入ったばかりのドアを出る。

暑苦しいため息のあと、普段より小さい声がさらに小さくなる。


「あいつも……最後の日、マル課に呼び出された、知ってるはずだろ」


知り合いなら誰でも知っている情報だ。なんなら皆、それが噂の発端なのではないかと思ってる。

両手が強く握られて、指輪をはめた大きな左手に、私の小さな薬指は覆い隠される。


「悪い。 馬鹿らしいかもしれんが、本当に……心配してるんだ」


「せ、先輩……」


そして、ほんの一瞬、まるで誰かに見せびらかすかのように互いの顔を重ね合った。


私はふらりと扉にもたれかかる。


「じゃあ、これ、ください」


加藤ははっとして下に目をやった。

そしてすぐに向き直り、眉間をくっと動かしてネクタイをひらひら動かした。


「お前は今までで最低の後輩で遅刻魔で、おまけにクソったれの窃盗の現行犯だ」


ネクタイピンをポケットに入れて、私はふにゃふにゃした笑顔を向ける。


「お任せくださいまし。 お守りにもってかせていただきます、相棒」


ドラマの一場面のような痛々しい敬礼をしてやると、彼は満足げにふっと笑って何か罵倒の言葉を小さく呟いて、青臭い背中を向け、音とともにドアの向こうに消えた。


私はすぐに背を向けてエレベーターへと向かう。


ポケットの中ではネクタイピンとスマートフォンがぶつかって、足音に合わせて大きく揺れて、更に小刻みに振動している。

どうでもいい。見なくて構わない。どうせ加藤と、その他控えめな二、三人からのものだろう。


乗り込んでボタンを押すと、パワフルな電動の扉が建前上、慎重に閉まった。


おおよそどれくらいで着くかわかっているのに、Bの文字が点灯したあたりで我慢がきかなくなってしまったせっかちな私は、ドアが開くと同時に思わず早足で飛び出した。


今の私の足取りは、たぶん誰から見たって楽しげに見えるのではないか。

そう、滅多にないアクシデントとは私の人生にとって貴重で楽しいものなのだ。


にしたって、マル課にお呼ばれするとは。


さてさて、これは思いがけない、ちょっとした非日常。

前髪は大丈夫かな。もしも殺されたなら私はどこに行くのだろう?


ちょっとしたスリルに未知なる何者かのミックス。ああ、ああ、きな臭くなってきた。

先ほどから明らかに私は私の意思によって、前にも横にも誰も通れないであろう道を自らの足で進まされていた。


見える景色はすでに私の知る警視庁の中ではなくなっている。

ここは建物のドッペルゲンガーだ。


曲がって、曲がって、また曲がる。マル課の場所は知っている。照明の数が減ってくる。薄暗い。とても薄暗い。暗いところってワクワクする。

錆びついた扉の前で、私は進めていた足を、だん、だん、だん、と止めた。


私はすでに、すっかり扉を開けてすぐ何かを始めるつもりになって腰のほうへ片手をやっていた。

『103』と彫られた汚いプレートが頭の上で私を見ている。


ここだ。誰かがいる。気配がするのだ。きっとそうに違いない。


いい。いい。ドラマはともかく、古いアクション映画は大好きだ。

だから、そう、”イピカイエ”とでも叫びたいところをぐっとこらえ——


「失礼しまぁす!」


そして、さっきまでの楽しい私はドアノブを思いっきりひねろうとして手首を痛めた。

ぴきりと電気が走ったあと、しみじみと”やったであろう”痛みが来るこの感じ。

ああ、ああ、確かに、確かにね、そう神様、私は確かに冷静ではなかったです。

至極真っ当な仕打ちだ。中に誰かいるからといって、鍵が開いていると誰が決めたのだ。


「すいませぇん」


ひどく、ひどく間抜けだ。愚か者は愚か者らしく、ドアを何度も何度も叩かせていただこう。

ノック、ねえ。まあ、大切だよね。それはそうだよ。人として当たり前じゃん。


「人隣ですぅ、ひ、と、」


——その瞬間、厳密に言えば次の“と”を言う直前だが、私はどこか、通路ではない場所にいた。




「……え、ええっ!? な……」


想像よりかなり劇的だった。


ちょっと、ええと、ファンタジックだ。そういう感じのお出迎えなのか。

私は後ずさりのふりをして、片足を少し後ろに下げて体の重心を保つ。


暗闇から突然強烈な光にさらされた事で視界はぼやけているけど、人影が二つ確かに見えた。


片方は男、もう片方は女だ。


男は座っていて、小柄だった。

女は比較的大柄。


となれば——


「いッつもこういうの隠し持ってる部類のナ・オ・ン、ってワケね」


小男に向けて銃を構えた。

はずの私は、体の前に両手を突き出して握り拳を作っていた。


小男は、驚いたフリしつつもね~ぇ、と続けて、呆れたように笑っている。

確かにそれは……その通りだったのだけど、今は本当に少しだけ驚いている。


じんわりと目が慣れてくる。

ずるりというか、どろりというか、妙な感触だけが手に残っていた。


私が構えたはずの拳銃を小男が握って、それをもう片方の女の子に向けている。

女の子はやめなさいと腕組みをしたまま言ったけど、派手な色のゲーミングチェアをぐらぐら揺らしながら唇を突き出すだけで、悪ふざけをやめようとする気配はない。


二人とも、おそらく私よりも、かなり年下だ。


「大人になってからは更に見下しを感じるけどね、座高はひっっくいのよォ、ホリデーさんは」


「いいから、あんたの背の話は。百回聞いた。イライラする」


女の子がようやく口を大きく開くと、ホリデーさんとやらが舌打ちをして私の私物を分解し始めた。


彼が座っている椅子のデザインだけは受け付けないものがあるけど、改めて周りを見ると立派な椅子や机がきちんと並べてあって、装飾品のひとつひとつは高級そうに見える。

小学生のころ初めて入った校長室を彷彿とさせる、迫力満点の部屋だ。だけど警察に関するものは何一つなく、日光が差し込んでいる窓から見える景色にだってまるで見覚えがない。


加えて、二人の服装のいかにもな黒服感といったら。エージェント風とでも言おうか。


……スーパーパワーズ説の提唱者、恐るべし。


その”エージェント風スーツ”がいい意味でなく、かえって似合ってしまっている小男は明るい茶髪をしていて、髪質は直毛で細そうだ。短い前髪を真ん中で分けている。

小男、座高だっけ、確かに背が低い。さっきから本人は笑って飄々としているつもりなのだろうけど、あのひどい貧乏ゆすりは目に余るものがある。家でも学校でもどこでも指摘を受けるはずだ。それを今日まで直さなかったって事は、少なくとも社交的なタイプではないはず。


一方、女の子の髪型は黒のベリーショート。

変形した耳を髪で隠さないどころか、ピアスの穴まで開けているのだから、おそらくは格闘技をやっていて、そして格闘技が本業だとはっきり自分の中で割り切っている子なのだろう。ぱっと見ただけでも筋肉量が私の比ではないのがわかった。それなのにちゃっかり小顔でスタイルを保ってしまうとは、なんとも頭の上がらない、羨ましい感じの美人さんだ。


私は仕事仲間にしたって釣り合っていないのではないか、という意味が伝わるよう首をかしげた。

さっきまで居た場所との急激な温度差に若干の身震いもしつつ、万が一に備えて道化に徹する、


「ここじゃ、過去はどうでもいい」


つもりだったが、女の子にぴしゃりと釘をさされてしまった。


「あなたがヒトラーでも、敵でなければ真っ当に扱います」


嬉しい誤算だ。こっちは年上に敬語を使ってくれるのか。

ただ、言葉の選び方には隣の小男のエッセンスを感じて、少しだけぞっとした。まさかね。


「正しくは、異世界転生してきたチョビヒゲ美大落ちのジェノサイダーでも、ねッ」


小男がぎしゃりと椅子から飛び降り、広い歩幅で歩み寄ってくる。

つまりこれは、私のボディチェックはもう済まされたという事なのだろうか。


「まあ、ミランダ警告より良いだろってハナシよ、人隣陽乃」


日本代表の現役刑事に向かってそれはないのでは。

私の引っかかりをよそに、小男は親指をグッと自分の顔に向ける。


「ここはウチのシマ。アァ~ンド? マイ・ネーム・イズ・檜コ(ひのきこかげ) (やすむ)


「そういう偽名って、アニメから取るの?」


ああ、やってしまった。いや、なんか、もう、いいかと思ってしまったのだ。生意気な子供相手に聞き込みするくらいの気持ちで返してしまった。しかし、まあ、今の私はよく言えば正直な、私らしくない私か。


この小男の名前は、とりあえず休くんらしい。


「そうそう、で、向こうのビッチは霞ヶ(かすみがそら) みぞれチャンね。ただし、ビッチリティはお前より上だからな。言葉に気ぃつけろや、あと死ねよ、何なら今すぐ殺してやるぜ」


嘘だろう。もう訴訟できてしまう。仮にもこんな立派な場に勤める者が、さっきの言葉一つでそこまで血管を浮かせるのか。


私はドン引きつつも体の向きを変えて、みぞれちゃんとやらには敬意を込めてお辞儀をした。

すると、みぞれちゃんは私よりずっと深々と返してくれた。いい子だ。


「人隣さん、ここ、警察の組織じゃないので」


「ザッツラ~イ。通路をダディから借りてるだけ。もっともっとデンジャラスな場所よ」


通路? ダディ?

つまり、彼の本当の苗字はお偉いさんのどれかと同じなのだろうか。


「じゃあ休くんは、ドラ息子なんだねぇ」


悪い癖だ。一度正直になると、ついついずっと正直になってしまう。

けど私自身の言葉には、いい子の彼女が笑ってくれていた。


「ふっ……すいません。わかってる。ほんとそう。最低」


「ファック!」


怒った彼は指紋の全然ついていないスマホを取り出し、さらにズボンで画面をゴシゴシと拭き取ってから私の鼻先まで近づける。


多分、殴るふりを兼ねていたのだろうけど、こっちは普段あんまりパンチをする機会がないらしい。

私がきょとんとしてみせると、すごすごと画面が全部見えるあたりまで腕を引っ込めてくれた。


私は屈伸して、ん~? ん~? なんて、下を見続ける。


「ファック・ド・ファッキンのメス豚。我々がお尋ねしたいのはこれについてのコトだけよ」


今まさにど真ん中に指紋がついちゃったよ! と指摘したいのをこらえて眺めたスマホの中には、この気の抜けたやり取りにそぐわない光景が映っていた。


防犯カメラの映像だ。


武器を構えた人が何かの衝撃を受け、あちこちに勝手に飛び回ってはその形を変えていく。

“変えられた人”から順に動かなくなっていくのがわかる。画面の外に吹き飛ばされたり、ヘコんだり腫れたりしていく。銃弾ではなくて、拳銃が二回ほど端から端へ飛んでいる。


そして逃げそびれた全員が少なくとも立てなくなってから、ふたたび再生ボタンが表示された。


空気がぴりつく。


「アンダスタン? これはしょ~~もない半グレのグループが次々ぶち殺されてく恐怖映像」


馬鹿なフレーズだけど、場がほんの少しシリアスな雰囲気をまとい始める。

三人とも、画面の中の死者につられたように誰も動いていない。


「これって……?」


と語尾を上げてはみたものの、おそらくとぼけても無駄だろう。

私はその光景に確かに覚えがあったのだから。


「とぼけんじゃねえよ」


とぼけんじゃねえよ、と来るかなぁなんて誰でもできる想定をしていたら、一瞬でそう来られた。

もしかすると逆に素直な子なのかもしれない。


「あのね、ち、違くてねぇ、この映像から私の何がわかるの?」


私はわざとらしく見えないマスクを被る。


いっそ警察らしく、ついでに悪党らしくもふるまってみよう。

たとえここがスーパーヒーローの集会場であったとしても、私の目の前にあるのは”恐怖映像”であって、人隣陽乃との繋がりを示すものなんか映っていない。


この手のハッタリは経験上、最終手段にすらならない。

どれだけ衝撃的な内容でも犯行と結びつかなければ単なるガラクタなのだ。


私は取り調べの師匠として、とりあえずのセオリー通りの一手を打ったつもりだった。


すると、


「そ、それは……」


休くんが露骨に後ずさっていく。

いやいや、いいから、そういうのに付き合わせないでよ。まだあるはずでしょ。

それがなければどうしてここに連れてこられたのだ。


「な、ん、て、なぁ! 吠え面かけや! 天パ!」


ああ。きみのせいで、私まですっかり頭の悪いファンタジーの住人だ。


しかし私は正直言って、こんな不思議な場所であまりにも想定通りのセリフばかり受けたものだから、それが不利に働くような段階ではないにせよ、不覚にもちょっとだけイライラしてしまっていた。


作戦だとしたらある意味大したものだけど、絶対に作戦じゃないであろう事だけはかなり確かだったので、なおさらきつい。だから、


「この髪型はねぇ、マッシュショートっていうんだよぉ」


知ってたかな、と言葉の最後に付け加えておいた。


私の悪癖のせいで、また罵声と停滞が始まる。


「これも百回目!」


こいつに任せていては話にならないといった様子で前に出てきたみぞれちゃんが、さらに休くんの前を素早く陣取ったかと思うと、襟を見事に掴んで、足をかけて強めに落ち着かせる。背中から鳴らせるとは思えない音がして、わずかに遅れてグエッ、と聞こえた。


「おお~、ありがとねぇ。私、ギリギリだったぁ」


「ごめんなさい。大丈夫です」


だけど、ここからの本題って実際のとこ何だろう?


カメラは角度や映像からみて確かにあそこにあったものだけど、尾行でもされていたのだろうか、だとしてもあれにもこれにも無理がある、とか色々考えているうち、話の早い彼女はまだ自分への行いに憤慨している彼に向かって、さっさとやれと顎でジェスチャーを送った。


チッ、と、これまた大きな舌打ちのあと、休くんが人差し指を裏返す。


すると、それに応じるかのごとく、横になったスマホが更に横にぐにいっと伸びる。

初めて見るテクノロジーだったので、私は声を出さずにおおっと口を動かした。


そして、横に伸びた画面の中には、ぼんやり立っているだらしない女がいた。


「どういう事かわかんだろ、こンのボケナスのダニ女!」


もう、少しも飄々とできていない。神経質丸出しで斜め下から叫んでいる。

みぞれちゃんが寄ってきて、この力について説明してくださいと静かに言った。


まあ、どうせ勝つにしたって、これでようやく少しは面白くなるのかもしれない。


「説明もなにも、この時は、なにがなんだか」


私は両手をみぞおちの前でもぞもぞ動かす。


「ここにいたのは最初から知っていました。人隣さんはこんな光景をぼーっと見ていた」


みぞれちゃんが淡々とした切り口で続ける。


「うん。情けないんだけど、私、怖くって」


「忘れないでください、これは取り調べじゃない。だけど、警察は目の前で人が死んでいく時、こうするものなんですか」


「あは……め、面目ない、よく言われるんだぁ」


私は自分の胸をぎゅっと拳で押しつぶした後、こうだぞぉ、頑張れ男の子、と目を斜め下にちらっと向けてやる。

案の定、彼はすぐに立ち上がってきた。ただし、みぞれちゃんに襟の後ろを掴まれたまま。


「俺達がこういうナメた奴をブッ殺すのが大好きな連中だとしたらどうするよ!?」


「証拠提出。それか、もっとうまい方法教えてあげるよぉ」


「それって能力で、ですか」


「えっ、何が!? ど、どういう意味ぃ?」


「ヒースかホアキンかくらい決めて来んだよジョーカーなら! キャラが一貫してねぇよなぁ!?」


「え~? それ誰ぇ? 休くんはぁ、どうしてぇ、そう思ったのかなぁ?」


「い・い・ねぇこの野郎ゥォ! 悪いねみぞれチャン! ホリデーさん今新しい作戦決めたのよ!」


「百一回目!」


どすん。グエ。あーあ。

これは本当にひどい場だ。どれだけ揺さぶっても無い袖は振れないんだってば。


エージェントの二人は全然、幼くて残念で、ある意味では楽しくもあるんだけど本当に残念で。


それでいて私はといえば、どこにも、手錠で繋がれもせず、ラリったヒッピーでいるのをずっと許されたままだから、あやうく白線の内側のきわきわのとこを逆立ちして渡ってしまいそうになる。


いや待てよ。ある意味でも楽しいと思ったのか、私は。


なぜかちょっと危うくなってきたのを察した完全有利で負けるすべすらない私は、停滞を打ち破るべく、また、朝食を抜いたせいでお腹も空いてきたので、そろそろ二人に救いの手を差し伸べてあげる事にした。


ぱん、ぱん、ぱん、と手を叩く。

場を仕切ってあげましょうと言うかのごとく。


すると思い通り、ばたついていた目線が私の方に集中する。


「えっと、二人は何のためにこんな事してるの?」


リロードを兼ねて、一旦、軽い雑談を挟もう。


「あぁ!?」


「いいから!」


みぞれちゃんは意図をわかってくれているようで、軽く咳払いをしてから、立とうとする休くんの肩を一度だけぐっと抑えた。逆に言えば、その行為は一度で済んだ。


「人探しをしてます。あたしと、こいつの両方。 友達を……違う人を探してる」


「それに私が関わってるって、そう思う?」


彼が黙ってくれているだけで話がものすごくスムーズに進むなあ。

だけど、まあ、二人には二人なりの信頼関係があるのだろう。

言葉のトーンでわかった。


「正直、違うと思ってます。だけどもし力を悪用しているなら、それはそれで止めなきゃいけない」


「なるほど、スーパーパワーの自警団みたいな感じの事だねぇ、アメコミだ」


「……はい」


取り調べの立場はいつの間にか逆転していた。

私は大人として、めきめき誇らしくなってくる。


「世の中にはそういう特殊能力を持った人がいて、私がそうじゃないかって、それも、その力で人をこんなにしてるんじゃないかって?」


「そう、あたし達の探してる力は時々、自立して持ち主の意思すら支配してしまう。中には悪事を働いているって自覚がない人もいるんです。すみません、人隣さんの事を少し調べさせてもらって。そして、あなたがその手の人だって可能性が大きいと思った」


「……だから、我々は、人探しのつ、い、で、としてね? 誰かヤバい奴を見つけりゃ助けてやんなきゃいけねえのよって。わかるか、アホカス、ブ~~ス」


休くんが静かに起き上がる。

この二人はどこかこの世のものじゃない感じがすると思っていたけど。


「資金はどうしてるの?」


「場合によりよりにけりって感じねえ。ただ、ホリデーさんはお前よりもはるかにリッチでね~え」


そっか、と私は頷く。その話が本当なら、ドラ息子があんまりな税金泥棒なのはともかく、少なくとも二人の動機は立派なものだ。


ふむう。この子たち、さては、どっちもいい子なんだな。

私はそういう事情ならと納得して、多少のギャンブルも良しと、弾を一発お見舞いしてあげる事にした。


「……ごめんね」


私がうつむいてそう呟くと、二人の目線がこっちに集中する。


「じゃあ、人隣さん……」


そして、みぞれちゃんが言葉を言い終わる前に、私はトドメの引き金を引いた。


「その人ね、うちの管轄の……有名なモンスターなんだ。檻に閉じ込められないの」


え、と小さく言って——


二人は沈黙した。

いつの日も、混乱によって静寂はもたらされるらしい。


「ウェ~イト。 待て待て待てよクソアマ、なぁに言ってる?」


「あ……と、つまり、これが人隣さんじゃないって事を言いたいんですか?」


「えぇ? だから、そっちこそ何言ってるのか……」


みぞれちゃんが情報を整理しようとしてか、横長のスマホを握る。

添えた指を右に向けてすうっとスワイプしてから、美人さんは思った通りに、


ごくり。

息を飲むところを見せてくれた。


にやり、だ。

正しい意味で今、カメラは私に向けられた。


「私から言わせれば、超能力者って、その……(めのうえ) 不動(ふどう)かなって……」


スマホの画面の中に人がひとり、増えていた。


無 不動。


私の知る限りの性格は過敏、凶悪、獰猛、時々理解不能。ご出身は年少。特徴、救い難い。

放っておけばひどく無造作になるボサボサ髪を、妹に無理やり連れられては美容院に行き、その度になるべく来なくて済むような形に整えてもらっている。

切られた細かい髪の毛が耳に入るのが嫌いだけど、シャンプーをされるのは好き。

見事なシルバーのアッシュは遺伝的なものらしく、それに驚いて褒めてくれた美容師を殺そうとして、すぐに妹に怒られてやめていた。


「ああもう、名前を言うのも怖い……私、本当にその子、ダメなんだよぉ……」


やや解像度の落ちた不動は、理解不能な“超能力”の隙間を二人に理解させるがため、欠けた文字列の穴埋めをするように、せっせと悪党をあちこちに殴って蹴っては投げ飛ばして、へこませては膨らませていた。あんな至近距離からの銃弾をどうやって避けているのか、意味がわからない。

モデルのような端正な顔立ちをひどく歪ませて、戦いの最中、ずっと爪を噛みながら肩で息をしている。


「だから、だからね、無線で応援を呼んでたんだけど……」


私は声を震わせながら”私”を指差してみせる。私はあの日やった通りに何やら口を動かしていた。


まあ、たぶん、なにとぞ応援願いますとか口パクをしているはずだ。

まさか、どうだ私、うまくやっているかい、なんて言っているわけがない。


……ないよね?

どうだっけ。


不動が空へ向けて自らを飲み込むほど口を大きく開け、そして普通の歯なら折れてしまうであろう力でまた食いしばって、ひどく化け物じみた四足の助走で画面の外へと跳躍し、再生ボタンが表示される。


「ンなら! おッ……かしいだろうが!」


休くんが高そうな椅子を蹴る。残念ながら、悪趣味なゲーミングチェアじゃないほうの。


「みぞれちゃん! おわかりよねぇ! ここでたった今『目』は使われたんだぜ! ナメやがって!」


「早まらない! ……もし今のが能力だったら、あたし達に見えるはず」


「目? 私が? それは、目は使ってるよぉ、見てるもん、世界」


すっとぼける私の体は、怒った休くんのかざしただけの手に強く押され、なぜだか背中全体を引っ張られて、壁に叩きつけられた。

痛みはなく、銃を奪われた際に手に残っていたのと似た、ずぶりと沈む感触が背中を包む。


「少なくともこいつは目の存在を知ってて何かの隠蔽に使ってんだ!」


ぐっと指を曲げ、変わる彼の手の形を見るたび、空気が重くなっていく。

あれれ、やっぱり殺されてしまうのだろうか、私。


いやあ、やっぱりそれもないな。


たぶん、この後二人は勘違いに気づいて、私を元の世界へと帰してくれるのだろう。

お見送りつきなら、みぞれちゃんにお願いしたいなあ。

休くんは、なんだか、出来の悪い弟みたいで、うっかり殺しかねない。


「死ねや、汚職刑事!」


私の周りにびょう、と強い風が吹いて、時間が止まった。


私はまだ死んでいないし、壁に固定されている以外の事は何も起きていない。


静寂の中の静寂だ。

デカ、デカ……なんて、彼の叫び声がこだましているように感じる。


絶句。沈黙。


ほおら、言った通りになったでしょ。




少し時間が経って、私は電車の走る音を電車の外で聞いていた。

ううんと、大きく伸びをする。


あの愉快なタッグとの最後のやり取りはこんな感じ。


「待って……」


あの後、彼女がある結論に至った。

ああ、と大きな声だかため息だかわからないのを吐き出して、彼は手を降ろして私を解放した。


「やられた。天然、マジモンだ、ただのイカれ野郎だわね、こいつ」


みぞれちゃんが駆け寄ってきて、申し訳なさそうに、それでありながらしっかりとした敵意をもって、手を差し出してくれる。


「何の能力も……ない。あんたには」


あれあれ、敬語はどうしたのかな。


さて、そろそろ、このとりとめのない話を私がまとめてみせよう。


要するに二人が追っているのはあくまで『第三の目』というのをもつ超能力者だけで、スーパーパワーは持っていても警察の権限は持っていなかった。

その他様々な取り決めがあるらしく、二人はそのルールに従ってくれたのだ。


風が吹いた後、どうやら私は尋常じゃない量の凶器を全身の急所に向けられ脅されていたらしい。


あんまりに大げさだと相手はパニックになってしまうのよと教えてあげるべきだったか。

それに、なんだかかえってギャグっぽくなるし。法律でどうとかではなくって、これが私個人がたとえ趣味の活動であっても拷問をよしとしない大きな理由だ。


まあ、私にはその凶器がいよいよ限界という辺りに差し掛かっても何も見えず、おまけに、既にその尋問の最中に他のどこかで能力によって映像がイジられてしまっていた事実があったものだから、私は最低でも彼らにとってはシロ。人隣陽乃は無能力者としてやむなく釈放されました、というわけだ。


「クソ。だったら、お前ってさあ……その、何してるわけ? ガチでの話よ、見たから我々、色々」


「さあ、どういう意味だか」


「すぐに送り返さなきゃならない。元の場所でいい?」


何かに急かされて、全てが早く進み始める。

急かされる理由は二人にはわからないだろうから、これも私が補足しておこう。

若いきみたちは恐怖を感じないように私をさっさとどこかにやろうとしていたのだなあ。


「ううん、できるなら、建物の外がいいなぁ」


「仕事はいいの? 人殺し」


彼女の発言にはすでに、軽蔑のニュアンスが混じっていた。


「あは! できる女だからねぇ」


二人にとって不快であろう最初の笑い声だけが響いて、また小さな沈黙があって、この非日常の終わりを察した。


名残惜しいが、仕方がない。


そう思っていたら突然、ひらめきと言うのだろうか、本当に悪い悪い悪ぅい癖さんから脳を介して直々に命令されてしまって、私はしかたなあく、最後にちょっとしたイタズラを実行すると決めた。


私は加藤から拝借したネクタイピンを取り出して、二人に見せつける。


「あぁん!?」


「何よ……それ」


「なーんだ」


ぽいっと床に投げ捨てる。かしゃん。二人の注意は一瞬、そっちにそれる。

楽しい。なんだかほんと、可愛い子たちだなあ。


「いらねぇんだけど? そんなモン」


無視して、指をすうっと持っていく。落ちたタイピンのほうへと。

彼女は顔を動かさなかったけど、しばらく待っていると二つの顔がきちんと私のほうへむいた。


さてさて、それじゃあ。


「ところで、この場所に名前ってあるの?」


英語まじりの長くてかっこ悪い名前が途中まで聞こえて、もういい、と遮られた。


光が消えて、もう一つ、まばゆい何かがそれに合わせてぱぁん、と消えた。




ひっきりなしに走る電車の音を背に、私は背伸びの余韻で思いっきりあくびをしている。


うっかりしていたんだけど、腰のあたりには元通りの硬い感触があって、びっくりした。

こんな所で確認するわけにもいかないので、一度バラされた私の”お気に入り”は二人がミスなく戻してくれたと信じるほかなかった。


まあ、あのオフィスが『マル課』なんて名前であるわけはない。


それは一つの、誰も知らない、まだ発見されてもいない事件から生まれた単なる噂だ。


そして面白いのが、それを誰よりも大きな声で広めたのは加藤なのだ。


おそらく、あの純粋で心優しい異世界エージェントから偶然かかってきた電話は、彼にとって、それはそれは恐ろしい脅迫に聞こえていた事だろう。


「地下三階の103に人隣陽乃を送ってくれ」


という風に、甲高い声か、あるいは野太い声で言われれば、それは加藤優にとっては——


「マル課にお前の共犯者をよこせ、全て知っているぞ」


と言われたのと同じで、実際、彼はそう解釈してしまったのだ。

今ごろ彼は”マル課”の前に、もしかしたら鍵をこじ開けて中にすら入っているのだろうか。


いや、入らないか。

殺されでもしないかぎり奴が入るわけがないな。


なんて自分と会話しながら、適当に時間をつぶすためにお気に入りのチェーン店に向かおうとすると、


「ミャオ」


と隣の子に声をかけられた。


おっと、そうだった。


お利口さん。


行き先はすぐに、ドラッグストアに変更された。




人目につかない、それこそ日中だって真っ暗な廃墟の中で、大きめのビニール袋を漁る。

たくさんの菓子パンをあぐらの大皿の上に取り出してから、隣の子に市販の鎮痛剤の箱を開けてやる。


ぱきぱき、ごりごり、という音だけ。

おそらく、みるみるうちに錠剤が減っていって、たぶん、なくなった。


袋の中に残ったもう一箱を察したのか、


「ミャオ」


と、男とも女ともつかない、人間の声で催促される。


「だぁめ、終わり」


またあげるからね、とよく言い聞かせる。

安くないんだから。


「ミャオ」


ちらり。


ううむ、やっぱり、そこに何がいるのか全然わからない。

そう、確かにみぞれちゃんが言った通り、”私には”何の能力もない。


ちょっとタイミングには恵まれているほうかもしれないが。


この『ミャオ』は最初の次、いや、あれは偶然だったかもしれないのか。とにかく、その次あたりの活動からずっと私の味方をしてくれていた。


ミャオには”ものを隠す”習性があって、完全に自立した存在で、具体的な指示なんかはこなせない。


隠してないじゃん、なんて誤算もたまにはあるし、なにしろ姿が見えなければ調べようもないので、そこにどういうきっかけがあって、どこにどうして隠しているのか、果たして隠されたものがいつ戻って来るのか来ないのかすら、ミャオに関して言えば何一つ確信がない。


存在を前提に行動するほど頼ってもいないのだけど、しかしながらこの見えない何かは私に非常に懐いているらしく、好奇心が旺盛で、さっき”隠しておいた”はずの監視カメラの映像の一部を”返して”くれたように、ときに驚くほどの鋭い勘と知性を発揮して懸命に助けになってくれようとする。


もちろん油断ならない一面もあるのだけども。

呼びかけを無視し続けたり、ご褒美のおやつをやらなかったりすると、必ずと言っていいほどイタズラをして存在をアピールする。


そう、もちろん、今まで私のために隠してくれてきたものの本質を考えれば、それはけっしてイタズラと呼べるようなものではない。たとえば、ある日突然自分のベッドの上にどかんと乗せられてたりすると、叱られるべきは私だと知りつつも、ついつい叱ってしまう。


いやいや、でも、あんなのは、あればっかりは誰だってそうするはずだ。

私を叱るなら、同じ光景を目にしてから叱ってほしい。ほんとのほんとに。


上の階でパキン、と大きな音がして、わっと軽く体が跳ねる。

びっくりした。物理か自然か、人か動物かオバケか。


オバケならば羨ましかろうと次から次に袋を開けてモサモサした甘いパンをかじっては、アリたちに施しをやる。アリじゃない虫も菓子パン食べるのかなあ。それにしたって今日はもう、絶対に冷たい牛乳をグッといきたい気分なのに。牛乳は大好きなのに。なんて勿体ない人生だろう。牛乳が体質に合わない以上の不幸なんてあろうか。


「ミャオ」


まあ、ミャオとくれば、昔の悪友についてはもちろん連想せずにはいられない。


いられないけど、ぽんちょはぽんちょだ。

姿がはっきり見えて、鳴き声はもっと図々しい。


ふてぶてしきおなか。おでこ、ぺしゃんこなりて。


私は袋の中にゴミをまとめてから、中身が漏れないようにしっかり結んだ。

あれ、もう一箱の鎮痛剤がない。


「ミャオ」


ああ。今日は興奮気味なんだね。色々あったもんねえ。


ぱんぱんと手を叩いて、シートを貼っていない指紋だらけのスマホをべたべた触る。


そしたら、ついつい、あっ、とふたたび声を出してしまった。

真っ白の小さい小さい吹き出しを見て、嬉しかったからだ。


黒猫のアイコンに『F』。フレンドのF、不動のFだ。


「なにかやったかおれに」


とだけ書かれていた。この秘密の連絡先は素敵な大虐殺の賜物だ。

文面の印象通りの子だなあ。私、明日にでも殺されそうだ。


察するに、ミャオの能力で何かあったのだろうか?

そういえば隠されたのも返されたのも一応は彼自身だった。

ごめんね、まあ、今さっき送られたメッセージだし、きっと誤差的なあれで、大丈夫だろう。


こっこっとスワイプした後、いや今はまずいか、と返信をキャンセルする。

ううん、もどかしいけども、あくまでも秘密の連絡先だし。


私にとってのミャオのように、彼には残念ながら、彼に誰も殺させずに美容院に連れて行くほど肝の据わったしっかり者の同居人がいるのだった。すごすぎ。

看護師、いや猛獣使いのごとく甲斐甲斐しく世話を焼く、ぽっちゃりしている妹だ。


そして驚くなかれ、兄の凶暴性なんかかわいいもので、妹の圧力ときたら本当にすごいのだ。


ぶっちゃけ、どうしてコソコソ接触せざるを得ないのかというのも、私も妹ちゃんに勝てない気がするからだった。

簡単に潰せるはずの女の子にどうして揃って屈してしまうのか不思議でならない。


兄妹愛のなせる業か、遺伝子のミステリー。

兄妹ってなんだか羨ましくて、私も不動と会う時には彼をお兄ちゃんと呼んでいる。


全てを知っているのに、届きそうで届かないのがモヤモヤする。


年齢上ってほどでもまだないはず、人間、たまには羽目を外したくなるよ。

“F”は私より若いけど、いやあ、こればかりは絶対に同じ気持ちだと信じている。


でも今日のところはこのときめきを諦めましょう。

妹ちゃん、たいしたものだ。長生きしたまえ。


ああ、“ままならなさ”が私を日常に引っ張り戻していく。


砂糖でお腹が膨れるたび、お預けを食らった気分になる。


体満たされ心満たされず。


——兄妹かあ。家族ねえ。


ほんのり、さみしい。


わが友ぽんちょよ永遠なれ。


「ミャオ」


母なら、このミャオの事だって、平気でダイヤちゃんと呼べてしまうのだろうになあ。

私はスマホをもう一度ポケットにしまって、そのまま硬い床にごろんと横になった。




「あっ、あっ、あっ、良かった、うおっ、本当に、陽乃っ」


柔らかいベッドに私は巻き込まれ、大きな手に手首を掴まれてしばらくめり込んでいる。

下から見る人の顔って、大体どうしようもない気分になる。

むさ苦しく揺れて、汗まで垂れてきて、照明をちかちか点灯させているならもっとだ。


彼は私の手首から手を離し、代わりに胸をわし掴みにして中心に寄せて、ふうふう顔をうずめる。

おお、よしよし。嬉しいんだね。愛情不足、愛情不足。

“本当の君は甘えん坊”というのは、現代病みたいなものか、はたまた昔からか。


「お前が、いなくなって、おっ、俺っ、もうっ、ダメだと思った、おっ、うっ」


せっかく腕が自由になったので彼のぐちょっとした頭を撫でてふにゃふにゃ笑ってやると、なんだかそんな私がとびきりスーパーセクシーだったようで、雄叫びとともにまたもや両腕を掴まれてしまった。


「後を追おうとしたんだ、もしもお前が殺されたら……お前まで死んだら……」


いち女として発信するのであれば、裸の男が夜、女の上で涙を流しながら尊いセリフを吐く時は、その前に自分の行いをよく振り返って、目玉の裏に濁りがないかを確かめておくべきだ。

だけど、もしも愛する者とやらの体に、朝に剃った髭を散々なすりつけておきながら、さらに傷を膿ませてやりたいというのなら話は別だ。この辺は好みによるのやも。


私は好きではない。


「うおっ、おっ、おうっ、はあっ」


——まあ、こんな馬力で思い切り殴られたらたまったものではないだろう。

あの日の彼女は勢いのまま頭を打って、裂けた顔をこちらに向けて二、三回ブルブルさせてから動かなくなって、それからゆっくり、それこそ安いドラマのように、血がマル課のホコリをまといながら床の上に流れ出てきた。


彼女は正義感が強く、加藤とは捜査方針の行き違いがあったらしかった。

私も彼女とは何度か寝食をともにしていて、どちらかと言えば加藤の敵は私の味方だと感じていた。


加藤はただ自分のつむじの前に腕を挟んで、うなり声をあげながら、顔をずっと床に向けていた。

レールから外れた列車は二度と線路に戻れないとでも言いたげに。戻り方を教わっていないから。


大根役者くん、我々国家権力とはいつの世も喜劇なら間抜けで、悲劇なら悪党ではないかね。


私は、ああ、と叫んで、倒れた女に走り寄り、顔の近くに息がかすかにかかるのを確認した。


ひゅ、ひゅう。


「……死んでます」


私は嘘をついた。

目を塞いだ加藤が、うおおお、といっそう強く唸る。


そう、人間は簡単に死んだり、ときに全然死ななかったりする。


刑事のお姉さんがアドバイスしよう、こういう時はすぐに救急車を呼ぶべきだ。

現場百回、誰よりも殺人を責めたて、誰よりも死体を見てきたはずのリーダーシップがこのザマか。


そして定番、天然で天才の相棒ちゃんは、ちょうど男のプライドが傷つかないくらいのミラクルを起こしてやるべく、とっくに計画を立て終え、息を大きく吸っていたのだった。


「先輩! 早くここから出てください、出て行って!」


はっきりした口調で大声を出す。


すると叱られれば絶対服従の人生を送ってきた者の悲しきサガか、あるいはそのプライドをもってして綿密に調べ上げた安全地帯に万が一にでも敵兵がやってくるのを恐れたのか、彼はドアを力強く開けて駆け足で消えていった。


私は足音が消えるのを待たずして、


「こんなの許せない。しばらく身を隠してください。チャンスはじきにやってくる」


血が髪につかないよう、一人の女の耳の穴めがけ、お望み通りの輝く激情をプレゼントしてやった。


その頃の私は単なる好奇心からミャオと特にフレンドリーにやっていて、生きた人間に対してミャオがどうするのか見てみたいというのが大きかった。そこに何かいる気がして、背後に向かって数回頷く。


すると彼にとっての死者で、私にとっての生者である者は血痕だけを残し、嘘のようにふっと消えた。


私はマル課から出てしっかりと鍵をかけると、地下を抜け、上へ上へと走ってすぐさま電話をかけた。

コール音が一度だけあって、息の上がりきったくぐもった声がすぐに聞こえてくる。

カチカチ当たる歯に、鳥のさえずり。


「もしもし、加藤先輩、聞いてください! 私、うまくやれましたよ! えっとぉ、ただそのぉ、物証だけがもう一押しで! あ、はい! デスクです!」


私はわざと何度もつま先立ちをしては踵を下ろして、会話の内容なんか無視して、適当にはい、はいと空中に向かってお辞儀をして笑顔を作っていた。


スピーカーに添えた手を離して、彼が憧れと呼んだベテラン刑事たちに向かって照れくさそうに頬を赤らめると、気さくに紙コップのコーヒーを突き出したり、微笑み返してくれたりした。


そして、そんな和やかな職場の様子を察知したであろうお人は焦りきってしまっていて、ああ、ああ、わかった、わかった、それは、それは、俺が、俺が、と繰り返して、風の当たる音とともにすぐに電話は切れた。


私は自販機にお金を入れて、オレンジジュースを片手に階段を降りた。

オレンジジュース、何歳になっても大好きだなあ。


えっとぉ、と加藤のデスクを探すふりをしながらマル課の鍵をこっそり仕込んで、それでおしまい。


「ミャオ」


確か片頭痛がしていて、ミャオのご褒美には食べ物よりも食べ物以外が良いと知ったのはその辺りだった。


そういえば今まさに私が揺られているこの場所もまあ、メンツで言えば、マル課と言い張ればマル課なのか。


繰り返しの吐息の中に人間の声のノイズが混じる。


おお、おお、ああ、ああ。

決まったリズムに決まったセリフ。

照明の点滅の感覚がだんだん短くなって曖昧になる。


やがてノイズが耳障り極まりないものとして明確になると、加藤は私をぺしゃんこにし、おう、おう、おう、おう、と繰り返しの声をフェードアウトさせて、やがて満足気にぐったりして動かなくなった。


ぐっしょり濡れた頭の後ろから昇ったライトがぐちゃぐちゃの私をまばゆく照らす。


今日は贅沢な日だ。


それからしばらくの間、電気がついたり消えたりしていた。


三回ほど点灯が繰り返された後、


「みゃあーお!」


シャワーから戻った加藤に向けて、彼自身の汗臭いぶかぶかのシャツだけを身にまとった私は、なるべくかわいこぶって手首を丸めてみせる。


「何してんだよ、気持ち悪ぃな」


マル課の隠蔽からだいぶ経つ。


「あは。せんぱぁい、今日はびっくりしたでしょ」


わざわざ消した大きな画面の中にはぺたんと座った私がいたのに、彼ときたらあっさり電源をつけてリモコンをいじり始める。


「なあ、言うなって。当たり前だろ、心臓が飛び出すかと思ったが、絶対に逃さねぇ」


「イタズラにしたってねぇ。あ、シャワー行きますね」


「おう」


不潔だけど、こういう場所は全てがスムーズで嫌いじゃない。一人で全然、ずっとここで暮らせる。

ほんの少し歩くだけで生活たちがそこに待っていてくれるから。


私はお湯のレバーを思い切りひねって、壁から顔をぴょこっと出して、大きな声で聞いてみた。


「せんぱぁい!」


「話したいなら湯止めろ! ウスノロ!」


ウスノロだってさ。


細やかな気配りに感謝してほしい。きみに怒鳴られるためにレバーをひねったのだ。

男に欠点を指摘させて、いい気分にさせるための、女の健気なご奉仕だ。


そう、男はナルシストで、女はマゾヒストだ。


あの加藤という男は女があっさり道具に変えてしまえるプライドを大切に両腕で抱えている。

私はといえば小くて軽い手でお湯をきゅっと止めて、ボディソープをかこかこ押している。


自分の姿を正しく映す鏡をかち割れるだけの腕力が女にはない。

だから私は女に生まれて良かったと思う。


劣化したシャワーヘッドが何か言いたげに湯を漏らす。


ぴた、ぴた、ぴた。


水滴がゆっくり落ちていく。


何かが罪人の隣に座っている感じがする。


静まり返った浴室で、私は今度こそ、顔を鏡のほうへ向けて、はっきりと尋ねた。


「ねえ、あの人の事、好きだったんですかぁ」


“あ”の口のまま、私は笑っている。

鏡の中の私が間抜けな顔を見て心の底から笑っている。


しばらく声の反響だけがあって、


「なあ、もういい加減にしろよ! うざってぇんだよ! あんなの、昔の事だろ!」


罵声が私と、誰かの鼓膜を揺らした。


どこにどうして隠しているのか、隠されたものがいつ戻って来るのか来ないのか、私は何も知らない。


オスなのか、メスなのか、そもそも猫なのか人なのか、やっぱりオバケなのか。


果たして私の事が好きでついて来ているのか。


どうでもいい。


男性諸君、まさか”女は上書き保存”なんて世迷言を信じて生きてはいるまいね。


私はせっかく洗った体にタバコのスモークをたっぷり浴びて、酔い潰れてゲロまで吐いた彼へのカーテンコールを済ませ、タクシーを呼んで、深々とおじぎをして、下がりきった幕の裏側でブザーの音を聞き流し、車の楕円のフラッシュの中に棲む女をプラキシノスコープのアニメーションに見立てながら大げさに歩いていた。




「じゃあ、お仕事行ってくるねぇ」


翌朝、愛する夫はいつものようにカーテンを閉め切って、モニターに向かっていた。

何着もあるグレーのスウェットのしわの上で、影がわずかに点滅する。


繰り返し、繰り返し、コントローラーで殺し合うのがそんなに楽しいのかい、愛しい人。

きみもご存知の通り、私は殺しが好きだけど、自分のランクまでは気にしない。


ひとを殺さば、レートは動かずとも、必ずや何かが変わるものだ。

そんな中、きみだけはまったく変わらないね。


「愛してるよぉ、行ってきまぁす」


今日も今日とて返事はなかった。

ならば片思いか両思いだ。


上等、上等。




手すりが役目を終えた気分で、ただ姿を映している。


私の毎日の中で唯一失敗と言い切れる点は、両親になるまいと生きてきた私の生涯の半分が、もうとっくに両親の片割れ、いや、それ以下になってしまっている事だ。


グレーな彼とは一目惚れで、似たような境遇で、価値観がすごく合った。


だけど他に好きな子がいて、その子はけっして手を出していい年齢ではなかった。


だから私という慎ましやかで計算高い女は、未来を見据え、あえて、それにリボンを巻いてプレゼントするといった一大企画を用意したのだ。


二人きりにするのにかなり苦労した。

上手なラブレターを書こうとするみたいで、やりがいこそあれど、とにかく難しかった。


女の子と直接の接触ができないのが辛かった。大して知らないのだ。これは結局は自分のためになる事で、自分で決めたと理解しているのに、私は幼稚にもイライラしていた。主義に反する何かに強い憤りを感じるようになったのはそれからだ。


なにか、今日の私は、電車に酔っているので、立ち上がる事を選ぶべく、ドアの近くへ移動する。


あの男が好きで、今も好きなのは、たぶん間違いないけど、


私はそれまでの全てを、名前も知らない衝動によって行ってきたから、方針や計画よりも、スイッチを入れっぱなしにしておく事のほうが私にはとっては、はるかに重要であって、ラフスケッチを自分で描く三月ウサギの身でありながら、ハードルの高さすら考えた経験もなくて、それってつまりゴーストライターとしての私が誰かを薄氷の台座から落ちないようにしなきゃいけないって事で、私は劇的なシチュエーションの外では、台本通りの演目の中では、オーケストラの指揮者になりきるにも、人形劇のビラをおどけてばら撒くにも、結局、努力も実績も足りなかったのだ。


もちろんスポットライトは一度も私を照らしてくれていなくて、いや、だって彼を照らしていたから、それは理不尽で然るべきなんだけど、むしろ、ボロボロのセットの上で腰を老婆のようにひん曲げながら、やれやれと小道具を組み立てては小さなアクシデントにいくつか見舞われて、てんやわんやの精一杯の小躍りで、虚無すらもいちいち笑いに昇華して、あっぷあっぷ無様に溺れながらどうにか成功させた感じで、ようやくひと休みできる頃にはベロをへえへえ出すほどにひどくくたびれていた。


体が、特に頭がすごく痛くて辛かったけど、確か、私は社会に出る前にあらゆる洗礼を受けたのだと前向きに考えようとして、しばらく会えなくなった彼が飛び飛びの音声データの中で正気を失ったように大声を出してはしゃいでいて、目玉が飛び出るカートゥーンってけして嫌いじゃないんだけど、なんだか釈然としないまま、ええと、そう、次の日が幸運にも休日で、一日ぐったりと眠ったのを覚えている。


とにかく彼がその後の人生を楽しんでいる間にも、私は私の事に専念していた。


比較にもならないほど楽だったのが印象深い。

私はやるべき事をやり着々と経験を積み、彼をいずれ自由の身とするべく警視庁の内部に潜り込んだ。


そういう意味なら私は確かに『特例ちゃん』なのか。


いや、だけど恋愛面に限って言えば、私の知る”私”はかなり一般的な女だと思う。

ごく単純なマゾヒストだから、好きな人のために頑張れる。


そう、それはちょうど加藤に気に入られた辺りだったか。


愛しのアダムはその頃にはもうとっくに楽園に飽ききって、自らサインを送ってきた。

そして私が公衆電話のボタンを数回押すだけで、あっさりと彼の初恋の時間は終わりを迎えたのだ。


彼の望む言葉は勉強や仕事の合間にたくさん考えてあって、ちゃんと全部伝えられた。

すると彼は今すぐ会いたいと言ってきて、特別な部屋を暗くして、ほんのちょっと甘く触れ合っただけで、目からぼたぼた濁ったよだれを垂らして、まるで亡者が地に落ちた裸の女神を貪るがごとく、身勝手に崇め始めた。


心地よかったけど、そのためだったはずなんだけど、好きなはずなんだけど、なにか違った。


退場すべき者、彼とともに青春を過ごしたイブはといえば、幸運にも私が”ガサ入れ”に入った時には完全に壊れていて、そして私の人生にあれ以上の苦労があろうはずもなく、正義感を身にまとうだけで簡単に管理下に置くことができた。代理の男が誤解だと騒いでくれたのもラッキーだった。


喜び勇んでいたであろうみすぼらしい男のそれを見た私は、あんなひどい状態になっても我々女の子の体には価値があるのだなあと学んで、それを今でも精神的な支えにしている。いや、だからだらしなくしているという言い訳ではけしてなく。


彼女は股を開きながら、顔だけをコラージュしたポルノ画像みたいに笑っていた。


夫は夫になった後、最後は彼女に泣かれても笑われても嫌になった、と被害者目線で語っていた。


これは想定外の出来事だった。

弱い女を支配し続けるという行為の副作用はすっかり在りし日の面影まで歪めてしまっていて、彼はどう解釈したってつまらない人間になってしまっていたのだ。


人生の寄り道ついでに女の子をあんな風にしてしまうなんておかしい。


レイプへの嫌悪感はその時に、実感って言うわけにはいかないけど、刑事にしては遅くも覚えた。


まったく、もう。手間がかかる男だ。

当時は良いアイデアだと思ったのだけど。


最近は昔ほど食べないし、その優秀さにすら説得力を欠いている。


現代のアダムが林檎を捨てて画面にかじりついているのをご存知なのだろうか、主は。

寝耳に水ではなかろうか。


見かけるとすぐに浅い共感を抱き、自分の好む素質を見出しては、崇拝して、見限って、次。

彼のチップとはつまり私のチップで、負のループの速度は通信速度に比例して容赦なく上がり続ける。


刑務所に入れてくれ、もう死にたいんだ、なんてふざけたイカれた事を言い出す日もあって、私も愛想笑いが隠しきれなくて、相手が愛する夫だからと、ナンセンスを喉の奥にしまい込んで、それでも溢れ出ようとする彼への衝動を書いて字のごとく転嫁してしまう日も増えた。


そりゃ、警察だから、火種なら他よりどこより、そこらじゅうに転がっている。

だからって、湿気た火薬でどうして花火を打ち上げられようか。


あれが私が望んで得た家族なのか。


彼に私を愛さない理由はなくて、愛する義務までつけてやったのに。


死にたいなどと。


途中で電車が停まって、ドアが開く。

いつもの人々が入ってくる。


だけど、そう、こんな有り様でも、トータルで言えばまあまあだ。

私はたぶん、まあまあ幸せだ。


だって、車窓に映る自分は少しも母に似ていない。


彼女は彼を蹴飛ばしたい時、どう対処していたんだっけ。

それに関してだけはよく見ておくべきだった。


スマホの通知が止まらない。


想像は簡単についた。

おかげで、しばらくは夫を甘やかしてやれると思う。今の彼がそれを望むのならば。


噂が噂でなくなったなんて、未解決事件を解決してしまったも同然だ。

お手柄じゃないか、人隣陽乃。




電車を降り、昨日と同じ鳥を見かけてご挨拶。

息を切らしながら建物の中に入ると、やはり地下への人通りが激しくなっている。


せわしなく往復している人をちょちょいと引き止め尋ねると、マル課の中で二体分の遺体が発見されたのだという。


よいよい。万に一つも、あのかわいい二人って可能性はあるまい。

エレベーターで上に登り、ちょっと歩いてドアを押す。


穏やかな静けさとともに空気の清らかを感じて、多少の動揺はあれど普段通りにコーヒーをちびちび飲む同業者たちを眺め、さして変わらない部屋の中で加藤優の全てを悟り、私も同じく普段通りのサスペンションに腰掛けて、つまらない仕事をこなし、お呼び出しの時間まで暇を潰す事にした。


撤収はとても早く行われたそうだ。昼過ぎ、その他数名と同じく、だいたい等間隔の時間配分に順番で、とても気を遣われながら取調室にエスコートされた。


私は被害者二名の事を知っていて、その時間は家で夫と過ごしていて、もう一人と口をきいていなければ連絡など無論とっていなくて、どうしても加藤との関係を打ち明けろと言うのであれば、互いに既婚者でありながら加藤に何度も抱かれていました、とありのままの真実を伝えた。


そしたら、年上の女刑事に馴れ馴れしく肩をもまれ、もしも好きだったのならという前提のうえで、あなただけじゃなかったのよと嫌味な感じで釘を刺された。


くだらない女だ。


確かにこれで加藤の本命なんか永遠にわからなくなったのだから、言いたい放題言ったもん勝ちだ。

だけど死体にまで一番好かれたいだなんて。


ひどく強欲で趣味の悪い女だ。


ちかり、と通路の窓から光がさす。


おばさんはともかく、私はこれで現場へ行く事なく、状況を詳しく知る事ができた。


言葉にすれば驚くほど簡単で、”被害者が時を経て犯人に反撃、あえなく相討ちとなりました”。

これが現実に生きる人々の正しい結論だった。


まあ、我々警察からすれば、そこにご遺体が一部でも見えさえすれば、場合によっては少しばかりドラマチックで薄気味が悪くなるだけの事で、そこに噂なんか生まれようがないのだ。マル課は人通りが少なく、狭くて物がほとんどない。愚かにも恨みをもって殺すだけなら最適の場所だ。


私は連絡先とメッセージのやり取りを消して、かつてのマル課に思いを馳せた。




外はもう暗い。


帰り支度の途中、大きな時計があるのにわざわざスマホの時計を見た。


ほんの先ほどまで、私は階段を下へ下へと下っていた。


不思議と何度も途中で足が止まって、到着に時間がかかった。


薄暗くて、いつでも冷たい場所。

手に負えない何かが起きたら真っ先にここに避難すると決めている秘密基地。


ん?

地下って、もしかして。

どうなんだろうか。ダメなケースもあるのか。


しまった。見学に来た子どもたちを守る判断基準が全くなってないとは。

私は生き残る自信があるけど、もしも死なれたら刑事のお姉さんはすごく悲しい。


あれ。

秘密基地、単なる空き部屋なのか。


また足が止まっている。


ううん。

なんだか今日、いつもより、いまいち集中できていない。


マル課は今や、皆にとって、この建物にとって、なんでもない、危ないだけの地下の一室。

エージェント二人とのやり取りも浮かんできたりして、なんだか混沌とした気分になる。


扉の前に立って、部屋のプレートを見る。


本当にお別れなのだろうか、なのでは、と曖昧な自問自答。


曖昧な自問自答か。


それって、旦那がよく聞いてるネットの曲のフレーズっぽいな。

音楽と資本主義の相性はいにしえより抜群だけど、はたして簡単に混ぜていいものだったのか。


しまった、その解をフェンタニルなんかに例えてしまえば、かえってネットの曲みたいだ。


血・血・血・チープにパン!と、舞夢れ照れキャスター、Nietzscheモンのあたし未定、ルラルラダッダ。


ああいう作詞の人って、別人のはずなのに、私の世代からずっとおじさんなのはなぜなんだ。

そして、そのおじさんが、わが夫という一人のおじさんのハートを見事にとらえているのはなぜなんだ。


私は同じメロディつきポエムなら、どうせならビートルズを聴く。まだ一曲も聴いた事ないけど。


空き部屋をぼーっと見つめる注意力散漫な女は、それこそ今や103くんにまで愚痴をこぼしている。


たぶん、寂しいのだと思う。

不明瞭な余韻が頭のどこか片隅に、検査結果待ちの腫瘍のごとく居座っているのだ。


ここでなくとも、おかしな場所なんて別に、何にでも、どこにでもある。


現実は人を遠ざける。


噂に人が寄ってくるのは、噂の価値が現実よりも勝っているからだ。


フィクションは魔性だ。


なぜ、どうしてこんな事が。

だって、こんな事はおかしい。

ゆえに、ほら、やめてよ、なんだか怖い。


なぜ、なぜ、なぜ。


疑問ばかり、アリにエサを施すように。


なぜって?


私が思うに、神に誓って予告編より面白い映画はない。

映画のクライマックスが客の期待を常に裏切り続けているように、現実がひどくつまらないからだ。


たぶん、陰謀論者とかいうのは、信じているのではなくて、すごく信じたくない人の集まりだ。

そして、現実からの挑発を勝手に受けては、あやふやにしなければ気がすまないのが私みたいな人間だ。


つまらないからという、天と地がひっくり返りそうな理由だけで。

それは私達、言葉を使う者にしかできない凶行だ。


「ミャオ」


空白に線を引いて結ぶように、私はこの見えない何かをミャオと呼ぶ。

ミャオと鳴くからミャオと呼ぶ。


マル課の鍵はもうどこにもない。

たぶんミャオのイタズラか。


まだ立ち止まっている。


だけど停滞を恐れている。


「すいません、人隣です」


なんて、私はルーズなのに、他人の事となるとせっかちだ。


鍵穴の中の小さな異世界に届くようにぽつりと呟いていた。


しばらく様子を見て、何もなくて、電池切れを起こしてずるずる座り込む。


耳を塞いでみる。

壊れたレコードの音を聞きたくない。


今日で諦めきれなかったのだから、きっと明日もそうするのだろう。


向こうに置いてきたレモンの爆弾が、いつかこの部屋のどこかで爆発すると決めつけて。


その明日も、そのまた明日も。

幼い私はガラスケースの中を羨んで空想をめぐらせていた。


マーケットに並ぶ商品の売り文句は母にとっての魔法の呪文だった。

父のテレビは退屈な時間を潰してくれる魔法の水晶玉だった。


私の魔法はといえば、そんな二人の魔法使いを倒してからずっと、言わずもがな。


じゃあ、白猫にとっての魔法とは何だったのだろう。


彼にとって何が日常で、何が非日常だったのだろう。


開けた窓から跳ぶだけで日常から脱却できるものだろうか。

そこに待っているのはやはり、何かの繰り返しではないのだろうか。


だったら、なぜ?


なぜ。


増える、増える疑問とともに、暗闇に目が慣れてゆくように、ゆっくり、ゆっくりと、心の中から、経験した事のないおぞましい何かがこみ上げてくる。

私は闇の中から大きな鏡がぬらりと現れる気がして、いよいよ自分の顔が何かに映るのが怖くなって、自嘲なんかではとても耐えきれなくなって、たまらず目を閉じた。


仮定が鋭利な爪を立てて私の首をなぞっている。


もしかして、彼は私よりも多くの事をわかっていたのではないだろうか。


あの飛翔は家族で唯一、本当に優しかった彼が解き明かした真理だったのではないだろうか。


それが真理であればあるほどに、遠い遠い場所に彼はいるのではないだろうか。


脳から落ちるクエスチョンマークは頭に、首に、どんどん溜まっていくばかり。

いよいよ血管までも圧迫されて、酸欠を起こした私が扉に手を伸ばす。


意味もないのに手を伸ばす。


だって、中を猫が歩き回っているからだ。


もう、どんな窓辺でどこを眺めたって、頬に重みを感じる夜はないからだ。


ぺたり。

両手が冷たい床にたどりつく。


リアリティの中に残ったフィクションが私を扉の前に縛り付けている。


部屋の中を光が移動しているのは絶対なんだ。


鍵穴のレンズから放たれた四角錐の光線が、だらしない女の頭に阻まれては古びた壁のスクリーンに欠けた映像を映し出している事に気づいた私は、朦朧とした意識の中で扉をなんとか背にして、まるで今から殺されるみたいに、みっともなく荒い呼吸をしながら、すがるようにその映像を見つめていた。


すると、映像の中の幼い私は、私の視線を確認すると、私に向かって頷いて、部屋の窓を開けた。


「ウッ」


暗闇の中、太っちょの友が窓から跳んで、今度は一度だけ振り返った、


そして、彼以外の全てが巻き戻って、私は私を見つめたまま、窓は閉じたままになる。

その奥のまた奥に、かすんだ私自身は、そんな所にいた。


どうしたって伸ばせない手をまた伸ばす。


どうして。

そのまま、こっちに来て、この手に触れてくれるだけでいい。


だけど彼は一匹の英雄だから、すぐに背を向けて、現実の暗闇へと消えなくちゃならなかった。


ねえ。ねえ。行かないでよ。


まだ君に片頬を預けてないとまともに考えられない問題が残ってる。


刑事さんになったんだ、腕前だって、見てもらいたいのは、きみにだ。


ええと、ええと、きみは実際、ダイエットに興味はある?

そうだなあ、その、どうして私達の作戦は失敗に終わったんだと思う?


だめ。だめだから、そこで待ってて。


さあ、繰り返しの非日常があれば、いつの日か、それは日常となり得るのか?

じゃあね、ひょっとして、私は今、きみとは違う暗闇の中を探しているのかな?


それから。ねえってば。


もしかして、本当は——すごく怖かった?


それなら、だったら、だとしたら。


なぜ。


なぜ。


なぜ。


「ミャオ」


ぶつん。


お決まりの声のエコーがテープを切って、その後、全ての光が一斉に消えた。


何も見えない。


何も。


暗闇に静寂。


すぐに耳をつんざく、ブザーの音。


目は暗闇に慣れていく。

ブザーは侮辱に化けるほど長く、時に途切れては、また長く鳴り響く。


はっきり見える。


ミャオか。よしてよ。

どうしてこんな時に意地悪をするのかなあ。


いつも見てる舞台の上だ。

こんなのイタズラにも何にもならないよ。


客席ではざまあみろと、死人の群れが大口を開けて、あごを上げ下げしては私を指さしていて、家のセットの内側で、からくり仕掛けの男と女が下手くそな猫の鳴き真似をしていて。


瞬間、ライトがばきんと鳴って、舞台は激しく揺れ、私は床から飛び出した釘に足の裏から足首までを一気に貫かれて、その痛みに余裕を忘れ、思わず悲鳴を吸い込んでしまって、割れたライトから降り注ぐガラス片が私を避けるように、すぐに殺さないように、周りに円を書き、滝のように流れ落ちては割れて、癇癪を起こしたかのように絶叫に似たノイズを運んでくる。


ガラスのノイズは一向に鳴り止む気配はなく、私は何度も濁音の混じった小さな悲鳴をあげては左右に飛んで、その度に体を釘やガラスに貫かれて、終いにはただただ激痛におびえて、たまらず背中を丸めてしゃがみ込んで、涙をばたばたと血にすり込みながら、両方の手で耳を塞いでいた。ひびの入ったボロの舞台は輪郭をますますくっきりさせて、いやに鮮明に私と観客の姿を映す。


私は目を大きく開いて、気を失わないように必死に呼吸していた。


いつも見てる、


まとまらない思考。みすぼらしい格好で、ひい、ひい、と情けなく喉を鳴らしながら自らの肩を抱いて、言葉にするのもおぞましい一方的なブーイングに、重く尖った何かを必死で飲み込んでいる。


いつも見てる、舞台じゃない。


はっとして両手を耳から離すと、ぬるい液体がつらっと流れる感触があって、それと同時に、延々と降り注ぐ激しいノイズの中に駆けてくる気配を感じる。


そして、ジ、ジ、という数回の光の点滅が訪れた後、バン、と音が聞こえてきそうなほど、そして目が眩むほどに派手な何色ものスポットライトが舞台袖のあたりを照らして、眩しさのあまり、私は片腕で目を庇って、釘の上にもう片方の手をついて、ひどくのけぞった。


大歓声とまばゆいライト。軽快なジャズバンドの演奏とともに、血と釘とガラス片にまみれたこの異質な状況で、侮辱だけが私を置き去りにして、みるみるうち、辺りは最高の空気と、大きな賑わい、何よりも明るい高揚感に包まれきっていた。


ジャズバンドの最高の演奏に、真っ白なライトアップ。豪雨の中、身を切りながら、何者かが大げさな身振りで登場する。熱狂が打ち上がる。客の歓声に限りはなく、さらに口笛までもが勢いを増していく。


その何者かは肉をまとった真っ赤なドクロを風船みたいに膨らませて、これは困ったぞ、傘はどこなんだ、とおどけている。


客席が沸き立つ。死人が手をひどく叩いては折って、笑ったまま口が塞がらないものもいるようだ。


私はその光景にぞっとした。

異質さなどどうでもよく、肉や血などもどうでもよく。


演者の動きの一つ一つが、本当に心底、痛みなどかき消し、許せないほどに、つまらなかったから。


それは何かにもたれかかり、キザなポーズを決めて、透明なタバコをふかしている。

やがて、今気づいたよとでも言いたげに意気揚々と歩み寄ってきて、ん、ん、ともたついた後、腰からそっと見えない何かを取り出し、左眉と口の右端を上げ、何度も瞬きをして、くるくると回して、私の目の前に置いた。


目の前にもう一つ、小さな光の円が生まれる。


そして私に勇ましく、ずたずたの背中を向けて何歩か歩くと、ぐるり、振り返り、両手を広げて、こちらを向いたまま頭を下げて、さらに腰を前のめりにぐうっと曲げて、首をかしげる。おまけに奴は私を急かすように、その両手で自らを小刻みにあおいだ。


観客が笑う。


座り込んだままの私が睨みつけると、奴はしゃきっと背筋を伸ばして、腰に両手をあてて、あごを首に頭が入るほどひいてふんぞり返り、眉をきゅっとひそめ、首と指を何度も横に振って見せつける。やがて手を耳にきつくあてて、背中を丸めてしゃがみ込み、痛めつけられた私の真似までしておきながら、勘弁してよとでも言いたげに顔をしかめ、手で鼻の前をあおいだ。


私に指をさす。


また観客が笑う。


その笑い声を受け、客席に向けて満足気に大いに頷き、また誇らしげに両手を広げる。そして私に向かって頭を下げて、腰を前のめりにぐうっと曲げた。


観客はずっと同じ調子で、ただ笑っている。


それの繰り返しが延々と。


繰り返し。


繰り返し。


ぎちぎち張り詰めた糸が、ぷつん、と切れた。


きみは天才かもしれないな。


私に殺される事にかけては。


ひどい舞台ほど長く続くのを誰よりも知っていた私は、がらにもなく、言葉にならない罵声をぶちまけて、ガラスだらけの床を思いっ切り拳で叩いて、深く深く呼吸してから置かれたものを手にとり立ち上がった。右腕は繋がっているのかいないのか、もう使えない。この左手すらもダメージで震えている。だけど不思議と、必ず奴に届くと確信している。


今の私の顔はきっと、私だけが知る人隣陽乃だ。


飛び上がった赤い骸骨はドラムロールの音とともに両手を首の後ろに置いてゆっくりと膝をつき、客席のほうを向いて震えた。それが再びこちらを向いたと思えば、何度も何度も頭を素早くごつごつびちゃびちゃ床に叩きつけて、両手を前に突き出したり、くっつけておじぎさせたり、組んでシェイクしたりして、何かを懇願しては、たっぷりと時間をとって、客席の方へと頭を戻す。


それは台本にないんじゃない? きみの頭の上に乗るはずの林檎はどこに行ったのだろうね。


「ミャオ」


「あーあ、きみは今まで見た中で一番のクソったれで——あはッ! 違うよねぇ、ヤッバぁ」


違うよお。死人に口なし。パロディほど簡単で粗悪なユーモアもない。


「つまり”私の美学に反する”のが私は嫌いなの。極刑に値するほどに。きみがそう」


さ、だらしない女のしまらない決め台詞はここまで。

殺す前、こんなにあからさまに予告するのって初めてだ。


ドーパミンが自分勝手に最高潮を迎えている。


私はみじめな暗闇の中、誰かに向かって、見えないロックまで丁寧に外してから、指を丸める。


乾いた炸裂音と火薬の匂いが混ざって弾け飛んで、どすり、体が小さく震えた。


腕への衝撃はスロー映像のごとく、繊維を引きちぎっていく音すら体の中から聞こえるくらいで、それからほんの数秒遅れてお腹の辺りからずうんとした脱力感が広がって、コンマ数秒ごとにそれぞれの苦痛が鈍くなっていく。


だけど、辺りは綺麗な白に染まっていて。


次から次へと、ぽつ、ぽつ、水中に絵の具を落とすように新しい色が広がって、照明たちも機械的な光沢をすっかり無くして、なんだか、お客さんはどこに行ったんだかわからないけど、風船がたくさん浮かんでいて、見ているうち、その中に色の光がつまっているのだとわかって、空白の景色をもっともっと灯して灯していっぱいにしたいと思って、続けて引き金を引いて、それからは救急車のサイレンだけ、目を開けたまま聞いていた。




バカだった。


なんだったのだ。バカみたいに痛い。


つまり、バカみたいに痛すぎるけど、痛いんだから、生きてはいるようだ。


「バカな真似、するんじゃねえよ」


警察官、警備員、あるいは救急隊員の野太いノイズに混じって、幻覚だとしても大嫌いな声を聞いた。

どうも申し訳ありません。元カノさんとは仲直りできましたでしょうか。私、もしかしてそっち側に行くんですか。


それだけはご勘弁願いたかったので、金縛りから抜け出す時のように動かない体をよじって声を出そうとすると、


「ごッ」


体が動くより先に血が口から出た。


一瞬、あっ私——と思ったけど、それ以降は口をきいても大丈夫っぽく、体も、動くとはいかないまでも動くようで、救助隊員のお兄さんにアイコンタクトを送るとニッコリ笑い返され、どうやら吐血くらいなら彼にとってはセーフらしかったので、私はとりあえず、誰がかかってくるにしたって、定番の心神喪失をばっちりキメてやる事にした。


さっそく、心配ではなく、怒りの声がこちらへ向かってコツコツ歩いてくる。


「あなた、拳銃をどこにやったの」


「大丈夫です、あは、すいません、パニックで」


「拳銃をどこにやったの!」


どうも、死体食いおばさん。会話の流れを読みなよ。

歳のわりに気が短いのですね。相応か。


痛みに加えてひどい耳鳴りまで感じてきた私は、漫画の強い女さながら、うるせえと言う代わりに首をかしげておいた。

黙秘が好きだ。するにも破るにも。


正直、見ないと死ぬぞと言われていたって見たくはなかったけど、さっき笑った救助のお兄さんが好みの顔だったのもあって、かっこつけたくもなってしまって、ちらっと自分の体を確認する。破れたグレーのシャツがいかにもな鈍い色に染まっていて、グロい。見るんじゃなかった。吐きそうだ。


怒れるおばさんの隣には、いつの間にか焦るおじさんが到着していた。ダサいハンカチで自分の額を拭っている。あのアジサイの刺繍を持ち運ぶ私の姿は全く想像できない。


「じゃあ何、弾すら見つからないっていうの?」


「いえその、三発のうち二発はまだわかりません。なんせ、体の中なんです。診せないと何とも。ただ、向こうが言うには……もう一発は、どういうわけだか体に入る前に止まっているそうで、それが庁内のどこかに落ちたか隠したか……いや、だけど、そのう、傷はきちんと女性隊員の方が見たそうなんですが、それが、逸れた傷じゃありませんとハッキリ言うんです。あんな角度で浅い傷なんて、その、妙です、あり得ませんと、こういう事で……」


「まったく!」


新米古米の刑事達のやり取りを聞き取りながら、三つの傷を思い返す。


奴め、やってくれたな。情けのつもりか。


ありふれた夜の中、サイレンのライトがずうっと、同じ間隔で回って光っている。


「旦那に電話する前に、いっぺん寝てもいいですかぁ」


私は時間がまた巻き戻ったのを感じて、点滴に繋がれた腕をぶらぶらさせる。


「たぶん後で沢山寝る事になると思いますんで、先にこちらで連絡させてくださいね」


救助のお兄さんに軽くあしらわれ、落ち着きのない腕も元の場所に戻される。

この対応は犯罪者扱いだな。別に電話くらい構わないじゃないか。私ならさせてあげるのに。


慣れていながらもせわしない声が聞こえる。

私が耳を傾けている声の持ち主といえば、もちろんきみだ、救助のお兄さん。


「受け入れは……えっ? 本当に?」


本当だとも。いいよ、その病院に行こう。不安ならば、きみになら拘束されても構わないんだよ、と余裕たっぷりにふふんとしていた無実のお姉さんは、その直後、にっくき刑事どもに本当に磔にされてしまって少し悲しくなった。一応、だそうだ。


お兄さんが、全然珍しくないです、と爽やか笑顔で私を車内に運び込み、チェックリストを素早くこなしていく。


「でも、よかった。珍しいなあ、すぐそこですよ! 怪我は絶対大丈夫です。俺も昔、刑事さんに言えないような事やらかして、もっとボコボコにされて乗ったけど、次の日にはピンピンしてました!」


ニッコリとしたハンサムなお顔には説得力があって、あぁ、よくはないですかね、と遅れてはにかむ顔もよい。かっこいい人生だ。いい男はいいものである。こういうのは単純な実力だ。職種とか、筋トレとか、たとえばハンカチの柄を変えればとか、そういう問題ではないんだ。わかったか、刑事ども。


くそう、これ、可能な限り全身ギチギチじゃないか。

彼ならそうはしなかった。いや、彼ならしてくれても構わなかった。


顔がすごく好みなのだ。

とくれば、性格はどうなんだ、ええっ。

さっき、ちょっと、感じはかなり良かったぞ。


私は悲しきかな、シンプルな女だ。


「人隣陽乃。後で詳しく話を聞かせてもらうからね」


すでに証拠不十分、あなたじゃ無理でえす。

心のなかでべろべろばーってしているうち、数回目のべろべろで、ばたんとドアが閉じられた。


サイレンの音が鳴る。


「ミャオ」


嫌味なやつも乗っている。

見事な自傷行為だったぞとでも言いたげに。


私の、いや、きみのせいで、またあそこに妙な噂が生まれるのをわかっているのかね、ワトソン君。

おやつもしばらくお預けになるんだ。


ホームズがいつもキメているのは、コカインだっけ、ヘロインだっけか。


私はハンサムの隣で、安心できる揺れの中、激痛とともにすやすやと眠りについた。


「ああ……えっ? 信じられない、本当に寝てるんだ。タフな人だなあ」


嘘だ。強がっているけど痛いんだ。すやすやと眠れようはずもない。

だけど今はとにかく、されているにしろ、されていないにしろ、さっき撃ち損ねた相棒気取りにずっと侮辱されている気がして、意識を保つのが嫌だったのだ。


たとえ永遠の眠りにつくのだとしても。


私は怪我の影響か、いやにはっきりとした明晰夢を見て、そこであやうく土葬、この場合はアメリカ方式とでも言おうか、涙する加藤の前でいい感じに埋められるところだったので、棺桶の蓋を開けて土の中から飛び出してはみたものの、どこに行けばいいかわからず、イマイチな低空飛行でルールも理解しないまま、ぐわんぐわん上下して不器用に空を飛んで過ごしていた。




場面が飛んで、あのエージェントの事務所に私はいた。


たどり着いたというか、急にいた。

夢だから、私もまるでここにいて当然って態度でふんぞり返っている。


だけど残念ながら二人は私に気づいていないようだった。

そう、夢だから。


「だいいち、猫ならホリデーさんの家にもいたよ、今も別のがいるし。犬は永続的にくせぇけど、猫は瞬間的に超くっせぇのよね」


休くんが目立つ携帯ゲームをかちゃかちゃやりながら何かほざいている。


「飼ってたの、初耳なんだけど」


みぞれちゃんが意外にも食いついて、よくわからないデジタルな作業をぴたっと止める。

さては動物好きか、それか、関係する誰かに思い入れがあるとみた。


「金持ちのお子さんは飼いたくなくても動物さんを飼うもんなのよォ」


彼はゲームをスリープモードにして、彼女のほうを見る。

ははーん。さてのさては片思い。珍しく話らしい話ができそうで嬉しいのか。


「あいつらってマジで不思議ちゃんだから。すっげえアホかと思ったらあっさり人間超えてくんの」


「例えば?」


「そうねえ。昔……そん時は、全員猫の周りにいたんだけど」


相槌を一度聞いて、彼は指をくるくる回しだす。


「急に使ってないキッチンのほうからすごい音がしたのよ、次から次に、尋常じゃないのが。んで、食器出しっぱなしになんかしてないし、当然うちセキュリティ万全だから、逆にそういうのがあるとビビる」


「うん」


「家族総出で向かったのよ。女どもを途中に控えさせて。で先に言っとくけど、ホリデーさんはその間、もちろん完璧なプランを練ってたからね。したら、原因はネズミ。爪と牙により大怪我ネズミ。つまり死に損ないのチューチューさんが極限のエクスタシー感じつつ棚の中の食器をシコシコやってたワケ」


彼女は真面目に話を聞いている。ああ、オチを先に言ってやれないのがもどかしい!


「どうやって入れたんだ、こんな大事な時に気持ち悪ぃなってなって、んな仲良くもねえのに揃いも揃ってちっさい死骸相手に怒ってさ。でもこれどうすんだ、このサイズで燃えるゴミはダメだろ、くるんだらバレなそうじゃない? いや、しみてくるでしょ、やっぱ埋めようよとかさ、それぞれ言って。で、ぞろぞろ戻った時には、死んでたのよ、猫が。もう完ペキに。ウケたね」


しんとする。あ、とみぞれちゃんが一旦言葉を飲み込む。

優しいな。彼の株価はどこまでも下がるのに、彼女の株価って絶対下がらないのか。


「わかるじゃない。我々含め生き物って、死んだら死にました感出してくるでしょ。さっきまでフッサフサだったのに生乾きの濡れタオルになって、そう、そうなってんのよ。思ったんだけど、あいつ時限爆弾仕掛けてやがったんじゃねえかなって。一丁前に、死ぬトコ見られたくねえから」


会話にちょっとした空きがあって、


「畜生以下のみぞれチャンは、死ぬんだったらヨソで死んでほしいね。春麗で抜けなくなる」


と、彼は、本人もわかっていないであろう宇宙最低の愛の告白で締めくくってしまった後、気まずい空気をものともせずに携帯ゲームを再開する。


みぞれちゃんはさすが、最後の発言は華麗にスルーして、


「よかったんじゃない、あんたの家にもらわれて」


と言って、空中をなぞる。どうも何らかのハイテクな作業に戻ったようだった。


迎える、もらう、という言い方は、私は社交辞令っぽくて好きではない。

だからって、飼う、買った、だとあまりにも冷たすぎる。難題だと思う。


「ど~おなのかねえ。ひたすら愛するにしたって虐待するにしたって、せかせか編集して、ホリデーさんにとってのはした金を儲けるにしたって、人間が勝手に決める事だからねえ。イエネコがどう思ってるかなんてのはさ、何を嫌がって何を喜んでるかなんてのは」


彼はよりいっそう深く椅子にもたれかかる。


「”猫を飼うとウツになる”、みぞれチャンはご存知? ホリデーさんはジロっちゃんっつう、ご存知スゥプァァパゥワに目覚めてから安定したけど、アレはホントよ。世話に手間がかかるくらいはいいとしても、サイアクなのは、だんだん、その中に人間の影を見るようになるコト。ホリデーさんのような優れた人間ほどね。自分に重なってくるのよ。常人は他人の、優れてんなら自分の嫌なトコまで見えてくる」


「ふーん……」


もしや何か今、私達に喧嘩腰でなく話せるお題があったのか?

聞かなかった事にしていよう。夢だから。


空中に何かを見つけた彼女が不意に口を開いて、彼に、おそらく、データを渡した。


「……見て、『ディア・マイ・フレンド』」


何だ? 今度は私からは見えないテクノロジーなのか。

だけどそれ、みぞれちゃんの世代からはちょっと遠い語感では。


「あ? これ何よ? つか、この、語感。受け付けないよ。我々の世代じゃないっつうか」


最悪だ。若干最悪なほうと被ってしまった。


「今までもそんなだったでしょ。いい? 人隣がこの目を持ってないのは間違いない。これまで共犯探しで、片っ端から関係者の名前を探してたけど、あるわけない。関係”者”だからいつものデータベースからは見つからなかった」


「あぁ、無不動をしょっぴいてやるのも悪くなかったけどね。大人しくさせるにはもうちょい頭数がいる。だって目とかじゃないでしょアレは。おそらく我々寄りよね?」


「かもね。一瞬だけ学校に通ってたけど、勉強はもちろん、測定すらまともにできなかったみたい。体力測定。唯一あるのは……100mを2秒98? 曲線のコースを逸れて、三回、こうやって、直角にジャンプしたって。四足で。ふっ……」


「ナルガクルガの何が偉いんですか~ァ? ホリデーさんも計り知れないポテンシャルの持ち主よ?」


「ナル…何? まあ、いいんじゃない。で、話、戻すけど」


うんうん。彼はほんと、いいよねえ。

そして私はもう、みぞれちゃんからは呼び捨てにまで格下げされたんだね。


それで、それで? なんとかフレンドについて何がわかったっていうんだい?


「それで——」


それで、ここで私の夢の時間がそろそろ終わりらしく、何かに引っ張られて事務所が遠ざかる。


ううん、そう、そう、こういうところで夢って覚めるものだよ。

猛烈に好みの人から猛烈に好みのエスコート、さあ、いざ! みたいな瞬間とかにね。


結構結構。大人だから、いちいちうろたえたりしないよ。

ただし必ずまたお会いしましょう。


二人のせいで私の体、穴ボコなんだから。

これは立派な借しだよ、きみ達のだよ、なんて、大声を出しても、シルエットは遠ざかるばかり。


休くんと私の意見が合う事なんてあるのだろうか、いちいちイラつく。

みぞれちゃん、いつも介護お疲れ様。

これだけ憶えておこう。


そして二人は放射線状に広がって、ついに、ごく平凡な二本線になる。

もがいても、耳を必死に傾けても、向こうの声が私に届く事すらも今は完全になくなった。


「持ち主を失った目が亡眼になる事は、珍しいけど、ある。あたし達も実際に戦った。戦力差はともかく、特性に惑わされて、想像より手こずった」


「まあねえ……。けど、第三の目ってのは体の一部なのよ。自分の手足と会話はできない。病気になるなって言い聞かせて予防できるならドクターいらずよ。こんなに自由自在な体なのによ? 亡眼ともなりゃ、さらに無理ってモンでしょうよ」


「資料をちゃんと読んで。この所有者の『ダイヤ』含め、動物の開眼ケースはすごく少ない。動物と会話は……例外はあるみたいだけど、基本、できない。それなら人間が知らない事のほうが多いはず。隠す特性、スズや松ノ下さんと何か繋がってるかもしれない」


「死んだ子の年齢を数えるのはおよし、みぞれチャン。あり得ない、考えられないの。そも亡眼ってのは、自分であって自分じゃない、遠隔自動操縦型スタンド未満で、ペルソナの単独行動——」


「そう、どうしたって人の命令はこなせない。けど、猫ならそれは当たり前で、普段通りの事。この亡眼は人の特性じゃなくて猫の特性。猫は元から本能だけだから、動くものを追って、エサをもらえばどこかで懐いて、たまについてくるだけ。わかるでしょ? よく考えたら猫と怪物はそう変わらない、筋は通る」


「リッスン・ビッチ。ありがたい言葉の続きをお待ち。まあ、そうね、そうだと思うよ。もし猫なら、たとえ神々の絶対的制約の中に生まれても、従うとは限らないと思う」


「なら決まり。捕まえる方法を考えないと」


「……ホリデーさんは思う。だけどもォ! みぞれちゃんには思えない! だァって、愛しのスズを探したいだけで、このカスカスキャットを単なるダシにするつもりだからね! 捕まえるぅ? 氷の魔女! 断言するけど、うまくいく可能性はゼロ、ゼロ、ゼロ! 猫と一緒に住んだ経験もないんじゃなあい?」


「ない……けど、何、声、うるさいんだけど」


「イヤねぇ猫処女はこれだから~ァ! まだ猫どもを全然見くびってる! ヤツらはキュートなサイコパスで、ド畜生なのよ。”ダイヤ”っつった? クソだね。ありえないからみぞれチャン。いやマジ悪いトコよ、がっかりさせないでよ。そのダッセぇ名前呼んだ瞬間確実に暴走する。いや、待たずしてホリデーさんがするかもね。資料をちゃあんと読めってのよ。でも猫処女ってなんかエロい響き!」


「キレる時は拗ねる前に説明してって二百回は絶対言ってる。どういう事か教えて」


「絶対言ってるゥ~。どういう事か教えてェ~。それでしょ、つまりそ・ゆ・コ・ト。やっぱ資料の読み方からして合わないね。世界中の誰もがどうでもいいって思うのがホントに大切な情報なのよ、世界で一番売れてるハンバーガーが一番美味いみぞれチャン。お利口な犬でも飼ってろ」


「次はない。ちゃんと言って。やり合いたくない」


「つまり、ホリデーさんは猫の資料を一通り見たし、やっぱり人隣のほうの資料を取る!」


「だから……はあ。いつもこう。要するに、猫を庇いたいの?」


「いや、厳密に言えばそれもNOだね。間違えたのはファッキン人隣じゃない。そのせいで今、かえって八方塞がりなんだから、あの天パのダルダル女は。幼少期ンとこ……あぁこいつらマジぶっ殺してやりたい。犯罪者の英才教育よ。殺せる限り殺せってね。クエスチョン、アイツが本当に一番殺したいのは誰だと思う? 天パが一番わかってるハズだ。だからフィナーレの前に全ッ部バカにしてまわってるんだ。万が一、その時その時に裁かれないのが苦痛だとしてもね」


「……あんたにいいとこがあるのは知ってるつもりだけど、ちょっと一回だけ、どうしても、ごめん」


彼が偉そうに向けていた指をへし折られているのはわかる。心地よい絶叫も感じる。仲良しさん達、喧嘩かい、何をもめているんだい、私ともじっくり話し合おうよお。特別顧問というポジションはどうだい。世間知らずの君たちには必要じゃないのかい。自慢じゃないけれども私は甘い上司だよ。あんまりだと、あんまりだけどね。


まばゆい光がさあっと視界を埋め尽くす。

また引き戻される。


ああ、もう、もう。

日常なんて大嫌いだ。


「ミャオ」


天井ががらがらスライドしている。


なるほど、当たり前だ。なんとなくベッドの印象があったけど、ベッドはこの後に乗るものだ。

看護師さんの薄っぺらい励ましを聞きながら、私は食材のごとくストレッチャーにて廊下をゆく。


病院は患者のうめき声よりも平坦を刻む機械の音のほうが印象に残るものだけど、院内は私が入った途端、そんな私とは正反対に慌ただしくなってきた。


いやいや、ほんとお構いなく。

そっちの頭から血が出てるお方とか、ほら、重症そうじゃないですか。


まあ、率直なところ、オペ、嫌いだ。怖いからだ。

というか実は、色々とうまくいきすぎていたから、こんな大怪我は初めての経験だ。

初めてだからって、誰が外科手術を、それも受ける側で楽しめるものか。


体内のアドレナリンは尽きている。

傷口をいじられると、きっと泣いてしまう。痛くて。


しかも何をするにしたって、さらに針を刺すのは確実じゃないか。


傷を治すのに傷を増やすなんて人類は矛盾しているのでは!

なんて私のインナーチャイルドが騒ぐのを防ぐため、何より医師も看護師も技師もそんなものに付き合う暇はないので、私はたぶん今からマスクをはめられ、謎のメカニズムで爪を剥がされても起きないほどに眠りこけて、上手に処置を施され、ついでに身のまわりを洗われるのだろう。


手の中に硬い感触を感じている。


起きてしばらく、大体どれくらい不自由になるのか。


愛する夫はお見舞いに来てくれるのかしら。

彼にとっちゃ来なきゃマズいんだけど、来れるのかしら。


まあ、いいか、もう。

全て後から対処しようじゃないか。


大人だから、ちゃんとした場所で、しっかり片付けをして、上手に火で遊べば叱られない。


私は友達を大切にしながら、死ぬまで舞台のスイッチを切らなければいい。

そうすれば、日常の中のスポットライトは勝手に私の方を照らしてくれる。


男と女に空想と現実、日常、非日常。


ぽんちょ、それら全てはきみが背中で語ったようにイコールなのかもしれない。

どんなに美しく失おうが残る悲しみ、それすらもきみの思惑通りか、ヒトのもつ醜い愛の本質を。


つまり、ヒトである私だけがきみを愛していたのか。


つまりのつまり、私はズーフィリアで、非日常とはもっと日常的であってもいいって事かい?


「ミャオ」


「あはッ!」


おっと医療従事者の皆々様、失礼。痛々しかろう。私らしい笑い方を尊重しておくれ。


ホアキンみたいだったでしょ、休くん。ちなみに私はニコルソン派。世代か。

みぞれちゃんは映画とか……あーあ、これをいつか実際に聞けるのだろうかなあ。


まあ、加藤はとんだ役立たずだが、タイピンのセンスはいいし、悪くなかった。


そう、ごめん。そうそう。何事もないよ。続けたまえ。きみたちは愛想笑いが得意だね。


愛想笑いって最高に不愉快だ。

医療機器はぴかぴかだから、たくさんのイラつく私がそこらじゅうに浮かんでいる。


次々機械をつけられていく様は制御不能の怪物そのものなのだろうなあ。


怪物。お兄ちゃんの顔が浮かぶ。

あの虐殺の夜は心の芯からゾクゾクする素敵な夜だった。


私も一緒に踊りたい。

狼男の遠吠えに導かれ、ドレスを引き裂かれて、どくどくと血を失いながら、不慣れなステップでダンスを習うなんて、最高だ。


そういうわけにもいかないんだけどね。


いや、待てよ、むしろ、もっと。


そうだ。

目が覚めて一段落ついたら、思い切って大きな事をしでかしてみるのも面白いかもしれない。


私、家族にお兄ちゃん欲しかったんだよね。


「ちょっと待ったぁ!」


突然大きな声を出したから、当然のごとく視線がこっちに集中する。


「これです、これ、誰か預かっててくださぁい」


自由な手首をぐるんぐるん振り回す。

ブラスチックと鉄のちゃりちゃりした音に、皆さん揃ってうろたえてくれる。


「よかったら、警視庁に届けてください」


ふにゃふにゃ笑っていようじゃないか。

ないものだって、まあ、ないよりは、あったほうがいいのだろう。


「マル課の鍵って言えばわかります」


迫りくる手が鍵に辿り着く前に、わかるように、わざと鍵を落としてやった。


「ばぁか」


低く、小さく、はっきりと。


過労気味の、一人の強きナイチンゲールが沈黙する。


彼女がいじめられたものだから、男ども、どいつもこいつも連鎖的に苛立っている。


悪意。正義。権力。新聞。月給。奉仕。肉体。男。女。家族。ストレス。


カタルシス。


無限に続く連想ゲームに、私はいよいよ眠りにつくまで、声を出してずっと笑っていた。

まめちしき:陽乃さんは甘党

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