序章8 旅立ち
時が流れ、雛汰と悠明の傷も癒えていった。
雛汰は澪音の勧めで座学を重ね、魔術の理を学んだ。筆を走らせ、書を読み解く日々。自ら魔力を振るうことはまだなく、土台を築くことに専念していた。
悠明は雷の詠唱を繰り返し、小さな閃きを少しずつ安定させていった。声に力を込めるたび、確かな手応えを掴んでいく。
尊寿は喝道寺に通い、住職の厳しい指導を受けた。
重い薪を運び、畑を耕し、朝は冷水で身を清める。だが、根っからの怠け癖は抜けず、ことあるごとに逃げ出そうとしては叱り飛ばされた。
それでも、嫌々ながら続けるうちに体つきは締まり、以前よりは幾分か頼もしくなっていた――もっとも本人の心根は、まだ「遊びたい」「楽をしたい」に傾いていた。
一方、雛汰と悠明は村人の手伝いで渡航費を貯めていった。
畑の収穫を運び、薪割りをし、荷を担ぐ。幼い身に重い仕事だったが、村人からは「しっかりしてきたな」と労われるほどに成長を見せていた。
やがて冬が過ぎ、春の気配が漂い始める頃。
雛汰は基礎を確かにし、悠明は魔術の形を掴み、尊寿は体力を得た。
三人の姿にはそれぞれの成長が刻まれていたが――尊寿の飄々とした笑みには、まだどこか「うつけ」の色が残っていた。
出発の日が、ゆるやかに近づいていた。
冬の名残を抱いた冷気の中、三人は村を後にした。朝靄にけぶる畦道を歩きながら、背に負った荷物の重さをひしひしと感じる。見送りに立った村人の声はすぐ遠ざかり、やがて耳に届くのは靴底が土を踏む乾いた音ばか
りとなった。
「……長い道のりになりそうだね」
悠明がぽつりとつぶやくと、雛汰は元気よくうなずいた。
「でも俺たちなら大丈夫だよ。なあ、尊寿さん?」
呼ばれた尊寿はあくびをしながら肩をすくめる。
「さあな。俺は都に着きさえすればいいんだ。後はどうでも」
歩みを進めるうちに、山間の景色は次第に荒々しさを増していった。畑や田を過ぎれば切り立つ岩肌が現れ、足場は不安定になる。息が乱れる頃、尊寿の愚痴が漏れる。
「おい、どれだけ歩かせる気だ……もう足が棒だぞ」
雛汰は笑って肩を叩いた。
「まだ始まったばかりだって! これからもっと面白い景色が見られるよ」
悠明は口を閉ざしたまま前を見据え、歩みを乱さない。その背に、妙な決意の硬さが宿っているのを雛汰は感じていた。
途中の宿場町では宿代を惜しみ、三人は働き口を探した。雛汰は薪割りに汗を流し、悠明は黙々と帳簿を整理した。尊寿は荷運びを任されるが、重さに悲鳴を上げる。
「うおおっ……ちょ、ちょっと待て! これ、人が持つもんじゃねぇ!」
荷に足を取られて転んだ尊寿に、雛汰が駆け寄る。
「大丈夫!? 怪我はない?」
「だ、だいじょうぶ……だと思う……」
道行く人の失笑を浴びながらも、彼は歯を食いしばって立ち上がった。稼ぎはわずかだったが、それでも夜を凌ぐ糧となった。
やがて川を渡る場面で雛汰が足を滑らせた。
「わっ――!」
水飛沫が上がり、雛汰は冷たい川に転げ落ちた。悠明が慌てて手を伸ばす。
「雛汰!」
雛汰は震える唇で笑いながら答える。
「だ、大丈夫……ほら、ちょっと冷えたけど平気だから」
強がるその笑顔に、悠明は言葉を飲み込み、尊寿は呆れ顔で頭をかいた。
野営を余儀なくされた夜、三人は焚き火を囲んで身を寄せ合った。炎が影を揺らす中、尊寿がぼやく。
「都に着いたら遊び尽くしてやるからな……」
「またそんなこと言ってるのか」悠明が冷ややかに返す。
「いいじゃねえか、夢くらい見させろよ」尊寿は火を見つめながら拗ねたように言う。
雛汰はそんな二人を見て笑い、火に手をかざした。
旅籠に泊まれる夜には、雑用で労を積んだ。三人で皿を洗い、廊下を掃き、荷を整える。尊寿は相変わらず要領を得ず、荷に埋もれて右往左往する。
「ちょっ、誰か助けろ! これ、崩れてくる!」
「尊寿さん、しっかり押さえて!」雛汰が声を上げ、悠明がため息混じりに支えに入った。
主人に叱られつつも、尊寿は最後までやりきった。その姿は笑いを誘いながらも、次第に仲間としての存在感を増していった。
日を重ねるごとに足の裏は痛みを増し、背の荷は鉛のように重くのしかかった。けれども視界の果てに白い石壁が現れた瞬間、三人の心に走った衝撃は疲労を吹き飛ばした。
「……あれが、都か」悠明が小さくつぶやく。
「すげぇ……本当にあるんだな」尊寿は口を開けて見上げる。
雛汰は目を輝かせて駆け出しそうになり、二人が慌てて制した。
九日間にわたる徒歩の旅は、苦難と笑いと不器用な協力の積み重ねだった。三人はようやく、秋津の都――天嶺院のある地へと辿り着いたのである。




