第三話ーツン魔術師と恋を忘れたスープの味
ミィ=ルナの屋台《黒月亭》は、アモーレ王国の中心街から少し外れた石畳の小道に、ぽつんと存在していた。
周囲の店が恋人向けのハート型スイーツやカップル割引のカフェばかりの中、この屋台だけが全体的に黒くて無愛想で、周囲から浮きに浮いていた。
「……で、本当にこのラーメン屋、営業してるのか?」
「目、ついてんの? 目の前にラーメン出されてるじゃない」
「いやいや、雰囲気が完全に“通りすがりの異端者にだけ見える系・呪いの店”じゃん……」
思わず口から出てしまった陸のツッコミにも、ミィ=ルナは顔色一つ変えずに麺を茹でていた。
陸は、昨日まで王城で恋の特訓と称して“お姫様抱っこ筋トレ”や“模擬告白”といった羞恥フルコースを乗り越えたばかりだった。
今日はひとり、やっとの思いで得た自由時間。何も考えずに街を歩いていたところ、ふと目に飛び込んできたのがこの屋台だった。
黒塗りの看板にでかでかと書かれた『失恋者限定』の文字。王都アモーレにあるとは思えない陰気さ。けれど、その“場違いさ”が、なぜか陸の心を強く惹きつけた。理由なんていらなかった。人目を避けるように、陸はのれんをくぐった。
座ってすぐ出されたラーメンは、黒い器に並々と注がれていた。スープの表面には細かい脂が光り、湯気とともに立ち上る香りには、どこか懐かしい焦がし醤油のような、少し苦味を孕んだ甘い匂いが混ざっていた。
「……失恋、したばかりなんだろ?」
「まあ、うん。幼馴染に告白して、大学生の彼氏いるってフラれたばっか」
「へえ。最悪ね」
即答だった。しかも顔も見ずに言い切った。
「いやもうちょっとこう、慰めの言葉とかあってもよくない!?」
「私のラーメンは喋る代わりに味で慰めるの。口動かす暇あったら、すする」
「わ、分かったよ……」
陸は恐る恐る箸を伸ばし、再び麺を口に運んだ。ズズ……。口の中に広がるのは、しっかりとしたコシのある中細麺と、香ばしくも優しいスープの味。苦味と甘さ、焦げとコク、その全てが絶妙なバランスで口の中を包み込む。どこか懐かしく、温かく、でもどこか寂しい。
「……ほんとうにうまいな」
「でしょ」
「これ……“泣きたくなる味”ってこういうのを言うのかもな」
「失恋した奴にしか伝わらない味、ってよく言われる」
「常連いるの?」
「ほぼいない。みんな恋愛成就すると来なくなるから」
「商売としては破綻寸前じゃねえか」
「その分、一期一会の味を心がけてる。恋と同じ」
「深いようで浅いようで深いな……」
ミィ=ルナは黒いマントの裾をたたみながら、初めて顔をしっかりと陸に向けた。透き通るような銀の瞳に、ほんのわずかな警戒心と、見え隠れする“期待”のようなものが浮かんでいた。
「……君、勇者だよね?」
「えっ、なんで知って……ってかなんでバレてんの!?」
「そりゃあ、この国で“好感度初期値ゼロ”で召喚された奴なんて一人しかいないし。王都中の噂」
「うわ、もうプライバシーのかけらもねぇなこの国……」
陸は丼を置き、肩をすくめた。
「あんたは? なんでそんなに恋に興味なさそうなのに、アモーレにいるんだ?」
「……元々は、私も“恋の魔術師”を目指してた。アモーレ式の“告白成功率を上げる魔法”とか、“ときめき増幅呪文”とか、ああいうのを研究してたの。でも、ある日ふられた。しかも相手、魔法だけが目当てだったらしくて。『君といるとモテる気がするから付き合ってた』って言われた」
「うわ……それ、キレていいやつだわ……」
「だから辞めたの。恋も、研究も。馬鹿らしくなって。いまは、ラーメンと呪詛と猫と、最低限の魔術だけで生きてる」
「何そのライフスタイル……陰キャの夢詰め合わせかよ」
「褒め言葉として受け取っておく…」
ミィ=ルナはわずかに口元を上げた。それは笑顔というより、苦笑に近いものだったが、初めて見せた彼女の“素”に、陸の中で何かが静かに動いた気がした。
「なあ、ミィって……その、今でも恋に興味ある?」
「ない。というか、持つ気もない。恋をすると、自分がどこかに持っていかれる気がするから」
「……あー、分かる気がするな。それで失恋したばっかだから、なおさらだよ」
「勇者でも、恋にビビるんだ?」
「むしろ“恋の勇者”って呼ばれ続けることの方がトラウマなんだけど」
「あんた、案外まともで気の毒なやつね」
「あんたほどじゃないだろ」
「……まあ、そっちのラーメン代、今日だけタダにしといてあげる。哀れみとして」
「そこは“友情割引”とかないの!?」
「そんな概念、店のどこにも書いてないでしょ」
ぐうの音も出なかった。けれど、陸の顔には自然と笑みが浮かんでいた。
「じゃあ、また来てもいいか? ラーメン食いに」
「……失恋継続中なら、好きにすれば?」
「じゃあしばらく通うわ。きっとこの国、俺の精神えぐってくるから」
「自虐癖すごいねあんた……」ミィはふっと鼻で笑った。
それはごく小さな、けれど確かな“変化”だった。アモーレ王国で出会った、孤独な猫耳魔術師。そのラーメンの奥に隠された、まだ乾ききらない傷と、誰にも言えなかった想い。陸はまだ、それをすべて知ることはない。けれど、彼の心にほんの少し――小さな何かが灯ったのは、間違いなかった。