表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/15

第三話ー雨の日と猫

午後三時。アモーレ王国の空が、急に表情を変えた。ぱらぱらと小さな雫が降りはじめ、気づけば街路の石畳に水紋が広がっていた。


「やっべ……傘、持ってない……」


王城の用事から戻ってきたばかりの陸は、空を仰ぎながら走った。屋台《黒月亭》のある通りへと向かう。遠くに見えたあの黒い天幕が、唯一の避難所に思えた。


「……開いててくれよ……」


運良く、暖簾は出ていた。駆け込むと、屋根の下には、相変わらず黒を基調としたラーメン屋台の静けさがあった。


「……あんた、ずぶ濡れじゃない」


カウンターの奥にいたミィが、呆れたような顔でそう言った。


「だから今こうして、助けを求めにきたんだって。ここだけが俺のオアシス……」


「ラーメン屋を“避難所”呼ばわりする勇者、初めて見たわ」


そう言いつつ、彼女は奥から黒いバスタオルを持ってきて、無言で陸の頭に被せた。


「……あ、ありがとう。……あったかいな、これ」


「湯気を吸った布だから、湿ってるだけよ」


「それ言う必要ある?」


「ある」


会話の応酬はいつも通り。だけど、屋台の中は、雨音に包まれてどこか心地よかった。鍋の火が静かに湯を沸かし、蒸気とともに、少しだけ生姜の香りが漂ってくる。


「今日は……ラーメン、あるのか?」


「あるにはあるけど、“雨限定仕様”よ」


「雨限定……って、なにそれ?」


ミィは言葉を返さず、淡々と作業を続けた。器に注がれたスープは、いつもの濃いめの味ではなく、やわらかく澄んだ色。チャーシューの代わりに、白身魚のほぐし身が浮いていた。


「はい、“やさしさ多め、塩加減控えめ”の雨ラーメンよ。……あんたみたいに無駄に空回りしてる奴が、落ち着くための味」


「俺、空回ってるか?」


「毎回必死すぎて見てらんないくらいには」


「それ褒めてる?」


「ううん、ただの事実」


スープをひと口すすった瞬間、体の芯にふわりと熱が染み渡った。あっさりしているのに、ほんのりとした甘みがあって、口の中に残るやさしさが、何より静かだった。


「……なあ、ミィ」


「なに?」


「昨日の“カップ麺半分こ”だけど、あれって……どういう意味だった?」


「は?」


「いや、深読みとかしたくないけどさ。ああいうのって、こっちは“ただのサービス”って受け取るのが正解なのか、少しくらい……期待していいのか、わかんなくて」


ミィはお玉の手を止めた。しばらく沈黙が続き、鍋の湯の音だけが静かに響いた。


「……わかんない」


「え?」


「私にも、わかんないのよ。あんなの、初めてだったし。誰かとカップ麺分け合って、笑いながら食べるとか。……そんなの、もうずっと忘れてた感覚だったから」


陸は思わず黙った。ミィの目は遠くを見ていた。けれど、その先には、誰かがいたわけじゃない。ただ、時間の向こうにある何かを、じっと見つめているようだった。


「私ね、ずっと一人で平気だと思ってた。恋なんてくだらないって。誰かに好かれるとか、誰かを好きになるとか、そんなの……重たすぎて、めんどくさくて。でも、あんたといると、たまに、ちょっとだけ……“それでもいいのかも”って思えてきたりして。だから……怖い」


「怖い?」


「うん。期待しちゃいそうで。勝手に、また裏切られるんじゃないかって。……バカでしょ?」


「バカじゃないよ」


陸はまっすぐに答えた。


「俺もそうだった。恋なんて、くだらないって思った。失恋して、全部投げ出して、それでもこうして異世界に連れてこられて、訳わかんない王女に振り回されて、ツンデレ魔術師にラーメン食わされて……で、今、なんか……こう、少しだけだけど……」


「……幸せ?」


ミィのその言葉に、陸は少しだけ笑って頷いた。


「うん。なんか、悪くないなって」


ミィはふっと目を伏せた。いつもと同じようにツンとした顔だったが、そこに浮かんだわずかな笑みは、確かに彼女自身の感情だった。


「……へえ、じゃあ、明日からラーメンの値上げ、しよっかな」


「うわああああ、やっぱ悪女!! ツンデレ通り越して商売妖怪!!」


「ふふ、勇者税。恋愛感情と混同したら即加算だから、よろしく」


「制度がブラックすぎるよおおおお!!!」


屋台の外では、雨が少しずつ弱まっていた。空の向こうに光が差し始め、雲の合間から覗いた青空が、まるで二人の会話の続きのように、静かに広がっていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ