第三話ー雨の日と猫
午後三時。アモーレ王国の空が、急に表情を変えた。ぱらぱらと小さな雫が降りはじめ、気づけば街路の石畳に水紋が広がっていた。
「やっべ……傘、持ってない……」
王城の用事から戻ってきたばかりの陸は、空を仰ぎながら走った。屋台《黒月亭》のある通りへと向かう。遠くに見えたあの黒い天幕が、唯一の避難所に思えた。
「……開いててくれよ……」
運良く、暖簾は出ていた。駆け込むと、屋根の下には、相変わらず黒を基調としたラーメン屋台の静けさがあった。
「……あんた、ずぶ濡れじゃない」
カウンターの奥にいたミィが、呆れたような顔でそう言った。
「だから今こうして、助けを求めにきたんだって。ここだけが俺のオアシス……」
「ラーメン屋を“避難所”呼ばわりする勇者、初めて見たわ」
そう言いつつ、彼女は奥から黒いバスタオルを持ってきて、無言で陸の頭に被せた。
「……あ、ありがとう。……あったかいな、これ」
「湯気を吸った布だから、湿ってるだけよ」
「それ言う必要ある?」
「ある」
会話の応酬はいつも通り。だけど、屋台の中は、雨音に包まれてどこか心地よかった。鍋の火が静かに湯を沸かし、蒸気とともに、少しだけ生姜の香りが漂ってくる。
「今日は……ラーメン、あるのか?」
「あるにはあるけど、“雨限定仕様”よ」
「雨限定……って、なにそれ?」
ミィは言葉を返さず、淡々と作業を続けた。器に注がれたスープは、いつもの濃いめの味ではなく、やわらかく澄んだ色。チャーシューの代わりに、白身魚のほぐし身が浮いていた。
「はい、“やさしさ多め、塩加減控えめ”の雨ラーメンよ。……あんたみたいに無駄に空回りしてる奴が、落ち着くための味」
「俺、空回ってるか?」
「毎回必死すぎて見てらんないくらいには」
「それ褒めてる?」
「ううん、ただの事実」
スープをひと口すすった瞬間、体の芯にふわりと熱が染み渡った。あっさりしているのに、ほんのりとした甘みがあって、口の中に残るやさしさが、何より静かだった。
「……なあ、ミィ」
「なに?」
「昨日の“カップ麺半分こ”だけど、あれって……どういう意味だった?」
「は?」
「いや、深読みとかしたくないけどさ。ああいうのって、こっちは“ただのサービス”って受け取るのが正解なのか、少しくらい……期待していいのか、わかんなくて」
ミィはお玉の手を止めた。しばらく沈黙が続き、鍋の湯の音だけが静かに響いた。
「……わかんない」
「え?」
「私にも、わかんないのよ。あんなの、初めてだったし。誰かとカップ麺分け合って、笑いながら食べるとか。……そんなの、もうずっと忘れてた感覚だったから」
陸は思わず黙った。ミィの目は遠くを見ていた。けれど、その先には、誰かがいたわけじゃない。ただ、時間の向こうにある何かを、じっと見つめているようだった。
「私ね、ずっと一人で平気だと思ってた。恋なんてくだらないって。誰かに好かれるとか、誰かを好きになるとか、そんなの……重たすぎて、めんどくさくて。でも、あんたといると、たまに、ちょっとだけ……“それでもいいのかも”って思えてきたりして。だから……怖い」
「怖い?」
「うん。期待しちゃいそうで。勝手に、また裏切られるんじゃないかって。……バカでしょ?」
「バカじゃないよ」
陸はまっすぐに答えた。
「俺もそうだった。恋なんて、くだらないって思った。失恋して、全部投げ出して、それでもこうして異世界に連れてこられて、訳わかんない王女に振り回されて、ツンデレ魔術師にラーメン食わされて……で、今、なんか……こう、少しだけだけど……」
「……幸せ?」
ミィのその言葉に、陸は少しだけ笑って頷いた。
「うん。なんか、悪くないなって」
ミィはふっと目を伏せた。いつもと同じようにツンとした顔だったが、そこに浮かんだわずかな笑みは、確かに彼女自身の感情だった。
「……へえ、じゃあ、明日からラーメンの値上げ、しよっかな」
「うわああああ、やっぱ悪女!! ツンデレ通り越して商売妖怪!!」
「ふふ、勇者税。恋愛感情と混同したら即加算だから、よろしく」
「制度がブラックすぎるよおおおお!!!」
屋台の外では、雨が少しずつ弱まっていた。空の向こうに光が差し始め、雲の合間から覗いた青空が、まるで二人の会話の続きのように、静かに広がっていった。