第三話ー猫と失恋スープと私
屋台《黒月亭》の暖簾がわずかに揺れる。
陸はあれからも時折り時間が空いてはここに通ってラーメンを食べに来てた。
風がひとつ吹いたあと、そこから姿を現したのは、王女――アリアナ・フォン・アモーレだった。全身をフード付きの上着で隠し、庶民の装いに完璧に擬態しているつもり……なのだろうが、金髪の先と仕草の上品さが隠しきれていない。
それに気づいた陸が
「……なぁ、なんでいるの?」
「ふふっ、偶然ですわ♪」
「うそつけ。偶然なわけないよね?」
「恋人契約中の恋愛観察は、王国の“恋務省”が推奨してますの」
「そんなしょうもない役所あるのかよ!? というか、君がやるの!?」
「個人事業ですわ♡」
ミィ=ルナは黙ったまま、アリアナを横目で見やる。その視線には明らかな警戒が混ざっていた。
「……王女様、でしたっけ。なんのご用?」
「ただの恋の進捗チェックですわ♪ あなたが“勇者様の新たなハート候補”かと思いまして♪」
「誰がハート候補よ。むしろ塩ぶっかけてんの、私のラーメンだけど」
「ラブスパイスが足りてないのですわね」
「ラーメンにスパイス感覚で愛入れんじゃねえよ」陸は慌てて割って入る。
「と、とりあえず落ち着こうか。ここ、ラーメン屋だから! 平和的にいこう!てかなんでここにいるだよ!」
「陸様、これは監視です。私は常に平和ですわ。愛と慈しみの象徴ですから♡」
「お前さっき明らかに“監視”って言ったよね!? 目つきドローン並に鋭かったけど!?」
「私はただ、あなたの恋愛成長過程に深い関心を持っているだけですわ」
「もはや育成ゲームかなんかだと思ってるだろ、それ!」
ミィが小さく溜め息をついた。
「……で? この姫様が、あんたの“本命”なの?」
「いやいや、まだ誰がどうとかってわけじゃなくてだな……ただ、その、今はラーメンが美味しくて、それで通ってるだけで」
「ふぅん。……じゃあ、その“本命じゃない相手”とこんなに自然に喋って、笑って、一緒にラーメンすすってるってわけか」
言い終えたミィは、無言で鍋の火を消した。スープの湯気が静かに消えていく。
「……ごちそうさまでした」
陸がそう言った瞬間、彼女は背を向けた。
「今日はもう閉店。あんた、王女とでもどこかでラブイベントやってなよ」
「おいおい、なんだよ急に――」
「別に怒ってない。ラーメン屋に感情持ち込むのは野暮だし、客が誰とくっつこうと私には関係ないし……ただ――」
「ただ?」
「……ただちょっと、後味が悪いだけ」
それだけを言って、ミィは屋台の奥に姿を消した。
アリアナが、珍しく眉をひそめる。
「……あの子、本当に失恋の味を知ってるのね」
「ああ。たぶん俺なんかより、ずっと深くね」
「けど、陸狭間。ああいう子は、恋に近づくほど、遠ざかるものですわよ。まるで……猫みたいに」
「……まんま猫耳の魔術師だけどな」
アリアナはふっと笑った。
「でもね、猫は意外と……気を許した相手には、ちゃんと甘えるものですのよ」
「その発言、なんか裏がある気がしてならないんだけど」
「気のせいですわ♡ さて、それじゃあ私は失礼しますわね。次の“恋の育成観察予定者”がまだ数人いますので」
「王女業の中でそれが一番情熱的すぎるだろ!」
そう言いながらアリアナは去っていった。街の灯が夕焼けに染まる頃、陸はぽつんと屋台の前に立ち尽くした。
誰もいない。《黒月亭》の看板が、ゆらりと風に揺れる。
「……あー……また怒らせちまったか……」
違う。怒ったわけじゃない。あれは――“傷を触られた”ときの顔だ。
(次、ちゃんと謝らないとダメだな)
陸は静かに心に誓った。
不器用で、ツンで、猫みたいなあの魔術師に、ほんの少しでも“こっちの気持ち”が伝わるように。