第7話 夜の寄り合い
陽が西の空に沈み始める頃、薄暗い長屋の廊下は夕餉の少し焦げた肉の匂いが満たしていた。ヤマトは自分の部屋で、膝を抱えて座り込んでいた。
ベルゴの部屋に運び込まれた少年のことが、頭を離れない。あの青白い顔と、胸元に刻まれた奴隷印。カヤが見た瞬間に顔を歪めた理由も、それが奴隷印だと教わった今ならわかる気がした。オルタナに来てからまだ日は浅いが、マーケットには商品を善悪で区別するような倫理観や常識は存在しない。買い手が供給を求める限り売り手は需要を満たそうとする、マーケットではそれが全てだ。
足音が廊下に響く。複数の人間が、静かに歩いている音だった。いつもなら夕食の支度で賑やかになる時間なのに、今夜は妙に静まり返っている。ヤマトは立ち上がり、そっと扉を開けた。
「ヤマト」
振り返ると、マシラが小さく手招きをしている。その表情は、いつもの気だるそうな様子ではなく、どこか神妙な顔つきをしていた。
「どうした?」
「大人たちが集まってる。あの子のことで話してるようだ」
ヤマトは頷き、マシラと共に部屋を出た。
長屋の奥、普段は皆が食事を取るときに使う部屋に明かりが灯っている。そこに複数の人影が見えた。ヨハンの大きなシルエットと、ミア婆の小さな背中。ティオナの獣耳が、わずかに見え隠れしている。そして、ガランの白い髪が暗がりの中でぼんやりと光っていた。
「カヤは?」
ヤマトが小声で尋ねると、マシラが廊下の向こうを指差した。カヤは自分の部屋の前に座り込み、膝に顎を乗せている。少女は、普段の無邪気さをひそめて、じっと大人たちの話し合いの方向を見つめている。
部屋から、低い声が聞こえてくる。ヨハンの声だった。
「素性はわからないが、放っておくことも難しいな」
頷いてティオナの声が続く。
「あの子、あんなに小さいのに、どんな目に遭ってきたんだか…」
「問題はあの印だ」
ガランの声は、いつもの穏やかな調子を保っていたが、どこか重々しく響いた。
「奴隷商人にも色々ある。あの印は…」
「ああ…」
ガランの言葉にベルゴが後を続けた。
「ありゃあコルヌ・デイの奴隷印だろう」
「コルヌ・デイ…例のサン=ヴェルモルドのか」
「十中八九間違いない」
なぜベルゴがそのことを知っているのかはわからないが、ガランとベルゴが同じ見解なのだ。おそらく正しいのだろう。皆が口を噤んでしまった。
コルヌ・デイ——奴隷制を持つサン=ヴェルモルド神聖王国にあって、只人の血統至上主義を掲げる新興宗教団体だ。自分たちを「神の矛」であると名乗り、神の意志の反映と称して獣人や鉱人を中心とした奴隷売買や他国への秘密工作まで行うという噂がオルタナにも聞こえてきていた。
ヤマトは壁に背中を預け、耳を澄ませた。大人たちの話は、自分たちが考えている以上に複雑な問題を含んでいるようだった。マーケットで聞こえてくる断片的な会話から、奴隷売買の背後に大きな組織があることは感じていたが、ここまでとは思っていなかった。
「少年は今どこに?」
ミア婆の声が小さく響く。皆がベルゴを見て、ベルゴは低くかすれた声で答えた。
「工房に寝かせてる」
ティオナもそれに続けて言った。
「少し目を覚ましてその時にちょっと食べられたんだけどすぐに熱が出て。今はぐっすり寝てるわ」
「名前は名乗ったかい?」
ミア婆が尋ねた。
「ノア、と言ってた」
ガランが名前を何度か繰り返して呼んだ。
「あの耳…森人の血筋か」
「そうじゃな。血は半分かもしれん」
ベルゴの声がわずかに大きくなる。部屋の中で、また沈黙が流れた。森人と別の種族の混血は滅多に見かけない。希少な才能を持っている可能性がある。
「厄介だな」
ヨハンの声に、疲れが混じっている。
「あの子を見てたら、カヤを初めて見たときのことを思い出すわ。同じような目をしてる」
ティオナが机の一点を見つめながら続けた。
「あの子は親を迷宮で失った孤児だった。生きることに何の望みも持っていなかった。ノアも同じ。自分の命に何の価値も感じていない。そんな目」
ヤマトは胸の奥に、もやもやとした感情が広がるのを感じた。大人たちの言っていることは理解はできるが、どこか納得できない。あの青白い少年の顔を思い出すと、自分やカヤ、スラムで出会ったエイヴィたちと同じように、ただの子どもにしか見えなかった。
「そういえば、ヨハン」
ミア婆の声が割り込む。
「ひとつ聞きたいことがあるんだがね」
「何だ?」
「あの子から、魔法の残滓を感じた」
部屋の中の空気が、一瞬で変わった。ヤマトは背筋に冷たいものが走るのを感じる。魔法の残滓?
「あの子が魔法を使ったんじゃない。誰かが、あの子に魔法を使った」
ミア婆の声は静かだが、確信に満ちていた。
「まさか隷属の魔法か?」
ガランが尋ねる。
「いやそんな邪なものではない。おそらくはそこまではっきりとした魔法でもない。もっと根源的で、弱々しい——」
ミア婆の声が一瞬途切れる。
「——原初の力。言うなればね。それが少年の回復に繋がったようにみえる」
長い沈黙が流れた。ヤマトは自分の心臓の音が聞こえるような気がした。
「それで、ヤマトのことを聞きたいのか」
ヨハンの声は低く、警戒を含んでいる。他のものは皆当然のように受け入れているが、そもそもなぜミア婆が魔法を感じ取ることができるのかもわからず、ヨハンはミア婆の意図を測りかねていた。
「介抱したのがヤマトだと聞いてね」
ミア婆は返事をした。
「あの子の傍らでも、同じような魔法の痕跡を感じたの。とても微かだけど、確実にあった」
ヤマトは思わず息を呑んだ。自分に魔法の痕跡?
「心配しないで。詮索するつもりはないのよ」
ミア婆の声が続く。
「ヤマトの過去について、知っておくべきことがあるなら教えてほしいだけ」
重苦しい静寂が流れた。ヤマトは廊下の暗がりの中で、自分の手の平を見るともなく見つめた。
「正直に言うと、話せることは少ない」
眉間に皺を寄せて目を閉じていたヨハンがようやく口を開く。
「あの子は、俺がエル=リオンドで保護した。その時すでに記憶をほとんど失っていたんだ」
「記憶を?」
「ああ。自分の名前以外、何も覚えてなかった。家族のことも、どこから来たのかも」
ヤマトは拳を握って閉じた瞼の上から押し当てた。暗がりの中でカヤの視線を感じた。自分の過去について、改めて聞かされるのは辛い。記憶を失う前の自分がどんな子どもだったのか。なぜ記憶を失ったのか。そしてなぜひとりだったのか。何度となく向き合おうとしてできなかったことだ。
「記憶を失った原因は?」
ミア婆が尋ねる。
「わからん。見つけたときには、もうそういう状態だった。ただ…」
ヨハンは珍しく口ごもって天を仰いだ。
「とにかく”ひどい”状態だった。今のヤマトの姿からは程遠い」
ミア婆の指摘が、当時のヤマトの記憶を刺激した。覚えているのは寒さ、飢え、周囲の視線、全身の痛みや苦しみ…それらがヨハンと出会い、ヨハンの師であるハンスと出会い、そして神獣マシラと出会って今のヤマトに繋がっていったことが脳裏に蘇った。
「わかったわ。今はこれ以上はやめましょう。ただ、ヤマトの能力は、おそらく正しく導く必要がある」
「導くって?」
ティオナが尋ねる。
「魔法の素養があるかもしれない子どもを、そのまま放置するのは危険なんだよ。本人にとっても、周囲にとってもね」
ガランが穏やかな口調でそう言った。
「魔法は意思で扱う。意思は魂で象られる。そして無垢な魂は脆い」
それを聞いてミア婆も頷いた。
ヤマトは胸の奥に、不安と期待が入り混じった感情が湧き上がるのを感じた。魔法の素養。そんなものが自分にあるとは思えないが、もしそうだとしたら、自分は一体何者なのだろうか。
「話が脱線したな」
ガランの声が、議論を元に戻す。
「ノアという少年をどうするかが問題だった」
「取り敢えず、しばらくはベルゴの部屋に置くということでいいか?」
ヨハンが確認する。
「ああ、おれは構わん」
ベルゴの答えは簡潔だった。
「どうせ工房にいることが多いし、子供の面倒を見るのも悪くない」
「でも危険よ」
ティオナが心配そうに言う。
「もし奴隷商人が探しに来たら」
「その時は考えよう」
ガランが割り込む。
「今は目の前にいる子供を助けることが先決だ。危険があるからといって見捨てるわけにはいかない」
「ガランの言う通りね」
ミア婆が同意する。
「オルタナは元々、そういう場所でしょう。行き場のない者たちが集まる街」
「わかった。万が一のことがあったら、すぐにここから逃がす手段も考えておかないとだな」
「そうね、まずはあの子が回復するまでは様子を見ましょう」
「わしは明日マーケットの様子を探ってみる」
ベルゴが提案する。
「奴隷商人がどの程度本気で探してるかわかるかもしれん」
「気をつけろよ」
ヨハンが注意する。
「まだ相手の戦力がわからんのだから」
部屋の中で、椅子を動かす音が聞こえた。話し合いが終わりに近づいているようだった。ヤマトは慌ててマシラと共に自分の部屋に戻ろうとしたが、カヤがまだ廊下に座り込んでいることに気がついた。
「カヤ」
小声で呼びかける。カヤが振り返る。その目は少し赤く、泣いていたのかもしれない。
「大丈夫?」
「あの子、助かるのかな」
カヤの声は小さく震えている。
「みんなで助けるって決めただろ?」
「でも、危険なんでしょ?奴隷商人って怖い人たちなんでしょ?」
普段は気丈でも、10歳の少女にとっては今夜の大人たちの話し合いは理解しがた部分も多く、漠然とした恐怖を感じたのだろう。嵐のメカニズムを知らなくても、嵐に直面すればそれが恐ろしいものだということを感じ取れるのと同じだ。
「心配しなくていいよ」
ヤマトはカヤの隣に座り込む。
「ヨハンもいるし、ベルゴさんもいる。きっと大丈夫だ。それに、」
ヤマトは微笑みかける。
「それに、ここは長屋だ。みんなで助け合って生きる場所なんだから」
カヤが少しだけ表情を緩める。マシラは三人の様子を見ながら微笑んだ。
物置部屋から足音が聞こえ、大人たちが出てくる気配がした。ヤマトたちは慌てて立ち上がり、それぞれの部屋に向かう。廊下で、ヨハンとミア婆がすれ違うのが見えた。
「ヤマト」
ヨハンが声をかける。
「はい」
「明日から、稽古をもう少し厳しくする」
「どうして?」
「備えあれば憂いなし、ということだ」
「それなんだけど」
カヤが涙を拭って震える声で割って入った。
「明日からわたしも稽古に参加させてほしいの」
ヨハンはそれを聞いて思わずティオナを見た。ティオナも驚いてこちらを見たが、何も言わずただ頷いた。
「厳しいぞ」
「うん。がんばる」
ヨハンの表情は、さらに引き締まった。今夜の話し合いで、何かを決意したのかもしれない。
「じゃあ明日からよろしくな」
そう言って皆が部屋に戻っていった。
ヤマトは布団に潜り込んでも、なかなか眠ることができなかった。ノアという少年のこと。自分の失われた記憶のこと。そして、魔法の素養があるかもしれないということ。様々な思いが頭の中を駆け巡る。
隣でマシラが小さく身じろぎをした。
「マシラ」
「なんだ?」
「おれ、本当に魔法が使えるのかな」
マシラは少し考えるような間を置いてから答えた。
「わからん。だが、お前には確かに何かがある」
「何か?」
「まだ眠ってる何かだ。それが何なのかは、おれにもわからん」
ヤマトは天井を見上げた。暗闇の中で、長屋の古い梁が微かに見える。この建物の中に、今夜新しい住人が加わった。そして自分自身についても、知らない何かがあることがわかった。
オルタナの夜は深く、街の向こうからかすかに聞こえてくる音が、いつもより遠く感じられた。長屋の中では、新しい明日への不安と希望が、静かに息づいている。ヤマトは目を閉じ、明日という日が平穏であることを祈りながら、ようやく眠りについた。