第5話 逃亡者
ヨハンはベルゴに相談した翌日、あらためて娼館を訪ねた。
前日に使った中央街の扉を開けると、小さな部屋にゲートキーパーらしき巨躯の獣人がいた。ヨハンが老婆から渡された金属板を見せると何も言うことなく次の扉を開けた。扉を抜けるとそこは例の娼館だった。昼間の娼館は前日同様香木の香りの中でがらんとしていて、ヨハンは前日と同じ個室に通された。ヨハンにはもはやこの個室が娼館の一部なのか、どの扉が普通の扉でどの扉が転移の魔導具なのかもわからなかった。
「それで、どうだね?」
テーブルを挟んで向かいに座った、未だ名も知らぬ老婆がヨハンに語りかけた。
「まずこれをお返しする」
そう言ってヨハンは、老婆への返答の前に金属板をテーブルに置き、老婆に向かって差し出した。老婆の傍らに立つ護衛らしき男が金属板を受け取って無言のまま老婆に渡した。
「鍛治師はなんと言ってた?」
「あんたのことを…百景の、ずいぶん上の人であろう、とだけ」
老婆は受け取った金属板で顔をひらひらと仰ぎながら、楽しそうにヒョヒョヒョと声を上げて笑った。
「上の人とな。”うち”には上も下もないんだがの」
ヨハンは表情を変えず、平静を保っていた。どうやらベルゴの見立ては間違っていなさそうだ。老婆の両脇には男が二人距離を取って立っている。ここは個室で窓もない。前回もそうだが今回も視界で捉えられる人数より気配で感じる人数の方が多いことに気付いていた。
おそらく老婆は本当に重鎮なのだろう。その護衛を兼ねて自分は値踏みされているんだろうと考えていた。とは言え、ヨハンはこちらから売り込みをかけるつもりは毛頭なかった。元々、向こうからきた話なのだ。安く見積もられて骨折り損になるなら断るだけだ。
「仕事のことなんだが、あの報酬には百景としての、つまりマフィアの一員になることも含まれるのか?」
「いんや、あれはただの店の用心棒代さね。あんたにゃそこまで望んどらんよ。それに…」
老婆の笑みが少し冷たくなった。
「うちもそこまで安くない」
笑みと一緒に場の空気が凍り、ピリピリと張り詰めたが、ヨハンは堂々と受け止めて跳ね返した。それを見て老婆は満足そうに何度も頷いた。
「そんでええ。約束する。用心棒以外の仕事は一切含まん。あんたは、そうさの、一日おきにここに来て客の動向を気にしてくれりゃええ」
「…わかった。引き受けよう。明日からでいいか?」
老婆は頷き、ヨハンもそれを受けて頷いて立ち上がった。扉の近くまで来て、ヨハンはわざとらしく振り返り、老婆に訪ねた。
「そういえば、入口のことなんだが…」
「今日と同じ扉でええ。その内、鍵を渡す」
老婆が笑顔で返した。ヨハンは“鍵”の意味が正確にはわからなかったが意図は伝わったと解釈して部屋を出ていった。
ヨハンが部屋から去った後で老婆は笑みを浮かべたまま煙管に火をつけた。護衛の一人が音もなく煙草盆を持ってきてテーブルに置き、老婆は、吸った煙をゆっくりと吐いて、楽しそうに口を開いた。
「戦ったら勝てるか?」
「単純な戦闘なら無理ですね」
扉の影から声の後を追うように面をつけた者が姿を現した。
「あの男、表情も変えず、視線も向けず、我々一人一人に正確に圧を飛ばしてきました。護衛をやらせても一流ですよ。お陰で面の下は汗だくです」
「”影渡り”は?」
「試してたら首と胴が離れてます。ユエ=イン(月影)ならあるいは」
「そうかそうか。百鬼の十指でも勝てぬか」
老婆は愉快でたまらないらしくまたヒョヒョヒョと声を出して笑った。
(エル=リオンドの山岳戦闘で名を馳せたとなると、育てたのはナハトの爺共か…)
老婆は、「ナハト(夜)」と呼ばれる、ヴェルテンシャイデ(ウヌアを別つ壁)の「魔女の喉元」で魔獣や魔物を狩って暮らす古の狩猟民族を思い浮かべた。魔獣と戦うことを何よりも名誉と考えるナハトは、代々の王と、「魔女の喉元」に湧く魔物を狩る役割を引き受ける代わりに魔獣を狩る自由と国には関わらない約定を結んでいたはずだ。百景が誇る情報機関『百眼』をもってしてもナハトが軍に関与したという情報は持っていなかった。となると、前王がよほど懇意にした間柄の人物がナハトにいて個人として請け負ったのか。
「太主」
傍らに立つ護衛が老婆に声をかけると、老婆は頷いて煙管から火種を叩いて落とし、毅然と言い放った。
「あの男にはムィ=エン(無限の霧)の名において、不要な干渉を禁ずる。皆に伝えなさい」
沈黙の中、影に潜んでいた気配が一斉に消えてなくなった。
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ヨハンが老婆に用心棒を受諾する返事をした日の夜、マーケットの暗い部屋の中でノアは脆くなった木の節を慎重かつ執拗に擦り続けていた。爪が割れ、指先から血が滲んでも彼は諦めなかった。自由を奪われた恐怖よりも、明日の身の上に対する恐れの方が強かったからだ。
空が白み始めるその前にノアの努力は実を結んだ。檻の一部が僅かに歪み、細い体を押し込めば通れそうな隙間ができた。見張りの男は酒で眠りこけている。ノアは思い切って脱出を試みた。
木の破片が肌を傷つけ、衣服が引きちぎられたが、彼は何とか檻の外に這い出した。冷たい石の床に転がり、一瞬息を止めて周囲の様子を窺う。他の子どもたちは半分眠り、半分は震えながら彼の行動を見つめていた。
「皆も…」
ノアの言葉を、獣人の少年が小さく首を振って遮った。他の檻は新しく、簡単には壊れない。それに大勢での脱出は気づかれる確率が高い。少年の目は諦めと共に、わずかな希望を宿していた。
ノアは迷いながらも、倉庫の隅にある小さな窓に向かって這い進んだ。窓は高い位置にあったが、積み上げられた木箱を足場にして何とか届きそうだった。彼は最後に一度振り返り、残された子どもたちの方を見た。その時、倉庫の外で物音がした。見張りの交代か、酔いが覚めた男が戻ってくるのか。逡巡する余裕はなかった。ノアは咄嗟に木箱を登り、窓に手をかけた。古いガラスは容易に外れ、夜の冷気が彼の頬を撫でた。細い体を窓枠に通し、彼は街の闇へと飛び出した。足を踏み外して転んだがすぐに立ち上がり、名も知らぬ路地を裸足で駆け出した。背後から怒声が聞こえ始めたが、ノアは振り返らなかった。
脚が痛み、呼吸が苦しくなっても、彼は走り続けた。マーケットの迷路のような路地を通り抜け、行き先も分からぬまま、ただ本能的に逃げ続けた。
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翌日の午後、灰色の雲がオルタナの空を覆っていた。ヤマトとカヤはマシラを連れて、いつものようにゴミ捨て場へと向かっていた。
「今日は何かいいのが見つかるかな」
カヤは返事をせず、その猫のような瞳で周囲を見回していた。
「昨日の夜マーケットで騒ぎがあったみたいだね」
ヤマトが言った。カヤは黙って肩をすくめた。彼女の尾が少し不機嫌そうに揺れている。
「カヤは昨日何してたの?」
カヤは無言のまま、ヤマトのことは無視して警戒を続けている。
「ねぇカヤ、どうしたの?」
カヤはピリピリした顔をヤマトに向けたが、次第に呆れたような表情になって言った。
「あんた、つい最近銃を向けられたばかりなのよ? 死ぬかもしれなかったってのに、ちょっとは緊張しなさいよ!」
言われたヤマトは少しばつが悪い顔で笑った。マシラは二人の間を器用に歩き、時折両方の顔を見上げては微かに笑うようなしぐさを見せた。
ゴミ捨て場に着くと、カヤは素早く周囲を確認し、黙って作業に取りかかった。ヤマトもまた、使えそうな金属片や壊れた魔導具の部品を探し始めた。二人は無言で動きながらも互いの位置を確認し合っていた。
「ヨハンは仕事どうするって?」
「受けるって返事したみたいだよ」
「ふーん…稼げるようになったら下町を出るの?」
「それはないんじゃないかな。長屋を気に入ってるしね」
「そっか、ならまだチャンスはあるか」
「チャンス?」
「うん、わたしもヨハンに戦い方を教わりたいと思ってて」
ヤマトは顔を上げてカヤを見た。
「やっぱりさ、最近いろいろあったしマーケットでも時々怖いこともあるし。それにね」
カヤも顔を上げた。
「腕があれば稼げる。自分の生き方を選ぶことができるってことだからね」
どうやらヨハンに届いた仕事の話がカヤに刺激になっているようだ。元々、ティオナに薬師としての知識を教わっていたようだが、ヤマトが長屋に来てからは特に熱心に教わっていると聞いていた。
「別にマフィアに入りたいわけじゃないけど。ヤマトもそう思わない?」
「うん。そうだね」
ヤマトは、自分の中にある”何か”と、どうすれば向き合えるのかを考えていた。
失ったままの記憶。自分ではよくわからない”力”。
ヨハンからは身体を鍛えることを勧められ、今はそれに従ってはいるがそれ以外ではゴミを漁る日々だ。自分は自分の中の何かに怯えたまま、ずっとゴミを漁るのだろうか。そう思うと、先のことを考えているカヤがどんどん先に進んでいるようで悔しい気持ちもあった。
マシラはいつものように二人から少し離れた位置で二人の会話を聞きながらぼんやりと周囲を見回していたが、途中で視線に鋭さが増して一箇所を凝視した。
「どうした、マシラ?」
それに気付いたヤマトが問いかけたが、マシラは返事をせず、ゴミの山の向こう側に回り込んでいった。
好奇心に駆られたヤマトがマシラの後を追った。
「えっ、またなの?…もう、絶対また厄介ごとだ…」
そう呟いてカヤも渋々と追いかけた。カヤがゴミの山を回り込むと、そこにはマシラとヤマトの間に俯せに倒れて動かない少年の姿があった。
汚れた顔と傷だらけの手足の少年は、ゴミの中に身を隠そうとしたのか穴を掘ろうとして気を失ったようだった。顔色は悪く、疲労が色濃く刻まれていた。痩せた体は、まるで折れそうな小枝のようにか細く、服はボロボロで、あちこちに裂け目があった。
カヤが止める間もなくヤマトが、少年を抱き起こせるように仰向けに返した。その時、カヤの瞳が鋭く細まった。少年の胸元に刻まれた印が見えて彼女は息を呑んだ。獣人の少女の尾が警戒するように固く緊張した。
「奴隷印…」
カヤの声は震えていた。
ヤマトはそれには気付かず、少年の様子を伺った。顔からは生気が失われ、呼吸はしているようだが意識はなく、手も足もぼろぼろで全身が黒ずんで汚れて髪色も何もわからない。背格好などからおそらく自分と同じか年下だろう。穴を掘ったのは、何かから逃げようとしていたのだろうか。
マシラが再び何か警戒する仕草を見せた。ヤマトがマシラの目線の先に意識を集中させると、誰かが話しながら近づいてくるの話し声と足音が聞こえてきた。嫌な予感がしたヤマトは急いでカヤに声をかけた。
「カヤ、隠れよう!」
ヤマトは意識のない少年を背負い、動揺して動けないでいるカヤの手を引いてゴミ山の影に隠れた。カヤは顔色を失い、引っ張られるままに付いてきたがまるで何も目に入っていないようだ。
「探せって言われてもどこ探しゃいいんだよ」
影に入ってすぐ、大人の男らしき声が聞こえてきた。
「さすがにこの辺にまだいるってことはないんじゃないすか?」
「スラムの方まで行かれてたら探し出すのは面倒だな」
「今でも十分に面倒だよ」
近づいてきた男の顔を隙間から覗くと、以前、ゴミ捨て場でリーヴを囲んでいた男たちだった。ヤマトに銃を向けた男はいないようだったがその周りにいた連中だった。
「誰が見張りやってたんすか?」
「名前は知らねぇ。けどもうガエルが殺っちまった」
「しかもガキどもの目の前でな」
「そりゃいい見せしめになりましたね」
男たちはもうヤマトたちのすぐ側まで来ていた。カヤは会話を聞き、また話している男たちの姿を見て恐怖にかられたのか、何か声を上げそうになっていた。その気配を感じたヤマトは、カヤを男たちから目をそらせるために自分の方に向き直らせて、優しく耳を塞いだ。カヤは恐怖の余りヤマトの胸に顔を埋めてぎゅっと目を閉じた。
この状況にマシラは闇魔法を使い、自分たちの姿をゴミ山の影の中に完全に溶け込ませた。
男たちはもうヤマトたちの目の間まできていた。
「もうここにはいねぇな」
「となるとスラムか、めんどくせぇな」
「全部燃やしてしまうか」
「それなら楽でいいけどな」
「とりあえず一度戻ろう。すでに噂が出回ってる」
そんな会話の後、男たちはヤマトたちの目の前で踵を返して引き上げていった。
マシラが気配を探り、男たちが去ったのを確認した。ゴミ山の影には気を失ったままの少年と恐怖で言葉を発することもできないカヤ、その二人を抱えるヤマトの立ち尽くす姿があった。