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第4話 百景

長屋に戻ったヨハンは、老婆から渡された金属板を懐に入れたまま、静かに自室に引き籠もった。窓からはオルタナの夜景が見えた。中央街の灯りは明るく輝き、マーケットの方角は不規則に光が点滅していた。


マシラは窓辺で小さく丸くなって目を閉じていたが、ヨハンの落ち着きのない足音に注意を払っていた。


ヨハンは長い間、金属板を手の中で転がしていた。表面の複雑な文様が、彼の太い指の腹に冷たく触れる。この板にどんな意味があるのか全くわからないでいた。


ヨハンはヤマトの寝息を確かめると部屋を出た。夜の空気が肌に触れ肌寒く感じる中、ベルゴの工房に向かった。


ベルゴの工房は、夜になっても明かりが消えることはなかった。鎚の音と火の匂いが絶えず漂い、鉱人特有の集中力で仕事に没頭する姿があった。炉の熱が工房内に満ち、壁際には複雑な形状の金属部品や道具が整然と並んでいた。魔導具の試作品らしき物体も半ば組み立てられた状態で作業台に置かれていた。


ヨハンが工房の扉を叩いても反応はなかった。勝手に扉を開けると、ベルゴは作業台に向かって座り、細かな金属の加工に集中していた。炉の火とベルゴの手元に注がれた灯りだけが、工房内をゆらゆらと照らしていた。


ヨハンは黙って近づき、酒瓶を作業台に置いた。


---


「それで、どうしたんだ」


作業台にグラスとツマミを並べてベルゴが尋ねた。


「聞きたいことがあってな」


そう言って、ヨハンは金属板を作業台の上に置いた。ベルゴは手を止め、しばらくそれを見つめていた。


ベルゴの眉が微かに動いた。彼は慎重に金属板を手に取り、指先でその表面を撫でるように触れた。鉱人にとって、金属は言葉を交わすように語りかけてくるものだった。ベルゴは工房の奥から小さな器具を持ってきて、金属板の表面に当てた。それは鉱人だけが知る特殊な道具で、金属の純度や加工法を調べるものだった。


ベルゴの動作は儀式のように丁寧で、彼の目は金属板に向けられたまま、何かを読み取るように集中していた。工房内に流れる時間が、一瞬止まったように感じられた。


「なんとまぁ」


低い声でベルゴが言った。


「こりゃあ古い鉱人の鎚金だ。どこでこれを?」


ヨハンは簡単にあらましを話して聞かせた。


「なるほどな」


酒を一気に煽ってベルゴが言った。


「これが何を示すのか知りたいってとこか」


ヨハンは頷いた。


「名札ってわけじゃあないが、まあ身元の証明みたいなもんだろう。要は偽造は不可能でこれを持てるのは限られたやつだってことだ」

「何者なんだ」

「そもそも古い組織におらんと目にできるもんじゃない。今こんなの持っとるのはマフィアの、またそん中でも”かなり上の方”だな。オルタナの裏街一帯を取り仕切っとる奴らだろう」


ベルゴは金属板を灯りに透かして見せた。光の中で、それまで見えなかった微細な刻印、三足烏の姿が浮き上がった。オルタナの正式な紋章の一部が、そこには描かれていたのだ。


「間違いない。三大マフィアの、それも幹部だろう」

「三大マフィア…」

「店は百花だったな。その上なら『百景』だ」


ベルゴは言葉を選びながら続けた。


「百景?」


ヨハンは聞いたことがなかった。


「『ブラトヴァ』とかいう奴らより上ってことか?」

「比べ物にならんよ」


ベルゴは頭を振って続けた。


「ブラトヴァってのは割と最近できた組だったはずだ。オルタナの三大マフィアは昔っから『アルチエリ』『ネクス』『百景』の三つ。この三つの組織としての歴史はギルドより古い。オルタナ最古と言うても過言ではない。古過ぎて今の若いもんは都市伝説だと思ってるくらいの代物だ。ブラトヴァも辿っていけばその三つの内のどれかの傘下だ」


ヨハンは黙ってベルゴの言葉に耳を傾けた。彼の顔には、疑問と警戒が混ざり合っていた。


「百景は主にだが娼館や飲み屋やらを仕切っとる。それだけ聞くと小さい組に聞こえるが娼館の『百花』以外にも『百鬼』とか『百怪』ってのが”外”でも名が通っとる。百鬼は要人警護と暗殺、百怪は迷宮探索もするが要は傭兵。他にも『百眼』『百足』『百舌』…それから『百雷』だったか。どこまであるか見当もつかんが全部『百景』の顔じゃ」


ベルゴは金属板を灯りから遠ざけ、指先で文様を辿り、金属板をヨハンに返しながらゆっくりと言葉を紡いだ。


「確かに最近のマーケットはいつもより荒れとる気がする。アウステリアとエル=リオンドの戦が終わったってのに最近増えてるのはなぜかサン=ヴェルモルドからの流民だ」


「サン=ヴェルモルド神聖王国か?」


頷いてベルゴが続ける。


「ああ。人だけじゃのうて物の流れも変わってきとる。人も物もサン=ヴェルモルドからの流入が目立つが、そっちに流れてるものは殆ど無い。ヨハン、お前、コルヌ・デイって聞いたことあるか?」


コルヌ・デイ——その名をヨハンは初めて聞いた。ベルゴの声には嫌悪が含まれていた。


「選民思想の新興宗教組織だ。只人の、それも貴族の血以外を蔑視しとるっちゅう反吐が出るやつらよ。こいつらに村を焼かれたっちゅう連中が流れてきとるって話だ」


ベルゴの太い指が、作業台の上で不規則にリズムを刻んだ。


「気をつけぇよ。やつらマフィアと契るっちゅうことは…」


ベルゴは言葉を途切れさせた。何か言いかけて、それを飲み込んだような表情だった。彼の目には複雑な思いが浮かんでいたが、それ以上は何も語らなかった。代わりに、彼は立ち上がって炉の火を整えた。炎が明るく燃え上がり、工房内を赤く照らす。


ヨハンは金属板を見つめ、考え込んだ。娼館の用心棒という仕事は、彼にとって想定外だった。だがオルタナでの生活を続けるには、何か仕事が必要だった。そしてこれからのオルタナでの安全を守るためには、この街の裏側についても知っておく必要があった。


「決めた」


ヨハンは金属板を懐に戻しながら言った。


「仕事は引き受ける。だがマフィアにはならん」


ベルゴはそれを聞いて、小さく頷いた。


「それが賢明だが、やつらがそれを許せばええが」


---


工房を後にしたヨハンは、夜風を浴びながら長屋に戻った。その足取りには、新たな決意が宿っていた。オルタナという街で生きていくために、彼は最初の一歩を踏み出したのだ。


マシラは長屋で丸まりながらヨハンの帰りを待っていた。ヨハンが戻ってきたときの足取りの音を聞いて満足そうに寝息を立て始めた。


---


同じ頃、オルタナの外れにあるマーケットへと一台の荷車が到着していた。


街の喧騒が徐々に遠のき、薄暗い路地が荷車を飲み込んでいく。車輪が軋む音だけが、夜の闇に溶けていった。荷台には幾つかの檻が積まれ、その中には数人の子どもたちが押し込められていた。


檻は粗悪な木材と錆びた鉄柵で作られ、節目から漏れる風が子どもたちの震える肌を刺した。檻の隙間から見える夜空には殆ど星が見えない。故郷で見慣れた夜空とは違い、まるで異国の文字のように読み解けない天空の図柄が、彼らの絶望を深めていた。


ノアという名の九歳の少年は、中でも一番小さな檻に閉じ込められていた。彼の檻だけが他と離れて置かれ、特別な荷物のように扱われている。膝を抱えて座り込み、薄い毛布に身を包んだ彼の姿は蕾のように小さかった。


只人のように見えるノアだが、よく見ると耳の形がわずかに尖っていた。森人の血を引く証だった。彼の首元には首輪が付けられ、胸元は奴隷を示す焼印が皮膚をただれさせていた。


「この半端者が一番高く売れる」


車を引く男の一人が、ノアの檻を指差して言った。彼の声には軽蔑と欲望が混ざり合っていた。


「森人と鉱人の半血は珍しい。奴隷じゃなくても”材料”として売れる」


もう一人の男は冷淡に応じた。その声に含まれる打算的な響きに、檻の中のノアは身を縮めた。彼らにとって子どもは商品でしかなく、その価値は見た目や種族、そして血筋で測られていた。


荷車はマーケットの奥へと進み、人目を避けるようにひっそりとした一角へと導かれた。そこには薄暗い倉庫があり、扉は開け放たれていた。夜の闇に紛れて、檻は一つずつ下ろされ、倉庫の中へと運び込まれていった。


倉庫の中は湿気を含んだ空気が澱み、古い木材と錆びた金属の匂いが混ざり合っていた。壁際には既に数個の檻が置かれ、中には様々な種族の子どもたちがいた。獣人、鉱人、そして森人の子どもたち。彼らの目は恐怖で見開かれ、幾人かは絶望から既に虚ろな表情を浮かべていた。


ノアの檻が倉庫の中央に置かれると、男たちは一旦外へ出て行った。彼らの足音が遠ざかり、静寂が戻ってきた。檻の中の子どもたちは、お互いに視線を交わし、時折小さなすすり泣きが聞こえるだけだった。


ノアは檻の隅に身を寄せ、毛布にくるまりながら状況を観察していた。彼の細い指が首輪に触れ、魔術式の感触を確かめる。父から教わった知識が頭の中で整理され、逃げ出す方法を必死に考えていた。


「おい、お前…どこから来たんだ?」


隣の檻から囁き声が聞こえた。獣人の少年だった。彼の顔には打撲の跡があり、耳は少し切れていた。


ノアは答えなかった。信頼できる相手かどうか判断できなかったからだ。ただ視線だけを向けると、獣人の少年は理解したように小さく頷いた。


「俺たちはサン=ヴェルモルドの北部からだ。村ごと襲われて…」


少年の言葉は喉の奥で途切れた。記憶を思い出すのが辛いようだった。


夜が更け、倉庫の外からは男たちの笑い声と酒臭い息が漂ってきた。彼らは明朝の取引に備えて、今夜の見張りを交代で行うようだった。ノアは注意深く番人の交代のリズムを観察し、僅かな隙を見つけようと目を凝らしていた。


弱った木の節目や、古くなった金属の歪みを探し、檻の一角に他より風化が進んだ木の節を見つけると、こっそりとそこを爪でこすり始めた。

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