第3話 中央街
スラムにある小さな広場。居並ぶ子どもたちに混じってカヤとリーヴが並んで座り、ガランの指導のもと文字を学んでいた。砂を敷き詰めた地面に小さな木の棒で文字を書く二人の姿が、午前の柔らかな陽に照らされている。
カヤは眉間に皺を寄せ、真剣な表情で砂に描いた文字を何度も消しては書き直していた。リーヴは時折間違えては笑い、そのたびにカヤに叱られる。獣人特有の耳をピクリと動かしながら、カヤは隣にいるリーヴよりも早く字を覚えようと懸命だった。
「もう一度」
ガランの落ち着いた声が響く。長い白髪と穏やかな表情の奥に、優しさを湛えた瞳が光り、子どもたちを見守っている。七十を過ぎた只人の老人は、背筋をピンと伸ばしたまま二人の手元を見つめていた。
砂面に描かれた文字は、オルタナで使われる共通語の文字だ。カヤの書いた文字は硬く、力が入りすぎている。対してリーヴのそれは柔らかく、時に崩れすぎていた。
「今日ヤマトは?」
リーヴはカヤに無邪気に尋ねた。
「ヤマトは、ヨハンと中央街に行ってる」
いいなぁ、と返すリーヴにカヤは続けた。
「ヤマトはもう読み書きも計算もできるの」
彼女の中で対抗心が燃えている。獣人だとか只人だとかではなく、ヤマトに負けたくない。そんな思いが彼女の小さな胸の中で芽生えていた。
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同じ時刻、ヤマトはマシラを肩に乗せて、ヨハンに付いて中央街へと向かっていた。敷き詰められた石畳が、二人の足音を反響させる。霧が晴れ始め、遠くにオルタナの中心部が徐々に姿を現していく。
迷宮を中心に据える中央街はオルタナの心臓部だ。建物は下町やスラムとは異なり、整然と区画整理され、魔法陣が刻まれた街灯が等間隔に立ち並ぶ。石造りの頑丈な建物には、精巧な装飾が施されていた。様々な種族が行き交い、露店や店舗からは活気ある声が飛び交う。
「すごい…」
ヤマトは思わず言葉を漏らした。空気さえも違う。下町の泥と汗と煙の匂いと違い、ここには魔導具から漏れる魔力の独特な香り、錬金術師の調合する薬草の匂い、鍛冶場から漂う金属の熱した香りが混ざり合っていた。
ヨハンは無言でヤマトの肩に手を置いた。迷うな、という無言の指示。中央街は下町やスラムほど危険ではないが、それでも油断はできない場所だった。
ヨハンの目的は探索ギルドだ。オルタナの三大ギルドのひとつであり、迷宮の探索を管理する公的機関だが、探索者を中心に仕事の斡旋も行っていた。中央広場を過ぎ、大通りを進むと巨大な石造りの建物が見えてきた。正面には槌と剣が炎の下で交差し、その周囲を麦が囲んだ三大ギルドを示す紋章が掲げられている。
探索ギルドの入り口は重厚な鉄の扉で、暗渠を流れる魔力を感じ取れるマシラは、扉周辺に張り巡らされた魔法陣の気配に眉をひそめた。扉の前には様々な出で立ちの探索者たちが行き来していた。鎧を身にまとった騎士のような者、軽装の狩人風の者、ローブを着た魔術師風の者。腕や顔面に刺青を入れた獣人、自分の体ほどもある盾を持った鉱人。皆が武器や魔導具を身につけ、探索の帰りか準備か、忙しなく動き回っていた。
ヨハンはヤマトの肩に置いた手に少し力を込めた。
「ギルドは初めてだろう。余計なことはせず座っていろ」
ヤマトはうなずいた。普段は無骨で寡黙なヨハンがこうして言葉少なに注意をするのは、それだけこの場所が特別だということだ。
重い扉を開けると、中は想像以上に広かった。高い天井から吊るされた魔石のランプが淡い光を放ち、壁には迷宮の地図や告知が貼られている。中央にはカウンターがあり、鉱人や只人の職員が忙しそうに書類を捌いていた。
ヨハンはカウンターに向かい、ヤマトを壁際のベンチに座っているよう促した。
「仕事を探している」
そう告げたヨハンに、カウンターの向こうにいた鉱人の女性は一瞥してヨハンの風体を確認すると無愛想に応対した。探索ギルドのカードはあるか、経験はどの程度か、魔導具は何を使うのか。質問に対してヨハンは簡潔に答えていく。
やがて掲示板へと案内され、そこには様々な依頼が貼り出されていた。魔物の討伐、護衛、物資調達、探索同行。依頼の内容と報酬の釣り合いを見ながら、ヨハンは無言で検討を続けた。
ヤマトはその間、好奇心に任せて周囲を見回していた。壁には過去の探索記録や、迷宮の危険区域を示す地図が掲げられている。武器や防具を取り扱う店も併設されており、様々な種族が熱心に品定めをしていた。
ふと、ヨハンに向けられる視線を感じた。
若い探索者の集団。高価な装備に身を包み、どこか尊大な態度を漂わせている。その中の一人、只人の男が何かをつぶやき、仲間が笑った。
「あんな老いぼれが探索者?冗談じゃない」
声が耳に届く。ヤマトは思わず拳を握りしめた。しかし、ヨハンは全く気にする様子もなく、依頼を見続けている。
若い探索者たちはさらに声を大きくした。
「聞いたか?エル=リオンドから来た負け犬だって」
「負けた国の兵隊なんて、ここじゃ使い物にならないだろ」
「迷宮で死んだ方が世のためだな」
嘲笑が続く。ヤマトの怒りが膨れ上がる。ヨハンもついに振り返り、若い探索者たちを見た。マシラが何かを感じ取りヤマトにだけ聞こえる小声で呟いた。
「ありゃ、やばいぞ」
その瞬間、空気が凍りついた。
言葉も、動きも、なかった。ただヨハンがじっと彼らを見つめるだけ。だが、その視線の先にいた若者たちの顔が蒼白になっていく。冷や汗が流れ落ち、足がわずかに震える。まるで獲物を前にした獣に睨まれたような恐怖が彼らを包み込み、フロア全体が異様な緊張感で静まりかえった。
ヤマトでさえ、ヨハンからこのような威圧を感じたことはなかった。これが、ヨハンの本当の姿なのか。
若い探索者たちは言葉を失い、一斉にその場から立ち去った。去り際、足元がおぼつかない者もいた。
「見事なもんだね」
しゃがれた声にヨハンが振り向くと、そこには小柄な、腰の曲がった老婆が立っていた。質素な服装だがその佇まいには威厳があり、目は皺の奥に隠れて殆ど見えなかった。
「血も流さず、言葉も発さずに追い払うとは」
老婆は口元に微かな笑みを浮かべていた。
「大したことはない」
ヨハンの声は低く、警戒心に満ちていた。
「仕事を探しとるんか? よければ紹介できるがの」
老婆はさらに近づいた。周囲の人々が自然と距離を取る。まるで目に見えない結界が彼女の周りにあるかのようだった。
「興味があれば、ついて来んさい」
老婆はそう言うと、ギルドの奥へと歩き始めた。ヨハンは一瞬躊躇したが、何かを決意したように老婆の後を追った。ヤマトも急いでついていく。
老婆はギルドの裏手にある小さな部屋に入っていった。そこには、一見すると普通の扉があった。しかし、老婆が懐から取り出した杖で扉に触れると、その周囲に微かな魔法陣が浮かび上がった。輝きは一瞬で消え、扉が開くとそこは全く別の場所だった。
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扉の先は木々の匂いがする小さな庭だった。庭の中央に錆びた金属の扉があり、よく見ると扉の縁には青白い光を放つ複雑な魔法陣が刻まれていた。老婆が杖で扉を軽く叩くと、魔法陣が一瞬だけ鮮やかに光り、それから扉がひとりでに開いた。
「ついといで」
老婆の声に、ヨハンは眉を寄せたが、ヤマトの肩に手を置いたまま扉の先へと歩を進めた。
扉の向こうは予想外の光景だった。
彼らが足を踏み入れたのは、薄暗い酒場のような場所だった。甘い酒と重厚な木の香りが混ざり合う薄暗い空間。壁には高級な絹の壁紙が貼られ、床には質の良い絨毯が敷かれ、それらを赤みがかった魔石の間接照明が柔らかく照らしていた。
おそらくはただの酒場ではない、ヨハンはそう感じていた。
空気は甘く重く、何かの香木が燻されている。カウンターの向こうでは、男が無言でグラスを磨いている。部屋の隅には従業員らしき男が何人かいたが、老婆が入ってくると一斉に立ち去った。
「娼館か?」
ヨハンが口を開いた。顔をしかめるヨハンに老婆は含み笑いを浮かべ、奥へと歩を進める。
「心配せんでも子どもには何も見せんよ。こっちだ」
彼らは店の奥、重厚な木製の扉を潜って静かな小部屋に案内された。窓もなく、ただ部屋の中央に据えられた机と椅子が二人を待っていた。老婆は杖を机に立てかけ、椅子に腰を下ろした。
「どうやって来たの?」
ヤマトは思わず尋ねた。先ほどまでギルドにいたはずなのに、まるで街の別の場所に移動したような感覚だった。
「ちょっとした抜け道さ。オルタナには色々な場所を繋ぐ道があるんだよ」
老婆は応えると、ヨハンとヤマトにも座るよう促した。
「用心棒として雇いたい。この店の」
老婆の言葉は単刀直入だった。ヨハンは険しい表情で黙り込んだ。
「どうしてわたしを?」
「噂を聞いている。エル=リオンドの『守護者』にして」
ヨハンの眉間に深い皺が刻まれた。
「『グリズル(灰色熊)』とな」
オルタナでは誰も知るはずのない過去を、この老婆はいとも簡単に口にしている。老婆は煙管を取り出すと、ゆっくりと火を点けた。甘い草の匂いが部屋に満ちる。
「心配せんでええ。オルタナは過去など気にせん。腕の立つ者が必要なだけだ」
老婆は小さな袋を取り出した。中身は金貨だった。報酬という意味なのだろう。ヤマトの目が丸くなる。長屋で生活するのに十分すぎる額だった。
「場所は?」
ヨハンの質問は簡潔だった。
「ここさ」
「ここ、とは?」
「百花。そう言ってわかるかね?」
ヨハンは表情を変えない。百花——オルタナに留まらず、エル=リオンド王国でも聞いたことがある有名な高級娼館の名だ。秘められた欲を吐き出す場所として、ここで話されたことは一切表に出ることはないとされ、過去には国家間の秘密会談が催されたこともあると聞く。ときに陰謀の中心と噂されることもある店だ。それが本当ならば…ヨハンは思った疑問を口にした。
「おれの知る"百花"なら、用心棒なんていくらでも用意できると思うんだが」
老婆は頷いて続ける。
「そりゃな。暴れるバカを叩きのめすだけなら簡単さ。だが血を流さずに追い払える腕前を実際に見ちまうとね、この縁は繋いでおきたい。それに」
ヨハンは黙って老婆を見つめていた。
「最近は違う風の動きがある。どうにもな、嫌な風だ。この風を受けるには新しい風が必要だ」
老婆の話を聞きながらヨハンの頭の中で様々な思考が巡っていることは、ヤマトにも感じ取れた。
「返事は明日で構わんよ」
老婆はゆっくりと煙を吐きながら小さな金属板をヨハンに渡した。鈍く光る表面には木の年輪のような、波紋のような複雑な紋様が刻まれている。
「これを、あんたんとこの鍛治師に見せな。あやつなら分かるだろて」
老婆はそう言うと、立ち上がった。
「あんたどこまで…」
ヨハンの問いに、老婆は微笑んだ。
「オルタナにはたくさんの目と耳がある」
そう言ってから老婆は杖を手に立ち上がった。彼らを案内したのと同じ扉へと歩み寄り、扉を開く。
「帰り道は分かるね」
そう言い残し、老婆は部屋から出ていった。残されたヨハンとヤマトは、金属の板を眺めながら沈黙を保った。
店の”入口”から外に出ると中央街の一角だった。おそらくギルドだろうが中央街だろうがマーケットだろうが、行ける者は行けるし、行けない者は行けない仕組みなのだろう。
空を見上げると、太陽が真上にあった。ヤマトはヨハンの無言の指示に従い、長屋へと戻る道を歩き始めた。頭の中では、さまざまな疑問と初めて見た光景の記憶が渦巻いていた。
この街の深層に、自分たちはまだ触れ始めたばかりだということを、ヤマトは感じていた。