第2話 スラム
灰色の煙とゴミ捨て場の埃が立ち込めるなか、微かに酸っぱい匂いが漂っていた。ヤマトがリーヴを守るように前に立っている。先ほどまでリーヴを取り囲んでいた男たちの顔には、獣人への軽蔑と嘲りが貼り付いたままだ。幼い獣人の少女が拾い集めた鉄くずを蹴散らす大人たちの姿に、ヤマトの胸の奥が熱くなる。
頬を伝う緊張と興奮の汗を拭いながら、ヤマトは棍を構えて一歩前に出た。横でマシラが静かに唸り、警戒するように男たちを見据えている。
「横からしゃしゃってくるんじゃねぇよ、ガキ」
声を上げた男の顔には幾筋もの傷跡があり、その瞳には底知れぬ冷たさがあった。その言葉に反応したのは肉付きの良い男で、その手には小さな鉄の棒が握られている。かつては何かの部品だったのだろう、その鋭利な先端が今にもリーヴに向けられそうになっていた。
「やめて、わたし何もしてない…」
リーヴの小さな声がゴミの山の間に消える。カヤが後ろからリーヴの体を引き寄せ、守るように抱きしめたがその腕も小刻みに震えている。リーヴの金色の瞳は涙で濡れ、その耳は恐怖で後ろに倒れている。
ヤマトは自分の中で何か、ドス黒い感情が渦巻くのを感じた。それは怒りだけではなく、もっと深い、もっと原始的な感情だった。体の奥底から沸き上がる熱が、しびれるように指先まで伝わる。
「あの子に関わるな」
ヤマトの声は予想外に低く、厳しいものだった。マシラが再び唸り、今度はその声に威嚇の色が混じっていた。男たちの一人が後ずさりするが、先頭の男が懐から短銃を抜いてヤマトへ向けた。
空気が変わった。
ゴミ捨て場に漂う腐敗と金属の匂いの中に、微かな焦げ臭さが混じり始めた。ヤマトの周りの空気が歪み、揺らぐように見える。その変化に男たちの表情が強張り、互いに顔を見合わせた。マシラはヤマトの異変を感じ取り、さりげなく彼の足元に近づいた。
長屋から遠く離れたところで、ミア婆が窓辺で空を見つめていた。何かを感じ取ったように手を窓に這わせ、しわがれた唇が小さく動いた。
「やめておけ。ただのガキと獣だ」
肉付きのいい男が銃を持っている仲間に声をかけた。彼らの粗暴な態度の裏に、説明のつかない不安が忍び込んでいるのが見て取れた。ヤマトに向けられた視線の中に、恐怖の色が混じり始めていた。
「次はねぇぞ」
銃を持った男はこめかみに血管を浮かび上がらせて銃を懐にしまい、最後にリーヴを睨みつけて不満げな呟きと共に去っていった。その背中が見えなくなるまで、誰も動かなかった。
陽に熱せられた金属が伸びたのかゴミの山の中で小さな金属音がした。静寂のなかでヤマトが深呼吸をする。
ヤマトの中の熱は徐々に引いていき、代わりに疲労感が押し寄せてきた。何が起きたのか自分でも理解できないまま、彼はもう一度深く息を吸って吐いた。マシラがヤマトの足元からに頭に飛び乗った。マシラとしては無茶するなという気持ちだったのだろう。ヤマトは苦笑いしながら「ごめん」と呟いた。
「大丈夫?」
カヤの声にリーヴはようやく顔を上げた。小さくうなずいたものの、その体はまだ震えていた。カヤはヤマトにも声をかけた。
「ありがとう…ヤマト」
名前を呼ばれ、ヤマトも二人に向き直った。徐々にリーヴの金色の瞳に安堵の色が戻り始めた。
「家まで送ろうか」
ヤマトの言葉にカヤが頷いた。三人と一匹はゴミ捨て場を後にし、スラムへと足を向けた。
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スラムの路地は迷路のようだった。ゴミ捨て場よりさらに酸っぱい匂いと人々の生活の臭いが混じり合い、鼻を突く。壊れた魔導具から漏れる淡い光が路地を照らし、雨に濡れた石畳が不規則に光を反射していた。家々の間には洗濯物が干され、その狭間を縫うように住人たちが行き交う。
リーヴはカヤの手をしっかりと握り、先導するように進んでいた。その小さな背中には獣人特有の尻尾が揺れ、時折不安げに縮こまる。人々の視線が彼らに注がれるたび、リーヴの耳がぴくりと動いた。
「あそこ」
リーヴが指差した先には、かつて集合住宅を何棟も建てるつもりだったのであろうという作りかけの建物があった。壁にはヒビや割れや削れが目立ち、骨組みがむき出しの場所もある。入り口の前には木製の箱が積み上げられ、即席の階段のようになっていた。
建物の入り口から飛び出してきたのは、リーヴとよく似た金色の瞳を持つ少年だった。
「リーヴ!」
少年はリーヴを見つけると駆け寄って来たが、ヤマトとカヤに気づき、急に警戒の色を浮かべた。
ふいにヤマトの死角から拳が飛んできた。獣人の少年のかげろうのような動きに、ヤマトは一瞬遅れをとり、拳がヤマトの頬を掠めた。
「やめて、ヤルン!」
リーヴの叫びも獣人の少年の怒りを止められない。続いて放たれた拳をヤマトは何とかかわしたが、足元が滑って体勢を崩した。その隙をつくように、リーヴに駆け寄った少年も加わった。マシラはあくび混じりに傍観を決め込んでいる。態勢を立て直したヤマトの目に映ったのは、リーヴと同じ目を持つ双子の獣人だった。年の頃はヤマトより年上だろう。体格も大きい。
「ちょっと話を聞きなさいよ!」
カヤが声を上げたが、獣人の兄弟の動きは素早く、ヤマトは連打を受け止めきれずに顔を腫らした。それでもヨハンから教わった動きを思い出し、棍を構え直し、拳や蹴りをいなしていく。
三人の少年の乱闘は、スラムの狭い路地で続いた。棍で叩かれた手足が痛みで痺れ、獣人二人の動きが鈍くなる。次第に戦いの勢いが衰え、その隙を突いてヤマトの棍が一人の足を払って転ばせた。
「ヤルン!」
それに気を取られた他方の首元に棍を突きつける。少年が息を詰まらせた。
視線を交わす獣人の少年とヤマト。疲労と共に互いの強さへの理解が生まれ始めていた。転ばされた少年は立ち上がって続けようとするがそれを制して言った。
「もういい、ヤルン」
エイヴィが弟の腕を掴んだ。三人とも息を切らし、顔に打撲の痕を作りながらも、互いを見つめていた。
「何してるの、あんたたち」
カヤが呆れたように息を切らしている三人に声をかけた。
「リーヴを見なさいよ!泣いてるでしょ!」
そう言ってエイヴィとヤルンの頭を容赦なく叩き、ついでにヤマトも頭を叩かれた。
(なんでおれまで…?)
息を落ち着かせながらエイヴィがリーヴに声をかけた。
「それで何があった?」
「ゴミ捨て場で、大人たちが…」
リーヴが説明を始めると、二人の少年の顔に怒りが浮かんだ。特に弟の方は拳を強く握りしめ、今にもゴミ捨て場に走り出しそうな勢いだった。
(こいつ、めちゃくちゃ短気だなぁ)
それを見ながらヤマトは思った。それが伝わったのかマシラが足元で笑った。
「また来たのか、あいつら」
兄の方、エイヴィがリーヴの頭を撫でながら言った。彼の声には怒りと共に疲れも混じっていた。
「獣人を目の敵にしやがって」
弟のヤルンが吐き捨てるように言った。その表情には憎しみと何かもっと深い感情が混じっていた。
「すまなかったな、手を出して」
エイヴィが素直に謝るのに対してヤルンはまだ収まらないようだ。それを無視してエイヴィは続けた。
「だがなんで只人が獣人を助ける」
エイヴィの問いには疑念より不思議さが込められていた。
「獣人だとか只人だとか……よくわからないよ」
ヤマトの言葉に、エイヴィとヤルンは何か言いかけたが、口をつぐんだ。二人の顔には複雑な表情が浮かんでいた。
リーヴが小さな手で兄弟の服を引っ張って言った。
「もう仲直りして」
その言葉がスラムの湿った空気の中で、わずかに張り詰めた糸を緩めた。エイヴィがため息をつき、ヤマトを見直すように見つめた。
「なんだよ、そのサル」
ヤルンの視線がマシラに向けられた。マシラは高い知性を隠すかのように、ただの動物らしく頭を傾げた。
「マシラって言うんだ。おれの…友達」
ヤマトの説明に、兄弟は顔を見合わせた。
「変な名前だな」
ヤルンの言葉に、不思議と緊張が溶けていく。
「リーヴ、中に入れよ」
エイヴィの声に、リーヴが笑顔で頷いた。そしてカヤとヤマトにも手招きした。
「来る? うちで何か飲んでく?」
思いがけない招待だったがカヤは帰る時間を気にしていた。
「今度にするよ。ゴミ捨て場に戻らなきゃ」
カヤの言葉にリーヴは少し残念そうな顔をしたが、理解を示すようにうなずいた。
「じゃあ、また遊ぼうね」
リーヴの明るい声に、ヤマトも微笑んだ。彼の顔の痛みも、不思議と和らいでいるように感じられた。
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長屋に帰る道すがら、昼時になったマーケットは少し活気が出てきていた。露店からは食べ物の匂いが漂い、人々の声が入り混じって独特の喧騒を生み出していた。
「痛くないの?」
カヤの問いかけに、ヤマトは頬に手を当てた。確かに腫れていたが、不思議と心地よい感覚があった。
「大丈夫。ヨハンに鍛えられてるから」
マシラがヤマトの足元でくるりと回り、ヤマトの頭に飛び乗ってあくびをした。まるで、もう疲れたからあとはよろしくとでも言うかのようだった。その姿を見て、カヤが小さく笑った。
マーケットを通り抜ける途中、急に緊迫した雰囲気が流れた。人々が一箇所に集まり、声高に何かを主張している。言葉の端々に「獣人」という単語が混じっていた。二人はできるだけ目立たないように脇を通り過ぎることにした。
「何かあったのかな」
ヤマトの呟きに、カヤは警戒の色を浮かべながら首を振った。マーケットでの騒動は日常茶飯事だが、今日はいつもと違う緊張感があった。
一度ゴミ捨て場に戻って再度ゴミを集め直して長屋に戻ってきたとき、二人の足取りはようやく軽くなった。玄関に立つヨハンの姿を見つけると、マシラがヤマトの頭から飛び降りて駆け出して部屋に戻った。
「どうした、その顔は」
厳しそうに見えるヨハンの表情の下には、心配の色があった。彼はヤマトの腫れた頬を見て、眉をひそめた。
「ケンカか?」
その問いかけに、ミア婆が家の中から現れ、にやりと笑った。
「勝ったのかい?」
その言葉に皆が笑い、長屋の温かな空気がヤマトを包み込んだ。
「負けてはなかったかな」
ヤマトの代わりにカヤがそう答えた。ヨハンはため息をついて肩を叩いた。
長屋の中からはベルゴとガランの話し声が聞こえ、ティオナは夕食の支度をしているようだった。この当たり前の日常がヤマトとカヤをあたたかく包みこんだ。
「おかえり」
誰かの声が二人を迎え入れた。
夕食を終えて夜になり、ヤマトはマシラを抱き上げ、その体温と鼓動を感じながら、今日見た全てのことを心に刻んだ。ゴミ捨て場での怒り、スラムでの戦い、そして今この瞬間の安らぎ。全てが彼の一部になっていく。
カヤは眠る前に今日のことを静かに振り返り、リーヴのことを心配に思った。しかし彼女にはエイヴィとヤルンという強い兄たちがいる。その安心感と同時に、マーケットでの不穏な空気も脳裏から離れなかった。