第1話 ゴミ捨て場
夜明け前の空気が、長屋の木製の窓枠に沁み込んでいた。朝露が窓を濡らし、古びた木材の香りを部屋中に漂わせていた。部屋の隅でマシラは丸くなって眠り、その小さな体は規則正しい呼吸で上下していた。窓から差し込む僅かな光が、朝の訪れを告げていた。
ヤマトは目を覚まし、まだ眠たい目をこすりながら布団から這い出した。十歳の少年の体には、昨日の稽古で付いた青あざがいくつか点在していた。傷は痛むが、彼の心は昨夜の夢の断片に捕らわれていた。「テツオ」という名前だけが記憶の中に残り、他は霧のように消えていく。頭と身体がばらばらになったような感覚。いつも通りの朝だ。
棍を持って長屋の裏庭に出ると、既にヨハンが待っていた。五十代の男の顔には無数の傷跡が刻まれ、灰色がかった髪と髭は手入れが行き届いていた。その姿は威厳に満ちていたが、目には優しさも宿していた。庭には朝露が光り、雑草の間に小さな虫たちが生命を謳歌していた。
「始めるぞ」
ヨハンの言葉は簡潔だった。二人は黙って向かい合い、呼吸を整えた。朝の冷たい空気が肺を満たし、ヤマトの意識を完全に覚醒させた。訓練が始まった。
単調なリズムで繰り返される素振り。棍を握る手に集中する感覚。足の踏み込みで土を踏みしめる感触。汗が額から流れ落ち、塩辛い味が唇に触れる。これらの感覚がヤマトを満たしていき、ばらばらになっていた世界を再構築していった。
長屋の二階の窓からミア婆が二人の稽古を見ていた。彼女の部屋からは乾燥したハーブの香りがかすかに漂ってきた。
稽古が終わると、小さな共同台所でミア婆が作ってくれた朝食が待っていた。質素ながらも、栄養を考えられた食事だった。
「いただきます」
手を合わせてそう言うヤマトにミア婆は不思議そうな目を向けた。
一方、腹が減って無言のままがっつこうとするヨハンの機先を制してミア婆が言った。
「落ち着いてゆっくり食べな。ったく。どっちが大人なんだか」
ミア婆はハーブ茶だけを啜って朝食には手をつけない。それを見てヤマトは尋ねた。
「ミア婆は食べないの?」
「あたしゃ朝はこれで十分」
ヨハンがそれを聞いて気まずそうに言った。
「いつも朝、すみません」
それをかき消すように手を振ってミア婆は答えた。
「ここは長屋だよ。気にするんじゃないよ。あんたが仕事見つかったら酒でも買ってくれればいいんだから」
朝食の匂いにつられたのかマシラも目覚め、尻尾を揺らしながら食事に加わった。食べ物を口に運ぶ時、マシラはヤマトを見つめ、少年は小さく笑い、その風景をみてミア婆も微笑んだ。
朝食を終えると、ヤマトはマシラと共に外へ出た。カヤが既に長屋の前で待っていた。獣人の少女は不機嫌そうな顔をしていたが、それは彼女の日常的な表情だった。十歳の彼女の体には獣人特有の特徴が現れ始めており、髪の中からわずかに見える耳と、指先のかすかな鋭さが目立っていた。
「遅い」
彼女の言葉にヤマトは特に反応せず、ただ肩をすくめただけだった。これも日常の一部だった。彼らは長屋を出て、オルタナの外縁にあるスラム近くのゴミ捨て場へと向かった。
長屋のある下町からスラムへ向かうには”マーケット”の一部を通る必要がある。マーケットとはオルタナの裏側、迷宮の富と欲が交差する巨大な闇市だ。鉄骨と配線が空を覆い、屋台と店舗が迷路のように連なる。魔鉱石の一つである光石や夜光茸を使ったネオンが色彩を撒き散らし、鼻をつく匂いが入り混じる。笑い声、怒鳴り声、嬌声、叫び声、悲鳴。商談という名の交渉、騙し合い、密談。マーケットはそれらすべてが混ざり合い、渦巻く場所だが、朝はいつも遅い。中央街はすでに探索者たちが行き交っている頃だが、マーケットは夜の喧騒と比べて午前中はひっそりとしているのが常だった。歓楽街の朝と同じだ。
三人はマーケットの外縁を通り抜けた。
獣人、鉱人、只人、様々な種族が入り混じっているが、やはり商人に多いのは只人だ。利に聡く、欲に忠実なのだ。静かな空気のなかで耳を澄ますと、実はそこかしこで値切ったり、交渉している声が聞こえてくる。
「で、それは結局いつなんだ」
「あいつは賭博で首が回らないはずだ。どこにそんな金がある」
「……あの小僧、バックレやがって。最近の若いものは三日ともたねぇ」
ひっそりとしたマーケットでは商人たちの声があちこちから聞こえてくる。「いつ」「どこの誰が」「幾らで」「どうやって」「どこに」…。そういった細かいことを商人たちは疎かにしない。
「実を言うと活きの良いのが入る予定がある。『若くて丈夫』という話だ」
「若くて丈夫?どこからだ?」
「外だ。下じゃない」
こうした会話の断片が聞こえてきたが、子どもたちはそれらを無視するように足早に通り過ぎた。マシラはヤマトの肩に乗り、警戒するように周囲を見渡していた。
マーケットを抜けると、景色は一変した。建物は少なくなり、地面はぬかるみ、空気は重く澱んでいた。ゴミ捨て場だ。オルタナで不要とされたものが全て集まる場所。うず高く積もったゴミの山は絶えずどこかで何かの煙が立ち上り、空気も悪く、大人でも危険な場所だが、ある者にとっては生きるための資源でもあった。
ゴミ捨て場の匂いは強烈だ。腐敗した食べ物、錆びた金属、何に使われたかわからない汚れた布、そして時々漂う古くなった魔導具特有の鋭い臭気。これらが混ざり合って、独特の空気を作り出していた。ヤマトはもう慣れていたが、最初の頃は吐き気を催したものだった。
三人はゴミの山を歩き回り、使えそうなものを探し始めた。カヤは手慣れた様子で鉱石の欠片や金属片を選別していた。マシラは鼻を利かせて、魔素の残る物品を探していた。ヤマトは直感に頼って、何かが光る物、形の整った物を見つけては袋に入れていった。
太陽が高くなり、汗が背中を伝って流れた。空気はさらに重くなり、喉が渇いた。マシラが突然耳を動かし、ある方向を見つめた。ヤマトもその視線を追った。
ゴミ捨て場の向こう側、枯れた木の下で何かが起きていた。大きな只人の男たちが、ヤマトよりも小さな獣人の少女を取り囲んでいた。少女は震えながら身をかがめ、男たちはそれを囲むように立っていた。少女の顔はヤマトには見えなかったが、その恐怖は空気として伝わってきた。
カヤも気づき、歩みを止めた。彼女の体が緊張で固まるのがわかった。彼女の唇が小さく動いた。
「リーヴ……?」
男たちの一人が手を伸ばし、少女の髪を触った。彼らの笑い声が、重い空気を切り裂いた。リーヴと呼ばれた少女の小さな悲鳴が、ヤマトの耳に届いた。
カヤが前に出ようとしたが、足が震えて進めない。彼女の顔には怒りと恐怖が交錯していた。
そのとき、ヤマトの体は考えるより先に動いていた。マシラも彼の肩から飛び降り、先回りするように走った。ヤマトの頭の中では今朝の稽古の動きなどは吹き飛び、怒りや恐怖、羞恥、そして暴力に身を任せたいという衝動が混ざって何も考えられない状態になっていた。
ヤマトの内側で、何かが蠢いていた。それは彼自身も気づいていない、コントロールできていない何かだった。マシラはヤマトの中で蠢いている”それ”を感じ取って思った。
(まずいな…)
長屋で窓から外を眺めていたミア婆も、遠く離れた場所から空気の変化を敏感に感じ取った。彼女の老いた手が窓枠を掴み、皺の重なった目が遠く離れたヤマトたちがいる方角の空に向けられた。
ゴミ捨て場の上に、異質な熱が立ち込めていた。