百回目の自殺
必ず最後までお読みください。
九十九回目の自殺を図った日、僕は彼女と出会った。
思えば、その日は朝から死を意識させられることの連続だった。夢の中で彼岸花を摘もうとした瞬間に目が覚めた。朝食を取りながら、横目で確認したニュースは殺人鬼による四人目の犠牲者を知らせるものだった。家を出た後は、鍵をかけたか心配になって何度も引き返し、遅刻しそうになったため急いだ結果車に轢かれかけた。
教室に入ると、クラスメイト達の笑顔を見て自己嫌悪に陥った。ホームルームはクマのぬいぐるみを持ち歩く変わった女生徒が殺人鬼の手にかかってしまったという訃報で始まり、それ以降頭の中は死という単語で埋め尽くされた。昼休みは、誰かのお弁当の具だったハンバーグの匂いで死んだ母を思い出した。午後は高校生が無責任と自由をはき違えているだけの愚か者だってことに気づいてしまい叫びだしたくなった。
放課後になるとお気に入りの歌を聴きながら下校をしていたが、日本語のはずなのに異国の言葉のように聴こえてきて、自分の中の自殺願望が膨れ上がっていることに気づき、そうして僕は自殺を決意した。
そんなことでと思われるかもしれないけど、死にたい理由なんて往々にしてそういうものだ。死にたいって結論があって、そこに至るまでの課程を重ねているにすぎない。ヒビの入ったグラスに小さな衝撃を与え続ければ割れるように、壊れかけた人間に不幸や幸福を与え続ければ死んでしまう。結局のところ、死にたい理由は日常の中でしか完結しえない。
ただ問題があった。
呪いとでも呼べばいいのだろうか。僕の母は、僕が十三歳の頃に死んだ。大病の末に、最後は笑顔で眠るように息を引き取った。世間一般で言えば、幸福な死だった。死ぬときに笑顔で死ねるなんてこれ以上ないほどに幸福なのだから。
そしてそんな母の最期の言葉は「生きなさい」だった。どんな意図で、どんな意味を込めてその言葉を口にしたかはわからない。だけど、死に際に放った一言は、まるで母の命と引き換えにしたかのように強い意味が込められてしまったのだろう。
それ以降、僕は悉く自殺に失敗するようになったのだから。例え高層ビルから飛び降りようが、電車に飛び込もうが、刃物で心臓を刺そうが、死ぬことが出来なかった。
結局僕は高校二年生の十月に至るまでに、九十八回の自殺を試みたが、今も健康に生きてしまっている。
だから、その日も自殺が成功するとは思ってはいなかった。人生と死に対する諦念だけが、僕を死へ向かわせていた。
風が気持ちいいから外で死のうと考えた。そして丈夫な木があったからそこで首を吊ろうと思った。いつでも死ねるようにと縄は常備していた。成人男性の腕の倍ほどの太さの枝に縄を括りつけた。縄の先に首を通すための輪を作った。途中で指を切って血が出たが、無事に準備を終えることが出来た。いざ、輪に首を通すと、静寂だけが痛かった。心臓の音さえも聞こえなかった。僕にとって自殺は日常になりすぎているのだと気づいて、余計に死にたくなった。
背もたれに体を預けるように、縄に全体重を預けようとした時だった。
「その命、私にください」
ひまわり畑に咲いている桜のような声だった。平坦で抑揚はない。それなのに不思議と聞き心地が良く、耳に残った。そのせいか死で埋めつくされた僕の脳内に光が刺したような不快感だった。
母が死んでから決して消えなかった希死念慮が、一瞬だけとはいえなくなってしまった。
「どうせ死ぬなら、私に下さいよ。あなたの命を」
落ち葉を踏みしめる音と共に少女が現れた。年齢の頃は僕と同じぐらいだろうか。自殺を試みる人間を前にして、無遠慮で能天気に声をかけるような人物には見えなかった。むしろ冷たい視線で一瞥し、無関心を纏いながら去っていくほうがお似合いの容姿をしていた。
「命をくれって……君は死神か何かなの?」
自殺の邪魔をされたことや、少女の気味の悪さにあてられて普段の僕ならば言わないようなセリフだった。
「こんな可愛い死神がいると思いますか?」
少女はくるりとまわり、笑みを浮かべた。履いていたスカートが秋風に靡き、ひらひらと舞う。まるで童話の一コマを眺めているような気分だった。自殺しようとしている冴えない男の前に、美しくもミステリアスな少女が現れる。これからの悲哀を想像させられる始まりだ。
だけど、僕はその想像の中で僕を想像することは出来なかった。自分自身が物語の主人公になれると己惚れられるほどに前向きではなかったし、僕自身がそんな物語を望んでいなかったからだ。それに何よりも目の前の少女と悲哀を重ね合わせることが出来なかった。浮かべる笑顔は張り付けたように不格好だし、言葉もガラス越しで話しているような遠さを感じる。
だからだろうか、僕は一向に当事者意識が芽生えなかった。どこか自分自身を俯瞰しなから会話をしているような気分だった。
「思わないね。そもそも死神なんていないんだから」
「可愛いは否定しないんですね」
「一般論だよ」
初対面の女性相手にきざなセリフをはけるほどに、僕は軟派な人間ではない。
「それと君を可愛いなんて、僕は一言も言ってない。死神がいないって否定しただけだ」
「細かいですね。そんなんだから自殺するほどに追い込まれるんですよ」
なんて言い草だと思った。自殺をしようとしている人間を前にして、あまりにもデリカシーのない発言だ。
僕はいっそのことこいつの前で死んで、一生のトラウマにしてやろうと半ば八つ当たりのような気分で、再び縄に首を通そうとした時だった。
「死神はいますよ」
少女がポツリと呟いた。今にも消えそうなほどに小さな声だった。だから無視すればいい話だった。でも、僕の無意識は反応していた。
「は?」
「死神はいます」
同じセリフだった。そして僕の無意識は、やっぱり反応した。
「いないよ。いるわけがない」
意識的に僕は縄を解いた。少女の言葉から、強い意志を感じたのだ。僕を生かそうとする強い意志を。
そしてその意志は、僕の自意識よりも強かった。
「だって僕が生きているんだから」
「……なんですか、その悲しい証明は」
「僕はね、今まで九十八回自殺を試みた。でも、そのどれもが失敗に終わってる。死にたい人間を殺さない死神なんておかしいだろ」
自分の自殺願望を口に出したのは、初めてだった。それは別に彼女が特別だからというわけではないのだろう。自殺を見られるという、これ以上ないほどの醜態を曝したために恥という概念が消え去っていたのだ。
「おかしくないですよ。だって死は平等なんですから。善人だろうと悪人だろうと、子供だろうと大人だろうと関係ない。平等に、そして不平等に訪れるんです」
反論の言葉が思いつかなかった。いや、本当は思いついていたのだ。僕の脳はネガティブな言葉ならいくらでも製造できるのだから。でも、言えなかった。彼女の枯れる間際の桜のような笑みが、死ぬ直前の母と重なったから。
「それなら、もし君が死神なら僕の命を奪ってくれよ」
代わりに僕の口から出たのは、そんな言葉だった。きっと当事者意識の欠如による無責任が行動と言葉になったのだろう。言うなれば小指を触れさせない約束のようなものだ。それなのに、彼女は嬉しそうに笑った。
「ええ、奪いますよ」
今日初めて見せる自然な笑顔で。
こうして僕は九十九回目の自殺に失敗し、彼女と出会った。
そして僕と彼女は、今日一緒に死ぬ。
「何か面白いことでもあったんですか?」
後ろを歩く彼女が顔を覗き込んできた。
「べつに何でもないよ」
僕はぶっきらぼうに答えながら、歩く足を速めた。覗き込んでくる彼女の顔を直視するのが恥ずかしかったからだ。それなのに彼女は、僕に歩幅を合わせて顔を覗くのを辞めなかった。きっと僕の初心な感情を理解しながらの行動なのだろう。初めは無表情が一番魅力的に見えた彼女だが、本当は人を小ばかにしている時が最も輝くことを、今の僕は知ってしまっている。そしてそんな僕の心情を彼女もまた知っているのだ。
結局、僕は逃げるように夜空を見上げながら、早口で答えた。
「……初めて会った日を思い出してたんだよ」
「なるほど」
彼女は納得したように頷き、くすりと笑った。
「確かに、今思い返してみると笑っちゃいますよね。あの時の先輩は、変でしたし」
先輩。彼女は僕をそう呼ぶ。同じ学校に通っているわけでもなければ、部活動が同じわけでもないのに、そう呼ぶのだ。なんでも彼女にとって僕は、自殺の先輩なのだそうだ。嫌な先輩だ。でも、内心で僕はそれを嫌がってはいなかった。今までの人生において先輩と呼ばれた経験もなければ、彼女に先輩と呼ばれることに少しの愉悦を感じているのだから。尤も未だにその呼び方には慣れてはいないが。
「……変じゃないだろ」
「変ですよ。だって、夜の森で首を吊ろうとしていたんですよ? どう考えてもおかしいです」
彼女は思い出したようにくすりと笑う。あの時とは違って、自然な笑みだ。それが感慨深く、嬉しくもあった。
「それを言うなら、君の方が変だろ。普通、自殺しようとしている人間に声をかけないよ」
「あの時はなんていうか、私も自暴自棄だったんですよ。だからズルいって思っちゃって、気づいたら、声をかけていたんです」
「だとしても、『命をください』はないだろ」
「忘れてください! あれは黒歴史です」
彼女は恥ずかしそうに俯いた。おかげで僕は彼女を直視することが出来る。
「まあでも、あれがなければ、今こうして一緒にいることもなかったと思うよ」
「……どうしてですか?」
彼女が顔を上げる。僕は再び夜空へ視線を向けた。
「今までもさ、自殺しようとしている所を見られたことはあったんだよ。で、そんな時に大抵の人間は、止めようとしてくる。『生きていれば良いことがある』『周囲の人間が悲しむ』『死んでも何も解決しない』耳心地の良いことを口にするんだ。まあ、当然だよね。死のうとしている人間を前にして、追い込むような言葉を吐く人間なんていない。だってそれはある意味で最後の一押しをしたようなものなんだから。普通の人間には無理だよ。でもさ、それじゃ駄目なんだよ。死のうとしている人間にとって、耳心地のいい綺麗な言葉は、毒でしかないんだ。僕らみたいな人間にとっては、綺麗も汚いも、善意も悪意も自殺をする理由になってしまう。ひび割れた人間には、響く言葉ほど毒でしかないんだ」
「……まるで私の言葉が、響かなかったみたいな言い草ですね」
「響かなかったよ。でも、だからこそ良かったんだ。善意でも悪意でもない、ただの感情的な君の言葉だったからこそ、僕は真っすぐ受け止めることが出来たんだから」
きっとあの時に濁った感情をぶつけられていたなら、僕は壊れていたに違いない。
彼女は少し驚いたように目を見開き、くすぐったそうな表情で呟いた。
「それなら忘れないほうが良いですね。……死んでも忘れません」
死んでも忘れない。それは比喩でもなんでもないのだろう。僕らにとって、死という言葉は日常のようなものだ。でも、だからこそ特別でもあるのだから。
それから僕らは無言で歩いた。アスファルトを踏みしめる音だけが響く。無言の時間に、居心地の悪さは感じなかった。これが出会った頃なら違ったのだろう。あの頃は少しの無言が怖かった。無言の時間にならないように、僕は無駄な話をしていた。だけど、今はその無言の時間すらも愛おしく思えるようになっていた。
しばらく歩くと鉄塔が見えてきた。街の一番高いところにある鉄塔だ。昔は町のシンボルのようなものだったが、今は風景の一つにすらなれない駄物となり果てていた。雨風の影響か所々錆びている。人の気配もない。なぜこんな場所を彼女が終着点に選んだかわからなかったが、今なら何となく理解できた。ここは僕らに似ているのだ。この世界に溶け込めなかった僕と、溶け込ませてもらえなかった彼女。だから、ここを終着点に選んだのだ。
最後になるであろう階段を一段一段踏みしめながら歩くうちに、屋上へ着いていた。
そこから見える景色は、まるでビー玉を埋め込んだように世界が輝いていた。夜を忘れさせる景色だ。それらは人の生活に根付く輝きそのものなのだろう。あの輝きは勉強に励む受験生、あの輝きは一家団欒をする家族、あの輝きは飲み会中のサラリーマン、そうやってこの世界は輝いているのだ。
柵がないせいか、それらの景色が近く感じた。手を伸ばせば届きそうなほどに。でも、僕はそれらが手に入らないことを知っていた。なぜかはわからない。感覚的なものなのだろう。あるいは原風景とでも呼べばいいのか。僕の中にある小さなころの記憶が、その風景を覚えている。でも、今の僕には懐かしがることしかできないのだ。それらが、自分には手に入らないと知ってしまっているから。だからこそ懐かしさと悲しさを感じているのだろう。
そしてそんな場所だからこそ、自殺に意味が出来るのだ。
「……後悔してませんか?」
彼女が呟いた。いつも通り小さな声だった。でも、いつもとは違い、聞き取りづらかった。だから僕は彼女へ視線を向けた。彼女は今にも泣きそうな表情を浮かべていた。あの時と同じだ。病気で余命少ないことを告げてきた時と同じ表情をしていた。
思えば、僕はそれまで彼女のことを知らなかった。彼女とは会うのは夜だけ。お互いの素性を詮索しない。そして誰にも僕らの関係を明かさない。彼女が設けたそんなルールのもとに僕らの関係は成り立っていた。だからなぜ彼女が僕なんかと一緒に過ごしてくれるのか。なぜ殺人鬼が潜む危険な街を夜中に出歩いていたのか。なぜ時折悲しそうな表情を浮かべるのか。なぜ死にたい人間の気持ちが理解できるのか。なぜ自分の正体を明かさないのか。全てが謎だった。でも、あの瞬間、彼女と夜中の海を見に行った日に謎が解けてしまったのだ。
彼女に危機感がないのは、全てを諦めていたから。時折悲しそうにしていたのは、未来を奪われてしまったから。死にたい人間の気持ちがわかるのは、彼女も同じだから。色々なことが理解できてしまった。そして彼女が僕と一緒にいてくれる理由は、僕が死ぬ人間だからだと気づいた。
その瞬間、僕は酷く取り乱した。勘違いも甚だしいが、彼女が僕と一緒にいてくれるのは何か特別な理由があると思っていたのだ。でも、違った。彼女が僕と一緒にいてくれるのは、僕が死ぬ人間だから。死ぬ人間なら誰でもよかったのだ。そんな当たり前のことに僕はショックを受けたのだ。
そして同時に気づいてしまった。僕が生きたいと思っていることに。彼女との未来を想像していたことに。
だけど、手遅れだった。無意味だった。彼女にとって僕は特別ではないし、彼女に未来はないのだから。僕がいくら未来を想像しても、願ってもそこに彼女はいない。死ぬ人間を好きになっても仕方がなかった。
それからは酷い日々だった。自暴自棄に怠惰に生きて、昔の生活に戻った。人の本質が状況や環境に応じて変わるように、元の生活に戻れば簡単に人は戻ってしまう。その例に漏れず僕はすぐに死にたくなった。そして死のうとした。
でも、そこで気づけたのだ。
生きる理由がなくても、死ぬ理由があることに。
母は死ぬ直前に寂しそうにしていた。
あの世で一人になることを心配していた。
当時の僕はそれが不思議で仕方がなかった。
死んだ後のことなんてどうでもいいと思っていたのだ。
でも、違った。
死んだ後にも人生があるのだ。
それなら僕の無価値だった命にも意味がある。
死ねなかった苦しみにも意味が生まれる。
彼女のためにこの命をつかおう。
彼女が、僕に死ぬ理由を与えてくれた。
彼女が、僕に生きてきた意味を教えてくれた。
だから――
「後悔なんてあるわけないだろ」
きっと僕は、今日この日のために生きてきたのだ。死神を名乗る少女に自分の命を捧げるために。
「……先輩は馬鹿ですね」
「そうだよ。馬鹿だよ」
彼女の鼻をすする音が聞こえる。泣かすのは、これで二回目だった。あの時は、酷い言葉をぶつけてしまった。彼女を傷つけてしまった。でも、今回は違うことぐらい僕にも分かる。僕も少しは成長したという事なんだろう。
「君こそ、後悔してないの?」
僕は少し気恥しくなり、訊いた。答えはすぐには返ってこなかった。月の光が少しだけ明るさを増した。彼女へ視線を向ける。すると彼女は空を見上げながら答えた。
「私、パティシエになりたかったんです」
彼女は少しの間をおいてから続けた。
「今思えば、安易な理由なんですけど、小さいころに何気なく作ったケーキを両親が褒めてくれて、それがすごく嬉しくて、それからずっと将来は自分の店を持って、人気になって、テレビに取材なんかされちゃって、美人過ぎるパティシエなんて持て囃されて、それで好きな人と結婚して、最後は子供に囲まれて笑顔で死ぬ。そんな風に自分は生きて死ぬんだって思ってたんです」
夢を語る彼女が、全てを過去形にしていることが悲しくさせる。
「でも、あの日全てが壊れました。余命宣告を受けた瞬間に、全てが崩れたんです。初めは信じることが出来ませんでした。いえ、信じたくなかった。誤診に違いない、夢を持っている人間が死んでいいはずがない、そう思ったんです。でも、段々と体調が悪くなって、今まで通りに生活できなくて、普通に生きることが出来なくなって、ああ私は死ぬんだなって受け入れさせられました。だったら、それならせめてひたむきに生きようと、人に親切にしたり、明るくふるまったり、私は幸せですって顔して過ごしてみたんです。悲劇のヒロインを気取って。そうすれば何か変わると思ったんです。でも、やっぱり何も変わらなかった。結局、私がどんなふうに過ごそうが関係ないんです。夢の有無なんて当人の問題でしかない。私が何をしようと、何も変わらない。どうしようもない。その時になって、私は本当の意味で、自分の死を受けいれたんです。自分の意思で。それからは、何をしても楽しくなかった」
彼女は視線を夜空へ向けたままだった。
「よく小説とかで余命宣告を受けて、最後の瞬間まで楽しく生きるって話があるじゃないですか? 私あれは嘘だと思うんですよね。だって楽しめるはずがないんですから。本を読んでも、音楽を聴いても、洋服を買っても、美味しいものを食べても、友達と遊んでも、何も感じない。だってこの世の中は生きている人間で作られているんですから。もうすぐ死ぬ人間は異物でしかないんですよ。死ぬことがこんなに怖いことなんだって、私は死ぬ運命をきめられてやっと気づけたんです」
彼女の言いたいことは、理解できてしまう。僕も同じだったから。何をしても楽しくなかった。楽しいと思えなかった。ずっと疎外感を感じていた。
「すべてを恨みました。この世の中全てが嫌いになりました。そしていっそ自分で死んでやろうと思ったんです」
彼女はそこで言葉を区切り、僕へ視線を向けてきた。今にも消えてしまいそうなほどに儚い表情を浮かべながら。
「そんな時でした。首を吊ろうとしている幸薄そうな男の子に出会ったのは」
初めて知らされる話だった。彼女が自殺しようとしていたことは知っていた。でも、あの日死に場所を探していることは知らなかった。
「初めに怒りの感情が湧きました。だって考えてもみてくださいよ。こっちは生きたくても生きられないのに、生きられる人間が死のうとしていたんですから。殺意すらわきましたよ」
「よく殺さなかったね」
「感謝してください」
彼女は偉そうに胸を張る。
「まあ、それよりもいい復讐方法が浮かんだんでやめたんですけどね。この男の子が私を好きになるように仕向けて、生きたいと思わせた後に、私がもうすぐ死ぬことを教えてやろうって」
あの時のことは死んでも忘れないだろう。
「復讐は成功しました」
「随分と労力の多い復讐だったね」
「そうですね……」
彼女は懐かしむように夜空へ視線を向ける。僕も同じように夜空へ向けた。
「男の人と二人でどこかに出かけるのは、初めてのことでした」
二人だけの世界は、とても鮮やかだった。
「異性にプレゼントを渡すのも、初めてでした」
もらったクマのぬいぐるみは、今も家に飾ってある。
「夜の街を散歩するのは、背徳的な気分でした」
いつ警察に補導されないかひやひやしたものだ。
「夜の学校はとても怖かったです」
彼女の怖がっている姿は、不覚にも可愛いと思ってしまった。
「夜空をゆっくりと見たのは久しぶりでした」
僕は初めてだった。だっていつも俯いていたから。
「先輩の家に上がるときは、緊張を隠すのに必死でした」
あの時は、僕も緊張でどうにかなりそうだった。
「思い出が美しいと思い出させてくれました」
僕は思い出が美しいことを初めて知った。意味があるのだと、彼女が教えてくれた。
「楽しい時間でした。……私は楽しいと思ってしまっていたんです。ずっとこんな時間が続けばいいのにと願ってしまったんです。でも、もう手遅れでした。私自身の手でその時間を壊してしまったんですから」
僕も同じだった。この時間が永遠に続けばいいのに、時間が止まればいいのにと、初めて願った。
「大切なものはなくしてから初めて気づく。そしてその時には既に手遅れ。私は自分の余命を宣告された時、初めてその言葉を本当の意味で理解しました。だから戻らないことを誰よりも知っていたんです。どんなに願っても、祈っても、失ったものは二度と戻らないと」
僕も同じだった。あの日、本当の意味で死ぬことの恐ろしさをしった。
「それなのに……先輩は戻ってきてくれました。こんな私に恨み言一つ言わずに、笑いかけてくれました」
それは違う。僕が戻れたのは、笑えたのは、全て彼女のおかげだ。彼女が僕に生きることの素晴らしさを教えてくれたから。
「ねえ、先輩」
僕は彼女へ視線を向けた。彼女と僕の視線が重なる。夜空よりも暗く、星よりも綺麗な目だった。
「先輩は前に訊きましたよね。『僕に出来ることはないか』って」
自分の無力さや自己嫌悪から、そんな質問を僕はした。
「あの時は、照れくさくて誤魔化しちゃいましたけど」
彼女は恥ずかしそうに笑う。
「でも、本当は違うんです」
僕は彼女から目が離せなかった。
「だってもう救われていたんですから」
彼女は目をつぶり、胸に手を当てる。そして大切な記憶を取り出すように、目を開くと、桜のような笑みを浮かべた。
「あの時、『一緒に死んでやるって』って言われたあの瞬間、私は救われていたんです」
違う。本当に救われたのは、僕の方なんだ。彼女のおかげで、僕は呪われた自分の人生に意味があったんだと思えた。幸せだと感じることが出来た。
「だから後悔はありません。誰がなんて言おうと、私は幸せでした」
今日僕らは死ぬ。
きっと世間は、不幸な人生だったと言うだろう。
余命半年の少女と天涯孤独の少年。
目に見える情報だけで、不幸を想像して、同情をする。
それは仕方がないことだ。
客観的に見れば、僕らは不幸で、不幸な他人の人生なんて月並みなのだから。
だけど、それでも。
これだけは断言できる。
僕らは幸せだったと。
『速報です。Y市で五人が殺害された事件の容疑者が遺体となって発見されました。この事件は、今年の九月から十二月にかけてY市内で、高校生含む五人が刃物によって殺害されたものです。捜査関係者によりますと五人目の殺人事件時、現場に残されていた被害者を拘束したときに使用されたとみられる縄についていた血痕と容疑者のDNAが一致しており、さらに容疑者宅には犯行に使用されたとみられる刃物や、四人目の犠牲者となった高校生が所持していたクマのぬいぐるみなども見つかっており、警察は犯人として捜査を進める方針を示しております。なお、現場の状況から容疑者は飛び降り自殺とみられております』