遺書
死にたくなったら遺書を書く。
私一人しかいない静かな部屋で、私が死んだあとの世界を想像する。両親やまわりの人は私のことなんてそんなに好いていなくて悲しむ人は誰もいない。私の葬儀のあとには私の私物は全部ゴミに出されて、東向きの窓が特徴の空っぽの部屋が残る。
この世界のどこにも私の人生の痕跡なんて残っていない。十代のころから集めていた好きなアーティストのCDも、お気に入りの猫のTシャツも、アンティーク調の家具や雑貨もぜんぶ手元からなくなる。失われる。
ゆいいつ、遺書だけが親と恋人に贈られて、それも翌週にはゴミに片付けられる。
その想像は、私の呼吸をなめらかにする。
人生に最初から期待したくない。期待しなければ悲しくならない。苦しくならない。
とるに足らない人間の一人の人生なんて地球規模の時計で言えば針がかすかに震える程度の出来事だという事実が、私の心を安定させてくれる。
人間が設置した害虫駆除剤が実際に虫にどのような影響を与えるのか、たいていの人間は興味がない。自分とおしゃべりする間柄の人間が明日逮捕されても、新聞に掲載されるのは罪状や簡潔なプロフィールのみで、その人の内面を書きだすことはない。市営の公園の木や雑草の手入れに行政がどのくらい予算を割いているか調べたことがない。隣の家の車がいくらするのか興味がない。昨今のランドセルの流行に興味がない。好きじゃない人が誰と結婚しても興味がない。
結論として、人間は自身の生活に関係のないものに興味を抱かない。
だから私が消えても困る人はあまりいない。
呼吸はとてもなめらかだ。
私は清々しい朝の光のなかでペンを置いて、遺書を机の引き出しにしまった。引き出しには何通もの便箋がしまわれている。どれも益体のないありきたりな感謝と謝罪の言葉が並べられている。
最初の遺書はもっと感情的な文章を書いていたが、それもかなり朧ろげな記憶で、いまはもうそんな言葉を書く気力がない。社会人的な礼儀を重んじる文章を書くだけで精一杯だ。
しかたないじゃん。
心なんかとうに死んじゃってるし、体だけが死んでない変な感覚がもう十年以上続いているんだから。
私だけが特別じゃない。きっと世の中そういう人ばかりなんじゃない。
表立って言わないだけで。
というわけで死にたい気分を遺書で吐き出した私は、出勤のために準備を始める。
私がいまも自殺していない理由のひとつは、好きな人がそばにいてくれるからだ。
好きな人がいるから、頑張って生きなきゃね。
本当に自殺するかはその人が死んでから考えよう。
そうしよう。
「はあ~ただいま」
帰宅すると玄関でもうすでに夕飯のいい香りが漂っている。
「おかえりなさい」
台所からチカが顔を出す。亜麻色の髪が頭の上でお団子に結われている。右手にミトンを嵌めているところを見るに、たぶん今日の夕飯はシチューだ。
今日、緑陣町を歩いていると懐かしい幼なじみの姿を見かけた気がする。そうチカに報告すると、チカはその人について知りたがった。
「ユキがそんなふうに穏やかに昔を語ることは珍しいから」
チカに言われて私は幼なじみ……ハルカについて思いを馳せる。今日見つけた彼女は、私の記憶とはずいぶん変わっていて、派手なコートを着ていた。化粧も大人っぽいというよりはなにかを誤魔化すように濃く、唇にひいた口紅の鮮烈な赤が印象的で、それが私には虚飾のように感じられた。私の知るハルカは長く艶やかな黒髪を大事にしていたのに、今の彼女は金髪だった。痛んだダメージヘア。
それ以上、ハルカのことを思い出そうとすると、足首のあたりが冷たくなっていく。脂汗が滲み出る。口の中で舌がひくついて、私の異変に気がついたチカがなにか言おうとした。私はそれを手で制して、コップの水を飲み干した。激しくなっていた動悸が収まっていく。閉じた瞼の裏でハルカの輪郭がばらばらになっていく。
ハルカも私も変わってしまった。
あの事件を共有して、私は壊れた。
ハルカもきっと、そう。
「緑陣町はホテル街だよね」
「そうだね」
私はチカの声に、上の空で答えた。
私の意識は勝手に、学生時代を思い出していた。
これからようやく人生を自由に謳歌していけるのだと信じて疑わなかった高校時代。私とハルカは予期しなかった事件に巻き込まれてその将来を見失った。
「おい、ちょっとおまえら、人の車に傷つけといて知らないふりかよ」
夕暮れの道を、テニスラケットを背負いながら学校から帰宅途中、ハルカと私は商店の駐車場に車を停めた知らない人に呼び止められて怒鳴られていた。青いバンなんて見覚えはない。そもそも私とハルカは今まで部活をしていて、ここは通りすがっただけなのだ。そう弁明したものの、その人は私たちの言うことなど聞かずに、バンの扉を開けて私たちの腕を強引に引っ張った。車には男が二人乗っていて、彼らは嫌な笑みを浮かべながら、私たちを迎えた。
バンに詰め込まれて事態が飲み込めないまま動転する私とは対照的に、ハルカは状況を理解し、逃げる隙を窺った。けれど女子高生のか弱い抵抗は、彼らの嗜虐心をいっそう煽るもので、私たちはそこから一週間近く拉致監禁拷問されることになる。
私たちが発見されたのは隣県との境にある山中だ。私たちの生還と痛ましい事件は、一か月もの間ニュースで報道されたが犯人が逮捕されると落ち着いた。
私たちは病院に収容されて情報から隔離されながら呼吸を続けて、のちにその世間の反応というものを知った。
隣にチカが眠っている。ダブルのベッドは小柄な私とチカには存外ひろく、彼女と私の間には冷たい隙間があった。私は彼女を起こさないように、そっと起き上がり、カーテンを開ける。夜空は晴れており、きれいな月が浮かんでいるのがよくみえた。
私がそうやっていると、チカがおもむろに起き上がった。
「眠れないの? 体が冷えるよ」
「ありがとう」
たしかに薄着に毛布を巻き付けただけの格好は寒い。私はベッドに戻る。チカの傍によったところで、彼女に手をとられた。引き寄せられて、抱きしめられる。チカは温かかった。私の体は冷え切っていた。
やさしい手のひらが私の背中を撫でている。
「私は首を絞める趣味はない」
「そうだね」
私は頷いた。チカは他人が見てそれとわかる痕跡なんて残さない。チカは私を優しく扱う。壊れ物のように大切に触る。
「なんで緑陣町に用があったの?」
「…………」
用なんてなにもない。
チカに言えるような用なんて、なにも。
「ユキが好きだ。愛している。この傷だって、ユキの一部だから愛しい」
私の左腕に大量に刻まれた傷跡のひとつをチカは撫でた。
「……どうして」
疑問だった。
「どうして、チカは私のことくずだって、最低だって思わないの? どうしてなにも聞かないの?」
ずっとそう。チカはなにも聞かないでいてくれる。あまりにも、受け入れる懐が広くて深すぎる。私はそんな彼女に怯えにも似た感情を抱く。視線に混ざる感情をチカが悟れないわけがなかった。それでも、なお、チカは微笑む。
「だって、ユキが自分を傷付けたくてそうしているの、俺はわかっているから。ユキが無意識の奥底でずっと自分を責め続けているのを知っているから」
「…………もしかして、遺書、読んだの」
「読んだ。悪いと思ったけど、なんか熱心に書いてるから、なんだろうと思って」
刹那、私の呼吸は止まる。呼吸だけではなく、時間が止まったかのようだった。
本当は恋人に贈った遺書が、すぐにゴミに捨てられるはずがないことを知っている。瞬間的にまずいと思った。機嫌を損ねてしまう。気持ち悪がられる。
「どう思ったの」
「ハルカって子がそうとう好きだったんだなって思ったよ」
チカの顔色は変わらず、やさしい言葉。
私の頬を涙がひとすじ零れ落ちる。
チカは理解してくれていた。私の自分自身の欠落を愛でるという最低な自己憐憫を。最低なことをしている自覚がある。
自分の心に大切なモノが欠けているという自覚がある。そしてもう二度とそれが取り戻せないということも自覚がある。一度失えば、もう二度と還らない。「普通」という感覚はむしろ私にとって「異常」になってしまった。
「チカは優しいね……。なんでかな、私、チカのこと好きなのに、自分でもおかしいって思うんだけど、どうしてもどうしてもどうしてもあれから……私の体はおかしくて」
支離滅裂な言葉をたれ流すのを、チカは黙って聞いてくれている。
私が覚えている事件の光景は、山の暗闇と寒さにおびえながら震えていたことだけだ。体中が痛くて動かすのも億劫で、誰も見つけてくれなければこの寒さで凍死するんじゃないかと思っていた。ハルカも同じ考えだったようで、私たちは体をぴったりと寄せ合って、助けを待っていた。痛みで体全体が熱に炙られていた。
――「ねえ、わたしたち、これからどうしよっか」
私の声はかすれていた。なにか話したくてハルカに呼びかけたのに、答えのない問いかけをしてしまって、私は自身の気の利かなさを呪った。
けれどハルカはくすっと笑って、白い息を吐いた。
――「これからどうしようもなくなったら、二人で一緒に死んじゃおうよ」
――「……そうだね、ハルカ」
あのとき私はその提案を受け入れた。
あのとき、とても、死にたかった。それは真実。
けれど私とハルカは、死ぬこともできずに絶望を抱えながら生きている。そしてあのとき私の体に宿った熱が、未だに冷めないのだ。いまだに私を現実から遠ざけるのだ。自分でもどうしたらいいか判らない。この熱を、取り払うことができるのだったら、私は腕や足や臓器を喪っても構わない。視力や聴力や味覚を永遠に喪うことになっても。うそ。この焼け付く痛みから逃れるには、死ぬしかないのだと知っている。死ななければ逃れられない。この灼熱からは。地獄の記憶からは。
犯人を恨んではいない。恨みすら抱けないほど打ちのめされてしまっている。
手応えのない空虚な感覚を埋めるかのようにとめどなく私の目から涙が溢れる。
でも。
できることだったら、私はもう一度ハルカに会いたい。
本当は遺書はハルカに読んでもらうために書いている。
それは絶対にかなわない願いだって理解している。
チカは沈黙していた。泣き続ける私の頭を柔らかな手つきで撫でながら、ずっと、そうしていた。
清潔な布団とシーツにくるまれて丸まって、いつのまにか眠っていた。
朝になったらしい。カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。寒さのなかで、布団の温かさが体を守っている。私はこの夢が覚める前の瞬間みたいな時間が好きだった。いつまでも味わっていたくなる。チカとは少し離れて眠っていたと思っていたが、いつの間にか真横に寝ていた。私の身じろぎで、チカが目を覚ました気配があった。
「いつか私宛の手紙をちゃんと書いてよ」
静かな声だった。チカが声を荒げるところは見たことがない。いつもチカの声は、冷静に、私の心の底まで届かせる響きを持っている。
「…………うん」
素直に答えづらくて、けれどうなづいた。
いつか人のために手紙を書きたい。
「死にたくなったら私も一緒に死ぬからさ」
「チカと一緒に死ぬのは絶対やだ」
考えるより先に、否定していた。
チカにはずっと健康で幸福を享受していてほしいと思っている。
好きな人が幸せでいてほしいと願う理由が愛だと言うのなら、私はチカを愛している。
私はチカが好き。愛している。欲している。生きていてほしいと思っている。
だがチカを強く想えば想うほど、ハルカのことも思いだしてしまう。どうしてハルカに会いたいと思ってしまうのだろう。ハルカの顔をもっと間近で見たい。ハルカと会話がしたい。いまどうしているか、直接訊ねたい。さびしい。会いたい。私たちは同じような傷を共有して、同じような泥沼のなかにいる。果てのない泥沼のなかに落ちたまま。私はチカという優しい理解者を得ても、まだ泥沼から這い上がれそうにない。
「なんかふられた気分なんだけど。ハルカっ子にはいっぱい手紙書くくせにさ」
「そんなことない。私も、チカのことが好きだよ。だからこそ、私と死ぬなんて言っちゃだめっていうか聞きたくない」
チカは寝惚け眼で私のことを見ていた。その目の奥に不思議な光が揺らいでいた。その正体が掴めずに、私は目を瞬いた。
「チカ、私のこと、怒っている?」
「浮気していたことなら、ちょっとだけ怒ってる。でも許すよ――だって私、ユキのことぜんぶ知りたいから。理解してあげたいから」
チカの手を握った。紛れもない柔らかで骨の細い女性の手だった。
感情が内側からはち切れそうで、私の呼吸は断続的になる。なにを言うべきか頭の中でまとめられないまま、気がつけば口にしていた。
「……私はね、男性が恋しいわけじゃないの。かといって、男性恐怖症というわけでもない。そして特別に、女性が好きというわけでもない。というか人間への愛が分からない。でも、いつか、チカの傍にいたら、ちゃんと、普通の人みたいにいろいろできるようになると思うの。ふつうの愛情表現で、チカを愛せるようになると思う。だって、私、チカに幸せになってほしいって思っている。私が幸せにしてあげられるならしてあげたい。チカを悲しませることはしたくないの。これ、この感情って、愛だよね?」
「愛だね。私もそうだよ。ユキを愛している」
「……でも、でもね、私がそうやってチカにたいしてしてあげるためには、……、時間がかかると思うの。嫌にならない?」
チカは少しだけ驚いて、けれど微笑んで囁くように言った。
「待つよ」
チカは微笑む。
私は机にしまったままの当て所のない遺書を思った。何十通と束になった封筒を想い、これからも重ねていく何十通を想像する。この固執をいつか捨てられる日がくるという期待はいま持つことはできない。
――それでも、チカと一緒なら。
不思議と私の呼吸はなめらかに戻る。
目をゆっくり閉じた。
ひりつく痛みが少しだけ遠ざかる。