資料の「値貼り付け」忘れは罪深い
「あ、値貼り付けするの忘れてた」
ある日、突然空から声が降ってきた。大きな大きな声は世界中に響いた。屋内外に関わらず全人類が耳にした。
その声は誰も聞いたことがない言語にも関わらず、何故か聞いた人々はなんとなく意味を理解した。そしてどこかで聞いたことがある声だなあと思った。
本来ありえないことではあるが何故か誰一人として何も不思議に思わなかった。『季節が変わった』程度の認識で翌日には皆忘れていた。
人間界ではこの程度の反応だったが空の上では大きな騒ぎになっていた。
「お忙しいところお時間いただきありがとうございます。議題はご存知と思いますが『神様の値貼り付け漏れによる人間界への影響とその修復について』です」
天井も壁もテーブルも、そして椅子も全て真っ白の部屋。広さはテニスコート2枚分ぐらいだが部屋が真っ白で天井が高いためもっと広く見える。
部屋の中にいるのは二人。部屋の中央にある小さな白いテーブルに向かい合って座っている。一人はすらりとしたスーツ姿。胸に『天使』と彫られたピンバッチを付けた縁なしメガネの若い男。ノートパソコンを広げて画面を睨みつけている。
もう一人は『神様』のピンバッチをつけたアロハシャツを着た色黒の中年男性。綺麗なスキンヘッドで頭頂部は照明を反射してキラキラと光っている。
「神様、我々天使はあなたが表計算ソフトで作成した年間計画に従って行動しています。言ってしまえばそこに書かれた内容に誤りがあると……」
「ああ、わかっている。大変申し訳ない」
「数式を使った後、値貼り付けを忘れると記載内容がおかしくなることがあります。これまで何度もお伝えしましたよね?」
「ああ、わかっている、わかっているさ。本当に申し訳ない」
「部下たちにはもうデスクで待機してもらっています。この場で修正点と対応の確認を行いながら随時担当割り振り。本日中に対応スケジュールを決めて動ける者から動いてもらいます」
「わかった、それで問題ない。一ついいか? このミスを見なかったことにするのは……」
「ダメです。放置すれば問題はさらに大きくなり手をつけられなくなります」
「……そうだな。すまない、今のは聞かなかったことにしてくれ」
「承知しました。では早速確認を始めさせていただきます。入力内容がおかしくなっていたのはいつからですか?」
「今年の元旦だ」
「…………本当ですか?」
「ああ……」
部屋が静まり返る。聞こえるのは二人の呼吸する音だけ。メガネの天使は目を閉じ黙って右手の人差し指を自分の眉間に押し当てた。そして一度だけ小さなため息をついた。それを見た神様は申し訳なさそうに肩をすくめた。
「今日は12月29日です。ということは一年の約99%を誤った状態で過ごしたということになります」
「そうだな」
「……わかっていますか? イレギュラー発生状態で年を跨げば来年以降どこかで必ず歪みが生まれます。それはもう取り返しがつかないレベルの」
「ああ、わかっている」
「ということは今日を含めてあと3日で約一年分の上書きをしないといけないんですよ?」
「わ、わかっている。本当に申し訳ない」
「こうなったら仕方ありません、引退した元天使や手の空いている悪魔にも応援要請をするしかありませんね」
「そうだな、そうしてくれ」
「わかりました。では、そうさせていただきます」
メガネの天使はそう言うとジャケットのポケットからスマートフォンを取り出した。そしてすぐに『副部長』と登録された電話番号に電話をかけた。
「副部長、Bパターンになった。至急人手を集めてくれ。上書き対象期間は今年の1月1日から12月29日まで。チャットで指示を出す予定だったが対象期間が長い。今からテレビ会議で接続するから内容を確認しながら随時担当割り振りと陣頭指揮を頼む」
スマートフォンを頭と肩で挟みながらメガネの天使は高速でキーボードを叩いていく。
「副部長、質問は無しだ。全て現場判断に任せる。それで何かあれば責任は私が持つからスピード重視で進めてくれ。それじゃあ頼んだ」
メガネの天使はそう言うと電話切った。電話の向こうでは副部長が一瞬戸惑っていたが即座に切り替えて各部門へ指示を飛ばし始めた。
メガネの天使はスマートフォンをポケットにしまうとノートパソコンでテレビ会議システムを立ち上げ、副部長のパソコンに接続した。接続が確認できると今度は自分の両頬を力強くビンタした。
高く乾いた音が部屋中に響き渡る。ビンタの音に驚き固まった神様を無視してメガネの天使は言った。
「さあ、確認を始めましょう」
ピリピリと空気が張り詰めるのを神様は肌で感じた。
「1月から見ていきましょう。1月で上書きすべき内容はありますか?」
「えーっと、1月は特にないな。あっても誤差の範囲だから無視して問題ない」
「では2月はどうですか?」
「2月は世界各地で同時多発的にオーロラが観測されただろう。あれをなかったことにする必要がある」
「あれ、異常気象じゃなかったんですね」
「ああ、あれは人間界に注ぐエネルギー量が多すぎて光っただけだ」
「大勢の人がオーロラを見て喜んでいましたが記憶の上書きも必要ですね」
「そうだな。同時進行で頼む」
「承知しました。他に2月はありますか?」
「2月はそれだけだ。次に3月15日に太平洋のど真ん中に出現した新大陸だが……」
「あれもなしですか?」
「なしだ」
「オーストラリアとほぼ同じサイズの新大陸が突然できたからおかしいと思っていたんですよ」
「そうだな」
「私、確認しましたよね? 何かの間違いではないかと」
「……そうだな」
「あの時神様はなんて言いました?」
「…………問題ないって言ったな」
「言いましたね。あの時ちゃんと確認していたら」
「……申し訳ない」
「3月はあとあれもですか? 25日に万里の長城上空に金色の龍が出現しましたがあれも何かの手違いですよね」
「いや、それは上書き不要だ」
「……本当ですか?」
「ああ、それはもともとあの日に出現すると一昨年の時点で決まっていたことだから上書きしなくていい」
「……わかりました」
メガネの天使は聞きたいことがたくさんあった。しかし、そんな事をしている余裕がないこともわかっていたので話を進めることにした。
「3月は終わりですね? 次は4月ですか?」
「4月、5月は上書き不要だ。小さな誤差だから無視していい」
「では次は6月ですか? 6月は特に目立ったことはなさそうですが」
「6月8日にミレニアム懸賞金問題が全て解決されただろう。あれはなしだ」
「あ、そうなんですか」
「本来ならあと6年と3ヶ月後の話なんだ。私が日付を間違えていた」
「残っている問題が全て同日に証明されるのは変わらないんですか?」
「ああ、それは変わらない」
「そうですか、それにしてもやっと解決したと思っていたのに残念ですね」
「まあ、あと6年ほどすれば解決するんだから些細なことだろう」
「なに偉そうに開き直ってるんですか?」
「……すまない」
神様はメガネの天使にぴしゃりと言われて肩をすくめた。部屋にはメガネの天使がキーボードを叩く無機質な音だけが響く。副部長は居た堪れない気持ちでそんな彼らのやりとりを画面越しに聞いていた。
「6月はまだありますか?」
「いや、次は8月だ。海底国の人類に対する宣戦布告を上書きしてくれ」
「あれもですか。平和主義のあの国が突然宣戦布告したので驚いていましたが間違いだったんですね」
「8月1日に宣戦布告しているんだが本当は8月31日なんだ」
「……人類が海と戦うことは不可避なんですか?」
「ああ、それは確定事項だ」
「……約一ヶ月ずれていた日程を正すことで何が起こるんですか?」
「年内に沈む大陸が一つ減る」
「……わかりました、上書きしましょう。次に上書きするのはいつですか?」
「9月に世界各地で起きた謎のパンデミックを無かったことにしてくれ」
「なかったことに?」
「ああ、それ、私が数式を間違えていたから9月の世界の死者数が異常値になっていたんだ。それで帳尻を合わせるためにパンデミックが発生していたんだよ」
「迷惑な話ですね」
「ああ、まったくだ」
「他人事のように話していますがあなたのミスですよ? 反省されていないようでしたら……」
メガネの天使が突然右手で指を鳴らした。小さく弾ける音が響いた途端室内の温度は急速に下がり照明が一段階暗くなった。そして神様の背後に真っ黒のローブを深く被った男が立ち、神様の首元に大鎌を添えていた。
「すみませんでした!」
即座にピンと姿勢を正して行儀良く座り直した神様は今にも泣きそうな声で謝った。目には薄らと涙を浮かべている。
「反省していただければいいのです。では話を進めましょう」
メガネの天使は右手中指でくっと眼鏡の位置を整えると再び指を鳴らした。すると室内の温度も明るさも元に戻りローブの男は消えた。神様は脱力し深々と椅子に座った。副部長は画面越しにはメガネの天使の姿しか見えないが神様の無事がわかり安堵した。
「9月はパンデミックの上書きだけですか?」
「ああ、そうだ。次は11月18日のタイムマシンの完成を10月6日に修正してくれ」
「変更内容は日程の前倒しだけでいいですか?」
「ああ、前倒しすればあとは勝手に話が進む。この件は日程変更以外は傍観で問題ない」
「承知しました」
「あとは11月に世界同時多発したハリケーンも無かったことにしてくれ」
「あの規模の自然災害を無しにしていいんですか?」
「ああ、あれは値貼り付けし忘れた結果、予定にない災害発生のフラグが立ってしまっていたんだ。もともとあんな規格外な災害は予定にない」
「あなたは最初これだけのミスを無かったことにしようとしたんですか?」
「……いや、あれは魔がさしたというか、気の迷いというか」
「自分の尻拭いぐらい目を逸らさずちゃんとしたらどうです?」
「……はい」
「もう上書きが必要なことはありませんか?」
「あと二つだけ。明日の太陽系に新たな惑星が誕生するのと隕石衝突による地球半壊もなしで」
「…………は?」
「いや、本当に申し訳ない」
「私、何度も間違いじゃないか確認しましたよね?」
「……ああ」
「何度も何度も聞きましたよね? ここまで大きなことをして大丈夫なのかと」
「……はい」
「あなたはその度に問題ないと言いましたが間違っていたんですか?」
「勘違いしていたんだ」
「は?」
「いや、数式のエラーでさ、昔の出来事をvlookupしてしまったようなんだ。間違いと言うか何と言うか……」
「だからなんなんですか?」
「誠に申し訳ございませんでした」
「……もう終わりですか?」
「ああ、もう他にはない」
「信じていいんですか?」
「大丈夫だ。念のため今朝、父にも母にも確認してもらったから」
「……そうですか」
「……ああ」
萎びた顔をした神様をメガネの天使は蔑むような目で見た。しかしそれは一瞬だった。すぐに表情を元に戻すとノートパソコンの画面に向かって話しかけた。
「副部長、確認会議は終了だ。デスクに戻り次第私ももすぐ現場に向かう。そっちはどうだ?」
『お疲れ様です。応援要請は対応済みです。担当割り振りも終わりました。なんとか年内に全て上書きすることができそうです』
「よかった。時間外労働が発生するだろうから全員にちゃんと申告するよう伝えておいてくれ。それから応援に駆けつけてくれたメンバーのリスト作成も忘れないようにと念押しを頼む」
『承知しました』
「では後で」
メガネの天使はテレビ会議システム切るとノートパソコンを閉じて立ち上がった。
「私も現場に戻り対応を進めます。万が一追加の対応事項が見つかればご連絡ください」
若干ズレかかったメガネを整えながらメガネの天使はそう言い残して部屋を後にした。会議室に残された神様はぼんやりと天上を見上げた。
「よろしく頼む」
メガネの天使が去った今、無意味な言葉が空を漂った。
天使たちの上書き対応はタイトなスケジュールではあったが大晦日の23時に無事に終了した。対応にあたった者たちはかなり疲労していた。しかし、年内に対応を終えることができたことによる安堵と達成感で皆満足していた。もちろんメガネの天使も例外ではない。
彼らは残された大晦日の1時間と正月休み思う存分満喫した。年明けに上書き対応のために発生した費用精算をする必要があったが一旦忘れることにして休んでいた。
そんな天使たちの正月休み最終日の1月6日。再び世界中に神様の声が響いた。
「あ、上書き保存するの忘れてた」