第七十一話 あの場所で出会った二人
これは、偶然なのであろうか。
湖を訪れた朧は、瑠璃と出会ってしまう。
驚きを隠せな二人は、あっけにとられたまま、呆然と立ち尽くしている。
だが、先に、はっとしたのは、瑠璃の方だ。
自分の目の前にいる人物は、敵だと認識したのか、朧から目を背け、踵を返そうとしていた。
「待って!」
逃げ去ろうとする瑠璃を朧が、慌てて追いかけ、腕をつかむ。
だが、瑠璃は、引き離そうと抵抗する様子を見せない。
何も言葉を発することなく、振り返る瑠璃。
朧の表情は、真剣だが、咎めるつもりはないようだ。
表情から読み取れる。
まるで、瑠璃を気遣っているように、感じたから。
「な、なにも、聞かないから……。もし、嫌なら、俺が、帰るから」
朧は、瑠璃にここに留まるよう懇願したのだろう。
彼女と出会った直後、一瞬だけなのだが、見てしまったのだ。
悲愴な表情を浮かべてここへ来た瑠璃を。
朧は、放ってはおけなかった。
だが、自分達は、敵同士。
自分は、ここにいてはならないのだと、朧は、悟った。
そのため、朧は、瑠璃にここに残るよう譲ったのだが、瑠璃から発した言葉は、意外であった。
「嫌じゃない」
「え?」
朧は、驚いてしまう。
今、何と言ったのだろうと。
聞き間違いではないなら、「嫌じゃない」と言ったはずだ。
だが、その理由がわからない。
自分は、瑠璃にとって敵だというのに。
朧は、瑠璃の真意が読めなかったが、瑠璃は、ぎゅっと朧の裾をつかみ、もう一度、強く告げた。
「嫌じゃないから、いて」
「う、うん」
瑠璃は、朧に懇願する。
ここにいて欲しいと。
それは、偽りではなく、瑠璃の本心だ。
本当に、意外だ。
まさか、瑠璃の口から、このような言葉が出てくるとは思ってもみなかったであろう。
朧も、思わず、うなずいてしまう。
瑠璃の手を放し、二人は、湖の前でしゃがみ込む。
湖は、戸惑いを隠せない二人の表情を映しだしていた。
会話をすることなく、時間だけが流れる。
朧は、沈黙を破ろうと会話をきりだそうとするが、何を話したらいいのか、わからず、迷っていた。
だが、沈黙に耐えられなかったのか、瑠璃から先に問いかけてきた。
「ここ、来るの?」
「たまに、ここ、九十九と姉さんがよく会ってた場所だから」
「そう……」
朧は、瑠璃の問いに答え、説明する。
九十九と椿が会っていた場所なのだと。
と言っても、瑠璃も知っているに違いない。
だが、瑠璃は、思いのほか、うなずくだけだ。
朧は、瑠璃が、九十九からこの湖の事を聞いたから、来たのだとばかり思っていたのだが、そうではないらしい。
「知らなかった?」
「うん、初めて聞いた」
今度は、朧の問いに瑠璃が答える。
本当に、九十九から聞かされていないようだ。
考えてみれば、ここは、九十九にとって良き思い出だが、悲しい思い出なのかもしれない。
九十九が、その事を語るとは、到底思えない。
それに、九十九は、自分の事を語る男ではない。
そう考えれば、わかりきった事であった。
「瑠璃は、よく来るの?」
「来る。昨日も来たから……」
「そっか」
瑠璃は、ここに足を運ぶようだ。
だが、何の為に、ここへ来るのだろう。
なぜ、この場所を知っているのだろう。
朧は、聞きたいことが山ほどある。
瑠璃自身のことも含めて。
だが、問いかけることはしなかった。
今は、ただ、彼女との会話を楽しみたかったからなのかもしれない。
いや、聞きだしてはいけない気がしたからかもしれない。
朧は、瑠璃にこれ以上問いかけることはなかった。
「ここ、綺麗だよな」
「うん、見ると、落ち着く」
「……俺もなんだ。九十九と姉さんの事を思いだすんだ」
やはり、ただ、湖を眺めたかっただけのようだ。
それもそうであろう。
この湖は、月に照らされて美しく見える。
まさに、幻想的だ。
誰にも邪魔されずに、いられる気がして。
かつて、九十九と椿が、逢瀬を重ねた場所に、朧と瑠璃がいる。
これは、単なる偶然なのであろうか。
それとも……。
いや、今は、何も考えず、彼女とこの湖を見るだけでいい。
それだけで、気持ちが落ち着くのだから。
朧は、ただ、黙って、湖を眺めていた。
穏やかな表情で。
だが、瑠璃は、気になっているようだ。
朧の事を。
「本当に、聞かないの?」
「何が?」
「どうして、私が、一族を滅ぼそうとしてるのかって……。九十九の事だって気になってるんでしょ?」
突如、瑠璃が、問いかける。
なぜ、問いかけようとしないのか。
瑠璃は、不思議でならなかった。
餡里が、正体を現したあの時、自分と九十九は、逃げるように去ろうとした。
だが、朧は、二人に問いかけたのだ。
なぜ、このような事をするのか、と。
もちろん、瑠璃も九十九も答えるつもりなど毛頭なかった。
そのため、逃げるように去ったのだ。
それなのに、今の朧は、問いかけようとしない。
問いただすなら、絶好の機会だというのに。
確かに、朧は、何も聞かないと言ったが、本当に聞かないとは、思わなかった。
さりげなく、話を振られるのだと思っていたのだから。
だからこそ、瑠璃は、尋ねてしまったのだろう。
「知りたいけど、今は、いい」
「なぜ?」
「言いたくないんだろ?」
「え?」
あれほど知りたがっていた朧であったが、今は、いいと言いきったのだ。
しかも、瑠璃を気遣ってか、聞かない理由が、瑠璃が、言いたくないからだと悟ったからだ。
これには、さすがの瑠璃も、驚きを隠せない。
仮にも自分は、敵だ。
相手の事など、気遣ってどうするのだと、内心あきれていた。
「言いたくないのに、無理やり聞きだしたって、意味ないさ」
「だから、聞かないの?」
「うん」
本当にあきれてしまう。
無理やり聞きだしたくないと語っているように聞こえる。
だが、驚くのは、まだ、これだけではなかった。
「本当に、敵だとは、思ってないから」
「変な人……」
朧は、瑠璃を敵だと思っていないらしい。
確かに、瑠璃は、暴走しようとした朧を食い止め、重傷を負った彼を自分の腕まで傷つけて、癒した。
だからと言って、敵意を向けないというのは、違和感がある。
朧と言う人間は、変な人間だ。
瑠璃は、そう認識する。
だが、なぜか、居心地がいい。
心が、穏やかになっていく。
それは、ずっと、変わらない。
複雑な感情を朧に抱いた瑠璃は、すっと立ち上がった。
「行く」
「うん」
今度は、引き留めようとしない。
本当に、変わった人だ。
瑠璃は、朧に背を向け、静かに歩き始めた。
しかし、朧も、突如、立ち上がった。
「また、会えないかな?」
朧は、瑠璃に問いかける。
再会できないかと。
驚きつつも、立ち止まる瑠璃。
そして、ゆっくりと朧の方へと体を向けた。
「……明日も、来る」
「わかった。俺も、来るよ。その時は、他の話をしよう」
「うん」
瑠璃は、明日、来ると告げる。
そして、朧も。
まるで、恋人同士の会話だ。
不覚にもそう思ってしまった瑠璃。
顔が、赤くなるのを感じ取り、朧に気付かれないように、強引に背を向けた。
「お休み……」
「うん、お休み」
瑠璃は、照れながらも、別れを告げて、去っていく。
朧も、瑠璃に背を向けて歩きはじめた。
お互いが、不思議な感情を抱いている事に気付かずに……。
朧は、鳳城家の離れの屋敷へと戻る。
千里も陸丸達も眠っているようだ。
朧が、外に出て、瑠璃に会っているとは気付かないまま。
朧は、安堵した様子で、月を見上げていた。
「結局、聞けなかったな……」
あれほど、瑠璃について知りたがっていたというのに、いざ目の前にすると、聞くことすらできなかった。
それも、無理やり聞きだしたくないと理由まで話して。
だが、聞かなかったのは、本当に、無理やり聞きだしたくなかったからだ。
偽りではなく、朧の本音であった。
――瑠璃のあんな表情、見たことない。
一瞬だけ見せた瑠璃の悲愴な表情が、忘れられない。
まるで、罪を背負っているようだ。
罪の意識にさいなまれて、一人でここに来たように思える。
かつて、九十九も、瑠璃と同じ表情を何度もしたことがあったのだ。
九十九自身は、無意識のうちにであったが。
朧は、懐から小袋を取り出し、さらに小袋から白い貝殻を取り出す。
先ほどまでの瑠璃の表情を思い浮かべながら。
無表情を貫いていた彼女が、感情を出し始めたのを改めて感じながら。
その時であった。
「朧?」
千里の声が聞こえ、朧は、振り向く。
千里は、起き上がり、陸丸達を起こさないように、朧の元へ歩み寄った。
「千里、起きてたのか?」
「さっきだ」
千里が、起きたのは、つい先ほどのようだ。
起こしてしまったのかもしれない。
朧が、問いかけようとするが、先に千里が、朧に問いかけた。
「どこかに行ってたのか?」
「うん。ちょっとな……」
「……そうか」
朧は、あいまいな答えを出してしまう。
まさか、瑠璃に会っていたとは、言えないだろう。
千里は、何かを悟ったのか、それ以上は、訊ねなかった。
月は、いつまでも、朧達を照らし、見守っていたのであった。
瑠璃も、寺院へと帰還する。
誰にも気付かれないように、自分の部屋へ戻ろうとするが、そう簡単に行くわけがない。
彼女の部屋の前で、柘榴が、待ち構えるように立っていた。
「遅かったね」
「柘榴……」
柘榴は、微笑みを携えながら、瑠璃に語りかける。
だが、柘榴は、本心を隠すのがうまい。
そのため、今は、笑みを浮かべていたとしても、内心は、怒りを露わにしているのかもしれない。
瑠璃は、何度もあの場所を訪れたことがあるが、すぐに帰ってきた。
帰還が遅くなったのは、今日が初めてだ。
柘榴は、問いただすだろう。
何をしていたのかを。
「何してたの?」
「……何もしてない」
「そう」
やはり、思った通りだ。
柘榴は、瑠璃に問いただす。
だが、瑠璃も、朧と同様にあいまいな答えを出してしまう。
気付かれたくなかったからだ。
敵である朧と会っていたなど。
もし、気付かれてしまったら、明日、朧に会うことはできなくなる。
それだけは、嫌だ。
瑠璃の心がそう告げている。
理由は、わからなくても。
答えた瑠璃は、無言のまま、部屋へ入ってしまう。
逃げるように。
「瑠璃、君は、嘘をつくのが下手だね」
柘榴は、勘付いたようだ。
瑠璃が、何かを隠している事を。
誰にも言えないような秘密であると。
「これは……」
夜遅くまで調べていた初瀬姫は、愕然としている。
先ほどまで手に取っていた書物を落としてしまうほど。
床に落ちた書物は、パラパラと紙がめくられ、閉じられてしまった。
「そんな事って……」
初瀬姫は、衝撃に打ちのめされたように、目を見開いたまま驚いている。
書物にかかれている内容が信じられないようだ。
それほど、衝撃を受ける内容だったのだろうか。
「もし、これが、本当なら……餡里が現れたのも……お母様が殺されたのも……千年桜が奪われたのも……」
初瀬姫は、体を震わせる。
驚愕から憎悪へと変わっていくように。
初瀬姫は、感情を抑えられず、怒りをぶちまけるように叫んだ。
「全部、瑠璃のせいじゃない!!」




