1
「いやぁ、昨日はすまんかったな。みるくが体調悪くてな、朝は病院に行っとったんだわ。」
僕は再び杉並の研究室を訪れていた。今日はあの女の人はいないようだ。研究室には僕と杉並と、杉並が抱いている白猫が1匹いるだけだった。きっとこの猫がみるくなのだろう。
「御影さんに聞いたんだけど、くろを見つけてくれたんやって!」
「御影さんって、あの女の人だよね。同期にあんな子いたっけ?」
「・・・今年転科してここの研究室に来たから、近藤は知らんでもしゃーないわ。それより、くろは?連れてきてないみたいだけど。」
探していた猫が見当たらないことに、いらついているようだ。口では笑っているけど、目が血走っている。
「あ、あぁ。・・・ごめん、あれ違ったみたいなんだ。昨日本当の飼い主が見つかってさ、返しちゃった。」
先輩は今日は一緒に来ていない。というより、今日起きたらいなくなっていたのだ。
「ま、マジ。そうか、そうか・・・そうか。」
杉並は明らかに落ち込んでいた。顔は下向き、涙目になっている。
「きょ、今日は別に聞きたいことがあってきたんだ。」
「くろ・・・くろ・・・。」
机に突っ伏し、愛猫の名前をつぶやいていた。僕の話は全く届いてなさそうだ。杉並が抱いている白猫が、机と杉並にはさまれて苦しそうに鳴いている。
「あぁごめんね、みるく。そうだ、そろそろご飯の時間だね。」
僕のことを完全に無視し、台所の方へと歩いていった。白猫も開放されて尻尾を振りながら彼の後ろをついていく。
「あの、聞きたいことがあるんだけど。」
「さぁ今日は栄養満点のプレミアム缶だよ~。」
皿に缶詰のキャットフードを出し、白猫は勢いよく食べ始めた。その様子を眺め微笑んでいる。
「お前、わざとやっていないか?」
一期生のときからそうだが、杉並は猫を中心に世界がまわっている男だ。猫のことになると周りが全く見えなくなる。そしてそのことを自覚していないから、非常にたちが悪い。
「・・・荒波一樹って知ってるか?」
たぶん答えてはくれないとは思ったが聞いてみた。
「・・・一樹くん?知っとるけど。近藤こそ何で知っとるんや?」
僕の方を振り向き、不思議そうに答えてくれた。愛猫を前に、僕の話なんか聞こえてないだろうと思ったから、驚いた。
「高校のときの先輩なんだよ。」
「あぁ、なるほど。」
「杉並は荒波先輩とはどういう仲、なの?」
「一樹くんとは同期さ。前にいた大学の話しやけど。」
杉並が、前にいた大学を中退し、こっちの大学に進学していたのは聞いたことがあった。杉並が僕より2つ年上だということも。しかし、まさか先輩と同じ大学にいたとは。
「俺と一樹くんは学部は違うけど、演劇部で一緒になったんや。」
「へぇ、そうなんだ。杉並が演劇部だなんて、なんか意外だな。」
「近藤だって、高校ん時演劇部に入っていたなんて想像つかんわ。まぁお互い様や。」
今は二人とも演劇部には入っていない。しかも芸術とは無縁の、理系の学部生で、お互い地味だから無理もないか。
「先輩とは、ケンカとかしたことある?」
「ケンカ?ないない。やっても勝ち目ないし。」
確かに、杉並は丸縁眼鏡のひょろ長いもやしみたいな体格だ。僕でもケンカしたら勝てる気がする。
「・・・そろそろ、研究を始めたいんやけどええか。」
机の上で丸くなっている白猫をなでながら、杉並が言った。研究の邪魔をするのは申し訳ない。しかし、一番聞きたいことが残っている。
「あ、あと1つ聞きたいんだけど。」
「なんや?」
目線は白猫に向けられたままだ。
「その・・・、今までで死にかけた経験ってある?」
「なんやそれ?・・・死にかけたことか、あるで。」
目線はそのままに答えた。おもわず椅子から落ちそうになった。そんなあっさりと。
「それって、誰かに殺されかけた・・・とか。」
そのとき白猫が目を開け、僕を睨んだ。僕の言葉に反応するかように、じっと睨んでくる。なんか、怖い。その猫を杉並は落ち着かせるようになでながら、僕の方を振り向いた。
「あれは、いつになるかな。・・・ベランダでみるくが楽しそうに遊んでいたんや。俺もつい一緒に遊びたくなってな、ベランダの柵の上へ上ったんや。そんとき踏み外して、2階から落下や。いやぁ、あんときはさすがに死ぬかと・・・」
話を最後まで聞く必要はない。僕は研究室を後にした。