あのころのように……(改稿版)
鏡台の前で薄くなった髪を綺麗に撫で付け終えた初子は、整髪料の横に転がっている口紅に手を伸ばした。キャップを空ければ鮮やか過ぎるほどのピンク。それは先月遊びに来たひ孫の忘れ物で、すでに還暦を迎えた息子夫婦と初子、老人ばかりのこの家では使うものすらなく、転がったままだったものだ。
鏡に顔を近づけて見れば、八十年という人生を刻んだ顔は皺に深く侵され、いくつか浮いた老成のしみが物悲しい。少々の色をのせたところで、乙女時代の華やかさが取り戻せるわけがない。
それでも今日だけだと、指先を戸惑いに震わせて紅を引く。水気を失い、小さなしわ寄った唇に華が咲いた。小さく奥まった瞳が、若女のような期待と恥じらいに輝く。
今日はこのぐらいのおしゃれも許されるはずだ。口紅の色に合わせて、あのセーターを着ていこう。通販で買ってみたが思ったより乙女ちっくな色と、自分の年齢に臆して袖も通さなかった薄紅色のセーターを……。
そんな気持ちに水差したのは、引き戸を開けて入ってきた義娘だった。
「まあ、みっともない色!」
その声に、初子は慌てて口紅を拭う。やはり浮かれすぎていたか。
初子は自分の『女』は終わったのだと思っている。連れ合いを得て子供を産み育て、最期も看取ったのだ。あとは何者にも心動かされず、心静かに余生を過ごすのが正しい老人のあり方だと。
義娘がさらに言葉を継いだ。
「あまり恥ずかしい真似をしないでくださいよ。まったく他人の、それも若い男の子と出かけるなんて、それでなくても体面が悪い」
いいながら彼女は、初子の容貌を見下ろした。
薄くなった髪、皺に埋もれた表情、そして年月が小さく縮めてしまった骨格へと、冷たい視線が降る。
「そんな心配もなさそうね」
高らかな嘲笑を聞く初子の中に、情念の炎がくすぶり始めた。そんなものはとうの昔に……命の残り火よりも先に消えてしまったのだと思っていたのだけれど……。
閉まる引き戸の向こうに義娘が消えるのを見送って、初子は再びピンクの口紅に手を伸ばした。
(やっぱり、あのセーターを着ていこう)
小さく奥まった瞳が若女のような期待と恥じらいに輝く。おろしたてのふわりとした毛羽に袖を通して、家を出た。待ち合わせ場所は近所の公園だ。
身に着けたピンクの効果だろうか、愛用の杖を突きながらの足取りではあるが、今日は心なしか膝が軽い。
それでも、公園のベンチに腰を下ろすころには少し息が切れていた。
(ああ、やはり年寄りだ)
はしゃいだ気持ちが少しばかり沈む。ベンチに座る初子は、日向に背中を差し出して暇をつぶす老人にしか見えないだろう。
今日、待ち合わせている相手とは、実に六十余歳の差がある。知り合いのひ孫である彼を食事に誘ったのは初子の方だ。年をとると人間はこうも大胆になれるものだろうか。恥も外聞も無く狡知をめぐらせて……遅ればせながらの入学祝に食事を奢ろう、と彼を誘い出した。
初子の中では、今日はデートなのだ。もちろんタダメシに釣られてきただけのコドモに、無体なことを要求するつもりなどない。ただ、乙女だったあのころのように、高鳴る胸を隠しながら好きな男の隣を歩ければ……
待ち合わせの時間ちょうどに現れた『彼』は、細身の長身を折って謝罪を口にした。
「すんません。本当は俺のほうが早く来るべきなのに」
年上に対する通り一遍の礼儀に、初子は落胆する。仕方の無いことか。彼はまだ高校生、初子のひ孫より年下なのだから。
「いいのよぉ、おばあちゃんなんか時間があまって困っているんだから。ここで暇つぶししていただけよ」
少しくぐもった老人特有の声音。それでも、強がりの言葉。
「『女』は待つのが仕事だしねぇ」
わざと強めに発音したその単語を、彼は一瞬の戸惑いの後、くすりと小さく笑って受け止める。
「いや、やっぱり俺が先に来るべきでした。『女性』をこんな寒いところで待たせるなんて、俺、サイテーじゃないっすか」
義娘などは、彼のこの口のうまさをいぶかしむ。
だが初子は曲げることなく彼の本質を見抜いていた。若者ゆえのノリというものだ。他意はない。
「で、今日は何を食わせてくれるんスか?」
まぶしい笑顔が遠い昔を思い出させる。ああ、初恋の男に似ている。
いや、正直そんな遠い日の記憶などあやふやで、本当にこの青年が彼に似ているかすら怪しい。ただ、こんな屈託の無い笑いを初子にくれる男であった……それだけは確かだ。心が一瞬にして乙女に引き戻される。
二つ年上の幼馴染に片恋をしていたあのころに。
恋愛的な展開など何一つなかった。お互い別の相手と平穏な人生を送ることになったのは、縁さえなかったが故だろう。
だが、笑顔を見るだけで苦しかった叶わぬ恋を、最近は夢に見る。だからこそ、彼に似たこの青年に、人生最後になるであろう『恋』をした。
「嫌じゃないんなら、俺、肉が食いたいです」
無遠慮な提案をしながらも、初子をベンチから立たせる彼の手は決して焦ったりはしない。軋む膝にあわせて実にゆっくりと動く。
「今日は杖はボッシューです。俺を杖にしてください」
繋いだ手から伝わる若い暖かさが、老いて冷え切った指先を暖める。その熱は確実に、初子の奥底まで沁みた。老いにくすんだ頬に、ほうと血色が上る。
彼は知ったら笑うだろうか、この老いらくの恋を。
そんな気持ちを知らずか、彼はひょいと身をかがめて初子の顔を覗き込む。
「俺のおばあちゃんじゃないんだし、『初子さん』って呼んだら……失礼ですかね?」
残り少ない鼓動を惜しんでいた心臓がとくん、と鼓膜に沁みるほどの心音を立てた。久しく感じなかった自分の体温が、鮮やかな欲熱へと変わる。
浅ましいと知ってはいても……初子の残り少ない時間は、彼を求めて大きくうねりだした。