バレンタイン・で
改めてはじめまして、卯位日位です。
バレンタインということで一つ書いてみました、お暇つぶしになれば幸いです。
「おはよう、我が最愛の妹よ!! 早速だが、これを受け取ってくれないかい!?」
バレンタインの朝、工藤誠はリビングに降り立つなり登校準備をする愛しの天使こと妹の工藤優に昨日用意した薔薇の花束を捧げる。
宝石のような黒い瞳、朝の清浄なる光を浴びて天使の輪を描く腰まである艶やかな長い髪、オレと同じ高校のブレザーに包まれた華奢な肩、神が創りたもうた美の結晶たる我が妹が引きこまれそうな視線がオレの掲げ持つ花束をじっと見ている。
不意にその桜の花のように鮮やかな色を持つ綺麗な唇がひらく。
「はぁ、兄さん。こういう派手なことは自重してくださいと去年も言ったはずですが?」
「ああ、わかってる。だが、愛しい妹の愛を抑えきれなくてね。これでも去年より2本ほど本数は減らしたよ」
「そういう問題ではないのですが……」と優はその可愛らしい頭をかかえため息をつきながら花束を受け取る。その悩ましげな表情が幼いながらも確かな色気を醸し出している。
「それで妹よ。最愛の兄への贈り物はないのかい?」
「……――ああ、兄さん用のチョコは用意していませんよ」
やれやれ妹も思春期か、そんなの恥ずかしがることないのに。兄は全部知っているのだぞ。
「ははは、冗談を。昨日も遅くまで色々やっていたじゃないか」
「そうですね、もし仮にそうだとしても兄さんには関係ないことです」
オレの追求にも平常心でさらりと受け流し。リビングにあった花瓶に適当に水を注ぎ花束をいける。
「早く出ないと遅刻しますよ兄さん」
そうして、妹はそのまま何事もなくリビングから出ていった。
あ―――あれ?
「神は死んだ!!」
登校中、延々と考え続け出た結論に絶望し、2-Aの教室で頭をかかえる。
叫びを上げるオレにすでに登校していたクラスメイトは誰も反応しない。というかオレの奇行はいつものことなので誰も気にとめない。
「よう、旦那。イタリア紳士(笑)を自称する旦那がニーチェたぁ珍しい、宗旨替えかい?」
登校するなり寄ってきたのは髪を茶色に染め長身でツリ目のクラスメイト、高村慎吾だ。なにかとつるむことが多く、オレの相方扱いされるノリのいい男だ。
「なにかあったなら相談にのるぜ、旦那。もちろん有料で」
と言ってへらりと面白がるように笑う。まあ、有料というのは冗談だろうが、軟派そうな雰囲気と違って気遣いができる奴だ。
「実は昨日、一昨日の夜、優が台所使ってなにかやってたんだ」
「そりゃ、急に料理に目覚めたんじゃなけりゃ、この時期だしチョコつくってんだろうな」
「だが、今日優からチョコ貰えならかった……」
「旦那、毎年もらってるんだっけ? でも、優ちゃんも思春期だろ。さすがに兄離れじゃね?」
「いや、それ自体はいい……いや、本当は惜しいが……」
「じゃ、なんだよ?」
「……」
そこまで言って沈黙する。この結論は口にするのもおぞましい。もし言の葉にのせれば起こり得ぬ事態が起こるかもしれない。
だが、オレの表情から何かを悟ったのか、慎吾の奴がニヤリと不吉な笑みを浮かべる。
「そりゃ男だな」
「―――ぐっ!!」
言いやがったこの男、禁断の言葉を。
かくなる上はこの馬鹿を処分して、今の言葉を取り消させるしかない。
「馬鹿な勘ぐりはやめなさい、友チョコかもしれないでしょ」
馬鹿二人の会話に、凛とした女子生徒の声が割り込む。
ふわりとした長いウェーブヘアーをかきあげ、朝っぱらから隙の無い身だしなみの女子生徒、遠野遊里が近づいてくる。
遠野の登場に伴ってクラス中の視線が彼女に集中する。華のある容姿、学校のブレザーが全くの別のものに見える見事なプロポーション、男女隔たりなく発揮される社交性を持ちクラスのリーダーとも言っていい人物。おそらくこの日において最もその動向に注目を浴びている人物だろう。
その証拠に遠野がオレ達に話かけてきただけで、男子、女子関わらず無数の視線が突き刺さる。
「いやいや、遠野さん。最近、とある上級生イケメン男子に優ちゃんが親しげに話してるのを目撃したって噂が広まってるぜ」
不安を煽る自称事情通の慎吾。
しかし、それを遠野がバッサリ切って捨てる。
「工藤君の妹さんって物静かだけど、社交的で顔広いわよ、彼女。それに工藤君よりもよっぽどしっかりしてるし」
言っていることはもっともだ、並のアイドル顔負けの美少女である妹に、身の程もわきまえず近寄ってくる輩は後を絶たない。しかし、真面目で毅然とした態度を崩さない妹がそこら辺の有象無象になびくようなことは有り得ないだろう。
「……少し、探りをいれてみるか」
やはり心配は消えない、そう結論づけるが。
「やめなさい、また他人のフリされるわよ。この前、ファミレスで会ったときのように『はじめまして』って挨拶されたいの?」
「苦い記憶を思い出させるなよ……」
言われた時はその場に膝をつきそうになった。妹に恥をかかせる訳にはいかないのでぎりぎりで耐えたが。
「ま、ちょいと様子を窺うだけさ。優ちゃんにはバレないって。それに万が一何かあったらそれを黙って見てられるのか? 旦那?」
確かに可憐でか弱い優のこと、相手が早まったマネせぬように、そのリスクを教えてやらないと。
「うむ、妹を守るのは兄の正義」
「おう、そうこなくっちゃ。旦那」
「もう、勝手になさい」
遠野の呆れたような視線に見送られながら、教室を出るオレ達だった。
なんとも言えない緊張感漂う廊下に出て、隣の2-B教室を覗き込む。
「ああいた、あいつだ」
慎吾のやつが一人の生徒を指差す。メガネをかけたその生徒は教室に漂う空気に我関せず、頬杖をつき本を読んでいる。
「上月真樹奈。性格は寡黙で沈着冷静、必要以上の人付き合いを嫌い一人でいることが多いそうだ。所属する部活は文芸部だが、幼い頃より空手の道場に通い結構な腕だとよ」
「……文芸部、ということは優の先輩か」
確かにイケメンだが、寄らば斬るという雰囲気が他人を遠ざけている。根暗でいかにも独りって感じだ。
「ああいう、人付き合いが苦手なタイプが女の子に少し親しくされると勘違いしちゃうんだよな」
「ああ、まったくだ」
勘違い野郎には、釘を刺しておかないとな。
入り口のところにいた生徒に件の上月氏を呼んでもらう。その男子生徒は苦々しい顔で廊下まで出てくる。
「あんたが上月真樹奈?」
「ああ、そうだが」
こちらの不穏な空気を感じたのか、上月が眉をひそめる。
「よぅ、兄ちゃんよ。今日チョコ貰ったかい?」
慎吾が初対面にしては馴れ馴れしく……というかチンピラの如く口火を切る。
「……いいや」
上月が口数少なく首を振る。それだけでオレ達にかかるプレッシャーが倍増する。
威圧的な視線に腰が引けるが、使命感からオレも警告しようと口を開く。
「そりゃいい、今日、後輩の女の子から貰うかもしれないが―――」
「―――つまり」
オレの言葉を遮り、上月が重々しく呟く。
「喧嘩売にきたのか?」
「……い、やー。そういうつもりじゃなくてだな。そ、そうつまりあれだ、あれ」
既に教室を出たときの勢いは無く、慎吾は額に汗して沈黙している。
「―――邪魔だ。消えろ」
ギロッ!
「「シッツレーシマシタ!!」」
二人で回れ右して退散する。
「やべーて、あれ。絶対2、3人殺ってるって」
「ああ、カモッラ相手にならしたオレの勘もヤツには近づくなといってる」
「あんた達ヘタレね」
教室に戻り寸劇を繰り広げるオレ達を見て遠野が呆れたように呟く。
「まあ、あんなやつにひっかかる娘じゃないよな。優ちゃんは」
「そうだな、あんな鬼畜外道のコミュ障野郎じゃあ優の視界にも入らないだろう」
「同族嫌悪って言葉知ってる?」
ジト目でこちらを見ている遠野の事実無根のツッコミはスルーすることにして。
「なあ旦那。やっぱり、優ちゃんから探ってみないと無理なんじゃねぇ?」
「むぅ、しかしだ……」
だが、あまり直接的に干渉すると嫌われるかもしれない。『兄さんなんか嫌いです』とか言われたら死ねる。
「『先輩、これチョコです』」
ためらうオレの表情を見て慎吾のやつが突然、気持ち悪い声で、気持ち悪いことを喋り始めた。
「『ありがとう優、君からもらえるなんて思ってなかったよ』
『先輩、先輩は意地悪です。私の気持ち気づいているくせに』
『………。ごめん、君を大切にしたくて。でも、そのせいで君に嫌な思いをさせてしまったみたいだね』
『……いいんです。私が意気地のないだけですから』
『―――僕は君のことが好きだ。愛してる』
『先輩、わたしなんかでいいんですか?』
『君じゃなきゃ駄目だ、優』
『先輩……』
『優……! ガバァ!』
『せ、せんぱぁあ…い! ……ぁん』」
「――よし、殺そう」
何人たりとも足を踏み入れてはいけない侵さざるべき聖域があることを無知蒙昧なる愚者達に教え込まなければならない。
邪なる心には、裁きの因果が結ばれていることを知らしめなければならない。
「誠、オレたちの使命は何だ!?」
「愚問、天より遣わされた無垢なる天使を守ることだっ!」
「誠、ならば俺達はたとえどんな犠牲を出してもでも使命を果たさなければいけない。そんな俺達が自分の手を汚すことを厭うていいのか!?」
「否、たとえこの手が血にまみれ、汚泥の中を這い回ろうとも使命を全うしなくてはならない」
「そうだ! 誠!! 今こそ剣を取りて立ち上がる時!」
「罪深き者に血の制裁を与えよ!」
「血溜まりの中で勝鬨を揚げよ!」
「やつの首級をもちいて、天にまします我らの父に輝かしき勝利を捧げよ!!!」
「そして穢れなき天使に永久の安寧を!!!」
「「いざ、出陣!!!」」
「やめなさい、また着信拒否されるわよ」
「――ぐは!!」
オレ達の聖戦は始まる前に終わった。
そうだ、まだ前回友達との買い物をストー―――否、陰ながら護衛していた件で着信拒否くらっていた分が終わっていない。あと三日で解除して貰えるしここは穏便にいくか。
「しかたない、こっそり後をつけて様子を見ようじゃないか」
「おう、わかったぜ。旦那」
「………反省する気ないわね、コイツら」
オレ達を見ながら遠野が盛大にため息をついた。
昼休み、誠は妹の教室がある一階の1-Cに来ていた。
昼休みの開始から妹を見張り続けていたがやっと動きがあった。
「対象が動きだした」
『ラジャー』
携帯から慎吾の返事が返る。妹が教室から移動した時の考え、見えないところで待機してもらっているのだ。
友人達と昼食をとり終えた優が弁当箱を片付け解散する。
優が席を立った瞬間クラス中の男子がビクッと反応し、慌てて自然体をよそおう。一度このクラス全員の素行調査を行う必要があるかもしれない。
教室を出るような雰囲気を察し、東西に伸びる廊下を東階段の方に移動する。
教室を挟んで反対側の廊下に慎吾のヤツが待機している。
廊下に出た優はこちらに背を向け、慎吾の方に歩きはじめる。
そちらの方が階段に近い、気まぐれで行動をかえる誠と違って、効率的な行動を常に心がける妹ならそちらの方に行くとふんでいた。もっともこの目論見が当たるということは、優が上級生のだれかにチョコを渡すという予測が当たったということだ。
そちらに向ったことを慎吾に伝え、いまいましい思いを抱きながら気付かれないように静かに妹の尾行を開始する。
やがて妹はニ階の2-Cの教室に到着し、入り口の生徒に話かけ誰か呼んでもらっている。しばし待っていると一人の背が低く、とろんと眠そうな表情をした中性的な男子生徒がでてくる。
『……あいつは』
「知ってるのか?」
『ああ、誠も名前くらいは聞いたことあるだろ。御鎚暦、一年の頃から上級生のお姉様方に大人気のやつだよ。ロッカーの上見てみろよ』
この学校では生徒の荷物を入れるロッカーは教室の後ろではなく、廊下の窓際に設置されている。慎吾に促され廊下の端を見ると、腰くらいの高さくらいのロッカーの上に天井に届きそうなほどうず高く積まれたカラフルな箱の山。
『おなチューのやつに聞いたけどさ、小学校の頃からそうらしい。小動物チックで母性本能刺激するところがたまらんそうだ。まあ、人気だからとりあえず渡す相手がいないならあいつにって女子も多いらしいぜ』
要はアイドルにプレゼント贈るのと同じか、もしくは犬猫に。
『ここは見逃すかい? 旦那?』
「いや、ああいう輩が思い上がって優を玩具にしたらことだ。舐められんように一言言っておこう」
『了解、ボス』
優が持っていた小箱を暦にわたすし、軽く会釈してこちらに振り返る。暦のほうも
ひらひらと手を振り教室に戻る。二人のあっさりとした様子から義理だったようだ。命拾いしたな、半殺し程度で許してやろう。
溢れ出す殺気を抑え、こちらに向かう妹をやり過ごすため近くにあった掃除用具入れに隠れる。
優の足音と思しきものが通り過ぎ―――ず、用具入れの前で止まった。
怨敵断罪に燃えていた熱が冷え、背中に寒いものが走る。このまま通り過ぎてくれと祈るが、神は微笑まず。妹の気配はその場にとどまったままだ。
「こんにちは、兄さん」
「やあ、妹よ」
反射的に返事してヤバイと感じたが、優は俺がここにいることに確信しているのだろう。どちらにしろ追い詰められているのに代わりはない。
「そ、それで、優は2年の階でなにしてたのかな?」
毒を食らわば皿まで。思いっきって質問してみる。
「友人に頼まれて、チョコを渡しにいったんです」
「へえ、微笑ましい話じゃないか」
「まあ本人がそれで満足ならいいのですが」
優が掃除用具入れの前でため息をつく気配を感じる。
和やかな雰囲気に変えることに成功し、ほっと安堵するが。一転妹から冷たい気配が漂いはじめる。
「ところで兄さん、また私のことつけ回してましたね」
「ナンノコトヤラー」
「反対側には慎吾さんもいましたね」
うん、ばれてました。
「兄さん、分かってますよね?」
ガチャンと何かを外す音がしたかと思ったら、どんっと用具入れにぶつかる音が聞こえる。
余談だがオレが入っている掃除用具入れはキャスター式なのでストッパーを外すと女子でも比較的簡単に移動させることができる。
「う、麗しき妹君におかれましては。此度のこと平にご容赦のほどを願いたく――」
ふわりと箱が浮遊感に包まれる。
「お仕置きの時間です、兄さん」
暗くなり始めた放課後の教室で誠はがっくりと机に突っ伏していた。
どうにか階段から転げ落とされる前に緊急脱出できたが、騒ぎを聞きつけた学年主任のマウンテン山本(芸名)に生徒指導室にドナドナされ、教室に戻ったのは6時間目の終わりにだった。
「大丈夫?」
「………一ヶ月間、渡り廊下全部一人で掃除しろだと」
「ご愁傷様」
クスクスと可笑しそうに遠野が笑う。
「あ、そうだ遠野」
「なに?」
鞄から小さな包みを取り出し、遠野に渡す。
「……え、えぇ?」
「ほら、プレゼント」
「え……な、なにこれ」
「……クッキーだけど」
「そうじゃなくて!!」
「うお」
突然大声を上げられ面食らう。
「あ、ごめんなさい。大きな声出して」
「いや、いいけど」
「……なんでこんなことするのかって意味よ」
「ああ、イタリアじゃバレンタインに大切な人とプレゼント交換するらしいぜ」
「―――大切って、それって」
「いつも遠野には世話になってるからな。そのお礼だ」
いつも馬鹿やってるオレ達がクラスで孤立せずにすんでるのは、遠野が何かと気にかけてくれるからだ。そのことにはどれだけ感謝しても足りない。
「……それだけ?」
上目遣いでじっと睨まれる。
「あ、ああ。そうだけど」
むっと形のいい眉が寄せられる、機嫌を損ねたようだ。さっさと退散するか。
「それじゃ、そろそろ帰るよ」
「―――ちょっと待って」
「ん?」
「こ、これ!!」
遠野が真っ赤になりながら、包装された小箱をつきだしてくる。
「……もしかして、チョコ?」
「そ、そうよ。バレンタインに渡すなら他にないじゃない。――てっ、プレゼント交換なら私からなにもないのもおかしいからあげるだけよ!」
「ああ、ありがと。大事に食わせてもらうよ」
「……う、うん」
いつも毅然とした表情の遠野が、照れたように俯いている。その横顔は耳まで真っ赤になっていた。
◆ ◆ ◆
「ただい……ま」
玄関を開けるとキッチンの方で人の気配がする。母さんが夕飯を作り始めるにはまだ早い時間のはずだ。
「あ、やっと帰ってきた。お帰りなさい、兄さん」
キッチンからエプロン姿の優が手を拭きながら姿を現す。
「優? なにやってんだ?」
「もうすぐできあがるのでリビングで待っていてください」
「ん、ああ。わかった」
首を傾げながら、リビングでテレビを見ながら待っていると、優が大皿を抱えリビングに入ってくる。
「チョコレートケーキ? もしかしてオレに?」
「ええ、お父さんやお母さんの分もですが」
「……チョコ用意してなかったんじゃ?」
「チョコ『は』用意してないだけです」
感動が押し寄せてくる。
「神はいた!!」
「食事は静かに」
「……はい」
優が二切れ切り分けると、俺と優の前に並べる。
二人とも無言でケーキを食べる。
「……それで、兄さん」
「ん」
「チョコはもらえましたか?」
「ああ、いちおう」
鞄から遠野からもらったチョコを取り出す。
「見せてもらってかまいませんか」
「もちろん」
オレに妹の頼みを断るという選択肢はない。
即座に綺麗に包装されたチョコを優に渡す。
「………」
優はためつすがめつ眺めていたが、何かに納得したかのように目を伏せると静かにチョコを返してくる。
ただならぬ様子に気圧されながら、返却されたチョコを受け取ると、妹が口を開くまでじっと待つ。
「兄さん……」
「なんだ?」
「もし……もしですよ、私に遠慮しているならやめてください。あの時のことなら気にしないでください、私ももう子供じゃないんですから」
「遠慮なんてしてないよ、優」
「――でも」
その表情を見て二年前のことを思い出す。
親父とずっと冷戦状態だったあの時、オレは遠くの高校に進学して寮に入ろうと考えていた。そんなある日のお夜、妹が問いかけてきた。
「お兄ちゃんはこの家を出ていくの?」
それはずっと思いを溜め込んでいたうえでの問いかけだろう。おそらく肯定の返事が返ってくるのは分かっていたのだろう。
それでも否定の言葉が欲しくて。どんな答えでもオレが決めたことだから寂しくても辛くても耐えようという、幼いながらにも確かな覚悟がみてとれた。
それに気づいたオレは自分の心が意固地になっていたことに気づいた。
「バカだな」
その言葉は多分自分に向けて放ったものだった。
「オレが優のことを置いていくわけないだろう」
妹の顔に安堵の色が広がる。
オレが家を出るということは、これから妹には会えなくなるということ。オレはこんなにも価値あるものを失うことだと気づいた。
「――バカだな」
リビングでテーブルをはさんで不安な顔を浮かべる妹の目をみつめる。
「オレは自分勝手なやつだからさ。妹のことが好きで好きでたまらなくて、大好きなお前を見ていたい、一緒にいたいだからこうしているんだ。
それに離れてしまったら、オレのこと思って泣きそうになっている優の表情を見れないだろ」
「全く、兄さんはシスコンなんですから」
「恥ずかしいこと言わないでください」と、耳まで真っ赤にしながら、泣きだしそうな表情を隠すように顔を伏せた。
そんな優の様子を見て、優しい笑みを浮かんでくる。先ほどとは違う暖かな空気を感じなら時間は過ぎていった。
「よう旦那、昨日はどうだった? 俺は例年のようにまだ0だせ」
翌日、登校し自分の机に鞄をおくと慎吾のやつが話かけてくる。
「ああ、どうにか妹から貰えたよ」
「そうか、そりゃよかった」
慎吾は本当に自分のことのように喜び。優しげな笑みを浮かべる。
まったく、この優しさを女子にむければ普通にモテる男だろうに。
教室のドアが開き遠野が登校してくる。
「おはよう、遠野さん」
「おはー、遠野さん」
二人して遠野さんに挨拶するが、当の遠野さんは俺たちを見るなり硬直しキコキコとぎこちない様子でこちらに近づいてくる。
「お……は、よう。工藤くん」
遠野さんはそう言うと、俺たちと目を合わせないように顔をふせ、そそくさと逃げるように自分の席につく。
「……」
「……なあ、誠よ」
慎吾は優しげな表情のまま、ガッシと俺の両肩を掴む。
「詳しく話を聞こうじゃないか、旦那」
その目は笑っておらず。オレの周囲には殺気立ったクラスメイトが終結しはじめていた。