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数学教師の僕がダンジョンの公理を証明したらバズった件  作者: ぎょぴちゃん


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22/22

最終話 危険を感じたら、戻ってください。これは攻略ではなく、証明です

 管理局の面談室に、白い沈黙が残っていた。


 証明は終わっている。


 九条真の方眼ノートには、最後の一行が残っていた。


『撤退判断は、消されてはならない。』


 文字は消えていない。


 今のところは。


 机の上には、三枝の紙台帳、璃子のノートパソコン、麻里の猫柄の布袋、七瀬の撤退判断書、九条の観測ノートが並んでいた。


 黒石は管理局の保管ボックスに入れられている。


 封印は破れていない。


 誰も、それを開けようとはしなかった。


 九条は椅子に座ったまま、しばらく手元を見ていた。


 身体は重い。


 命題提示の後の無防備状態は、まだ少し尾を引いている。


 だが、意識ははっきりしていた。


 九条「管理局面談室。午後四時十二分。ぼくは、帰っている」


 璃子がすぐに記録した。


 璃子「はい。現在地確認、記録しました」


 麻里「真先生、帰ってる?」


 九条「ああ」


 麻里「半年前から?」


 その問いで、部屋の空気が少しだけ変わった。


 麻里は、たぶん深く考えて言ったわけではない。


 けれど、ずっと避けていた中心に、まっすぐ触れた。


 半年前。


 紀三井寺南。


 崩れた壁。


 救助継続中。


 未帰還者一名。


 救助対象者、九条真。


 帰宅確認済み。


 その全部が、同じ事故記録の中に重なっていた。


 九条は、すぐには答えなかった。


 答えない沈黙を、璃子は急かさなかった。


 三枝も、紙台帳にペンを置いたまま待った。


 七瀬朱だけが、入口の方を見ていた。


 いつものように、危険が来る方向を先に見ている。


 九条「ぼくは、ここにいる」


 麻里「うん」


 九条「七瀬さんに救助されて、病院に運ばれて、塾に戻って、授業をして、璃子に怒られて、麻里に抱きつかれそうになって、三枝さんに現実を突きつけられている」


 三枝「突きつけた覚えはあります」


 璃子「怒った覚えもあります」


 麻里「抱きつきは未遂だよ」


 九条「そこは重要か」


 麻里「重要」


 九条は少しだけ息を吐いた。


 笑えた。


 それだけで、自分が今ここにいることは分かる。


 九条「だから、ぼくは戻っている。少なくとも、今のぼくは」


 麻里「でも、全部じゃない?」


 九条「たぶん、全部ではない」


 部屋が静かになる。


 九条はノートの端に、短く書いた。


『九条真は帰還している。』


 その下に、もう一行。


『ただし、半年前の境界は未照合。』


 文字は消えなかった。


 緑色の表示も出ない。


 それが、少しだけ怖かった。


 璃子「断定しすぎない方がいいです」


 九条「ああ。だから、ここまでだ」


 三枝「公的記録としては、九条さんは救助済みです」


 九条「はい」


 三枝「一方で、未帰還者一名の記録差異は残っています」


 七瀬「そこを九条さん本人と結びつける証明は、まだしない方がいい」


 九条「しません」


 麻里「なんで?」


 九条は、麻里を見た。


 麻里は布袋を抱えている。


 その中には、記録ちゃんが入っている。


 これまで何度も、消えなかったものを持ってきた小さな記録媒体。


 九条「証明したら、半年前の境界が開くかもしれない」


 麻里「開いたら、戻る?」


 九条「何が戻るか分からない」


 璃子「赤いベンチ、休憩室、救助継続中の記録、未帰還者、恐怖、記憶。選べない可能性があります」


 麻里「怖かったことまで戻る?」


 璃子「はい」


 麻里は少しだけ布袋を抱き直した。


 麻里「じゃあ、まだ開けない」


 九条「そうだ。まだ開けない」


 七瀬「良い判断です」


 三枝「記録します」


 九条「何でも記録するんですね」


 三枝「消され始めたものは、特に」


 九条は反論しなかった。


 管理局の紙台帳。


 璃子の動画。


 麻里のメモ。


 七瀬の短い判断。


 それらがなければ、第008項は成立しなかった。


 証明したのは九条だ。


 だが、九条だけでは証明できなかった。


 視界の端に、薄い緑色の文字が出た。


『命題第008項:撤退判断の保存』


『承認済』


『復元処理:未実施』


『保存対象:戻る/撤退/やめる/進まない』


『第三者可視化:条件付き』


『外部観測:未接続』


 九条「外部観測が、まだつながっていない」


 璃子が顔を上げた。


 璃子「つまり、私たちの内側だけでは足りない」


 九条「ああ」


 麻里「外って、コメント欄?」


 璃子「たぶん、そうです」


 三枝「公開するということですか」


 璃子はすぐには答えなかった。


 ノートパソコンの画面には、これまでの動画管理画面が開いている。


 壁が消えた動画。


 浮いた動画。


 床の動画。


 字幕が変わった動画。


 危険を伏せたもの。


 非公開にしたもの。


 コメント欄に残った報告。


 削除された投稿。


 空欄通知。


 全部が、そこにある。


 璃子「公開しないと、観測者は増えません」


 九条「だが、公開すれば真似する人も出る」


 璃子「はい」


 麻里「危ない場所、書かない?」


 璃子「書きません」


 三枝「事故記録の詳細も出せません」


 七瀬「現地へ向かわせる内容も避けるべきです」


 璃子は小さく頷いた。


 その顔は、以前より少しだけ硬い。


 でも、迷って止まっている顔ではなかった。


 璃子「動画を出します。ただし、証明動画ではなく、公開観測のための動画です」


 九条「攻略ではない」


 璃子「はい。攻略ではありません」


 麻里「じゃあ、何?」


 九条はノートの最後の一行を見た。


 撤退判断は、消されてはならない。


 それは攻略ではない。


 進むための技術ではない。


 生きて帰るための証明だ。


 九条「戻る判断を、みんなで見える場所に置く」


 麻里「看板?」


 九条「近い」


 三枝「公示に近いですね」


 璃子「動画サイトで公示しないでください」


 九条「行政用語に引っ張られた」


 七瀬「でも、現場では短い言葉が残ります」


 麻里「帰るの、勝ち」


 全員が麻里を見た。


 麻里は少しだけ不安そうにした。


 麻里「だめ?」


 七瀬「だめではありません」


 璃子「むしろ、残します」


 麻里「ほんと?」


 璃子「はい」


 九条「麻里の採用率が高いな」


 麻里「最終盤だから?」


 九条「何の話だ」


 璃子「疲れているんです。進めます」


     *


 撮影は、長くしなかった。


 九条の部屋でもない。


 ダンジョンでもない。


 管理局の面談室で、机の上だけを映した。


 方眼ノート。


 紙台帳。


 管理局の注意文。


 それだけ。


 顔は映さない。


 場所が特定できる情報も出さない。


 半年前の事故記録も映さない。


 赤いベンチも、休憩室も、未帰還者も、語りすぎない。


 璃子「始めます。三、二、一」


 赤い録画ランプが点いた。


 九条は、カメラではなく、紙を見た。


 九条「危険を感じたら、戻ってください」


 声は静かだった。


 九条「これは、攻略動画ではありません」


 一拍置く。


 九条「この動画を見て、危険な場所を探しに行かないでください。何かを試しに行かないでください。自分だけで証明しようとしないでください」


 璃子の指が、キーボードの上で動く。


 仮字幕が出る。


『危険を感じたら、戻ってください』


『これは、攻略動画ではありません』


 九条「低層ダンジョンでも、怖いと思ったら戻ってください。違和感があったら、進まないでください。同行者や管理者へ伝えてください」


 三枝が用意した紙を、九条は一枚めくった。


 九条「各地のダンジョン管理機関からのお願いです。危険を感じた場合は、無理に探索を継続せず、同行者や管理者へ伝え、撤退してください。危険箇所を特定できる情報を、不特定多数に公開しないでください。記録を残す場合は、可能な範囲で複数の方法を使い、ひとりで確認しに行かないでください」


 三枝が、小さく頷いた。


 九条「休むことは大事です。でも、戻ることは休憩の言い換えではありません。撤退は失敗ではありません。探索をやめることは、弱さではありません」


 麻里が、画面の外で小さく息を吸った。


 予定では、ここで麻里の一言を入れることになっていた。


 だが、麻里はほんの少しだけ早かった。


 麻里「帰るの、勝ち」


 録画中の面談室に、短い言葉が落ちた。


 九条は、一瞬だけ黙った。


 璃子は止めない。


 七瀬も動かない。


 三枝もペンを止めなかった。


 九条「今の一言が、たぶん一番分かりやすいです」


 麻里が画面の外で、小さく拳を握った気配がした。


 九条「戻る判断を、残してください。できれば、複数の方法で。紙、音声、画像、信頼できる人への連絡。可能なら、管理機関へ相談してください」


 璃子が、カメラの外から言った。


 璃子「ひとりで証明しようとしないでください」


 九条「そうです。ひとりで証明しようとしないでください」


 録画はそこで止まった。


 長くない。


 派手でもない。


 たぶん、動画としては地味だ。


 だが、今回はそれでいい。


 璃子は編集を始めた。


 危険箇所につながる情報を削る。


 事故記録の固有部分を伏せる。


 九条の長い間を詰める。


 九条「今の間は必要では」


 璃子「不要です」


 九条「感情の余白だ」


 璃子「視聴維持率の敵です」


 九条「現実が強い」


 麻里「璃子ちゃん、強い」


 璃子「強くはありません。必要なところだけ残しているだけです」


 三枝「行政文書と同じですね」


 璃子「そこまで硬くはしたくありません」


 七瀬「でも、意味を曲げない編集です」


 璃子の手が、少しだけ止まった。


 それから、画面の末尾カードを作る。


 黒い背景。


 白い文字。


『撮影・編集・記録:R』


 九条は、それを見た。


 九条「実名は出さないんだな」


 璃子「出しません」


 麻里「R」


 璃子「それで十分です」


 麻里「Rは、いる?」


 璃子は一瞬だけ黙った。


 それから、はっきり言った。


 璃子「います」


 九条は何も言わなかった。


 以前、世界は璃子を固定カメラと自動処理に置き換えた。


 記録なし、にした。


 今、璃子は自分の名前を隠したまま、存在だけを残す。


 名前ではなく、役割。


 役割ではなく、人。


 その両方の間に、小さなRが残る。


 九条「消えたら?」


 璃子「また残します」


 三枝「こちらでも紙に残します」


 麻里「私も書く」


 七瀬「私も確認します」


 九条は少しだけ笑った。


 九条「Rに対する過保護がすごい」


 璃子「必要です」


 麻里「Rは、いる」


 今度は、誰も否定しなかった。


     *


 動画のタイトルは、璃子がほとんど迷わず決めた。


『危険を感じたら、戻ってください。これは攻略ではなく、証明です』


 九条「長くないか」


 璃子「長いですが、削りません」


 九条「ぼくの説明は削ったのに」


 璃子「タイトルは残すところです」


 麻里「サムネイルは?」


 璃子は白い紙に、黒い文字を置いた。


『戻ってください』


 その下に小さく。


『帰るの、勝ち』


 麻里「入った」


 璃子「入れました」


 三枝「管理局の公式文にはできませんが、動画としては伝わります」


 麻里「行政だと何になるの?」


 三枝「危険認識に基づく撤退判断は、適切な安全行動です」


 麻里「かたい」


 九条「でも、意味は同じだ」


 七瀬「現場では、どちらも必要です」


 公開前に、三枝が内容を確認した。


 危険箇所の特定につながる情報なし。


 未公開の事故記録なし。


 個人名なし。


 復元を促す表現なし。


 三枝は紙台帳に時刻を書いた。


 三枝「管理局として、公開に反対しません」


 九条「賛成ではないんですね」


 三枝「行政は慎重です」


 璃子「十分です」


 七瀬も動画を最後まで見た。


 九条「危ないところはありますか」


 七瀬「ありません」


 九条「では」


 七瀬「良い撤退です」


 その一言で、九条の肩から少しだけ力が抜けた。


 璃子が公開ボタンにカーソルを合わせる。


 画面には、いつもの確認が出る。


『この動画を公開しますか?』


 麻里が布袋を抱える。


 三枝が紙台帳に時刻を書く。


 七瀬が出入口を見る。


 九条は万年筆を机に置いた。


 今日は証明しない。


 もう証明した。


 ここから先は、九条一人の証明ではない。


 璃子「公開します」


 クリック音。


 画面が切り替わる。


『公開しました』


 誰もすぐには喋らなかった。


 世界は揺れない。


 壁も消えない。


 赤いベンチも現れない。


 半年前のQ.E.D.も、ここには開かない。


 ただ、Q.E.D.チャンネルに一本の動画が増えた。


 それだけだった。


 それだけで、十分だった。


 九条の視界右下に、薄い緑色の文字が浮かぶ。


『外部観測:接続待機』


『撤退判断保存:公開観測へ移行』


『復元処理:未実施』


『境界記録:閉鎖継続』


『記録者識別:R』


 九条は読み上げた。


 璃子の手が止まる。


 璃子「R」


 九条「ああ。残っている」


 麻里「R、いる」


 三枝「記録します」


 七瀬「良いです」


 九条は画面を見た。


 再生数はまだ一桁。


 コメントはない。


 それでも、世界の表示は変わった。


 外部観測へ移行。


 つまり、これからだ。


     *


 最初のコメントは、公開から十三分後についた。


 投稿者名は普通だった。


 アイコンもある。


 空欄ではない。


 コメント本文は短い。


『今日、第一階層で怖くなって戻りました。受付の記録票に撤退って書きました。さっき見ても消えていません』


 麻里が固まった。


 麻里「消えてない」


 璃子はすぐにスクリーンショットを撮った。


 九条「早い」


 璃子「消えるかもしれないので」


 三枝「良い判断です」


 二つ目のコメント。


『低層で戻ったら大げさって言われたけど、帰りました。紙に撤退って書いた。今も撤退のままです』


 三つ目。


『前に“少し休憩”って処理されてた記録、今日見たら横に“撤退判断の可能性”って出ていました。意味は分からないけど、少し安心しました』


 四つ目。


『怖いと思ったのに無理して進むところでした。動画を見て戻りました。生きています』


 五つ目。


『撤退って書いた。消えていない。ありがとう』


 麻里が布袋を抱きしめた。


 麻里「みんな、帰ってる」


 九条「そうだな」


 麻里「このコメント、空欄さん?」


 九条「違う」


 璃子「普通の視聴者です。少なくとも、表示上は」


 麻里「じゃあ、誰?」


 九条はコメント欄を見た。


 知らない名前。


 知らない場所。


 知らない声。


 それでも、それぞれが「戻った」と言っている。


 九条「各地の探索者だ」


 麻里「知らない人?」


 九条「ああ。知らない人たちだ」


 麻里「でも、残してる」


 九条「それが外部観測だ」


 璃子「九条先輩だけの証明ではなくなった、ということです」


 三枝「管理局だけの記録でもありません」


 七瀬「現場で戻った人の判断です」


 麻里は画面をじっと見ていた。


 コメントは、少しずつ増えていく。


 中には軽いものもある。


 冗談もある。


 たぶん勘違いも混じる。


 それでも、そこに「戻った」という言葉が残る。


 九条の視界に表示が重なる。


『外部観測者:増加』


『撤退判断保存:公開観測中』


『弱化処理:完全実行不可』


『標識化:第三者可視』


『対象語句:戻る/撤退/やめる/進まない』


 九条「効いている」


 璃子「完全に止まったわけではない?」


 九条「ああ。弱化処理は残っている。ただし、完全には実行できない」


 三枝「つまり、変えようとした痕跡が見える」


 九条「そういうことです」


 麻里「じゃあ、戻るの勝ち?」


 九条「勝ちというより」


 麻里「負けにしなかった?」


 九条は少しだけ笑った。


 九条「ああ。負けにしなかった」


 その時だった。


 管理画面の右上に、通知が一つ出た。


 コメント。


 投稿者名は空欄。


 アイコンもない。


 璃子の指が止まる。


 麻里の表情が変わる。


 七瀬が一歩、画面の見える位置へ移動した。


 三枝はペンを持ち直した。


 九条は通知を見た。


 本文は、一行だった。


『この証明は、誰のものとして残る?』


 部屋の空気が、昔に戻った。


 一本目の動画。


 非公開状態。


 公開前のコメント。


『この証明、誰に教わった?』


 九条は、あの時の寒さを覚えている。


 相手が動画を見たのではないこと。


 証明そのものに反応していたこと。


 出所を聞いていたこと。


 今、同じ空欄が、別の問いを出している。


 璃子「返信しますか」


 九条「しない」


 麻里「なんで?」


 九条「相手が、コメントを書いている人間とは限らない」


 三枝「発生源を確認できますか」


 璃子「通常ログには残っていません。公開コメント欄にも表示されていません。管理画面の通知欄だけです」


 七瀬「前と同じですね」


 九条は画面を見た。


 視界の端に、薄い緑色の文字が浮かぶ。


『通知形式:コメント欄借用』


『投稿者実体:未確定』


『個人識別:不可』


『境界残存命題:一部』


『半年前のQ.E.D.:接続候補』


『証明の残り:未完了』


 九条は、読み上げた。


 麻里「人じゃないの?」


 九条「人かもしれない。だが、普通の意味でコメントを書いている人ではない」


 璃子「境界残存命題」


 三枝「証明の残り」


 七瀬「半年前の壁ですね」


 九条は頷いた。


 半年前、崩れた壁の奥にあった緑色のQ.E.D.


 読めなかった式。


 斬れなかった壁。


 救助継続中。


 未帰還者。


 空欄通知。


 それらは、ばらばらではなかった。


 誰かが書いたコメントではない。


 誰かが途中まで残した証明が、コメント欄という形を借りて、九条に届いていた。


 そう考えると、最初の問いの意味が少し変わる。


 この証明、誰に教わった?


 あれは、教師を探す問いではなかったのかもしれない。


 九条が自分の証明だと思っているものが、誰の途中から始まったのかを問うていた。


 九条「誰かが、途中まで証明していたのかもしれない」


 麻里「誰かって、未帰還の人?」


 九条「可能性はある」


 麻里「戻れなかった?」


 九条「可能性はある」


 璃子「証明しますか」


 九条は、すぐに首を振った。


 九条「しない」


 璃子は、ほんの少しだけ息を吐いた。


 止める前に、九条が止まった。


 そのことを、璃子はたぶん記録している。


 九条「ここで証明すると、半年前の境界を開くことになる。未帰還者が誰か、空欄通知が何か、九条真がどこまで戻ったのか。全部、一つの命題に入ってしまう」


 三枝「第008項の制限を超えます」


 七瀬「危険です」


 麻里「開けない?」


 九条「ああ。開けない」


 麻里「でも、放っておくの?」


 九条「放っておかない。戻る判断だけは守る」


 九条は万年筆を手に取った。


 璃子が身構える。


 麻里も布袋を抱える。


 七瀬が扉を見る。


 三枝が紙を開く。


 九条は、証明を書かなかった。


 代わりに、ノートへ短く記録した。


『空欄通知は、個人コメントとは限らない。』


『半年前のQ.E.D.に残された未完了命題の可能性。』


『現時点で証明しない。』


『理由:復元範囲が制御できない。』


 文字は消えなかった。


 空欄通知も、すぐには消えなかった。


 ただ、本文が薄くなる。


『この証明は、誰のものとして残る?』


 その下に、もう一行だけ増えた。


『戻った者だけでなく、戻れなかった者のために。』


 麻里が小さく息を吸った。


 璃子は、画面を保存した。


 三枝は紙へ写した。


 七瀬は何も言わなかった。


 九条は、通知を見ていた。


 返信はしない。


 名前も付けない。


 空欄のまま残す。


 それが今できる、ぎりぎりの扱いだった。


 数秒後、通知は消えた。


 だが、今度は完全には消えなかった。


 管理画面の通知履歴に、一行だけ残る。


『空欄通知:撤退判断保存に関連する未照合通知』


 璃子「残りました」


 九条「ああ」


 三枝「表現は変わっていますが、空欄だったことは残っています」


 九条「それでいい」


 麻里「空欄さん、名前ないまま?」


 九条「まだない」


 麻里「いつか付ける?」


 九条「必要になったらな」


 七瀬「今は、追わない方がいい」


 麻里は少し考えて、頷いた。


 麻里「じゃあ、今は帰る方」


 九条「ああ。今は帰る方だ」


     *


 その後、コメント欄は少しずつ変わった。


『戻った』


『撤退って書いた』


『消えていない』


 そういう短い報告が増えた。


 場所を書こうとするコメントは、璃子がすぐに伏せた。


 危険な誘導になるものは、固定コメントで止めた。


 管理局へ相談したという報告も混じり始めた。


 三枝の端末にも、各地の管理機関から照会が入り始める。


 三枝「問い合わせが増えています」


 九条「すみません」


 三枝「謝ることではありません。必要な問い合わせです」


 麻里「仕事、増えた?」


 三枝「増えました」


 麻里「ごめんなさい」


 三枝「必要な仕事です」


 璃子「その言い方、強いですね」


 三枝「強くはありません。整理しているだけです」


 七瀬「現場にも効果は出ます。撤退を言いやすくなる」


 九条「七瀬さんでも、撤退は言いにくいんですか」


 七瀬は少しだけ黙った。


 七瀬「言いにくい時はあります。強い者が撤退を言うと、周囲は理由を探します」


 九条「勝てないからではないのに」


 七瀬「はい。危険だから戻る。それだけで十分な時があります」


 麻里「世界三位でも帰る?」


 七瀬「帰ります」


 麻里「じゃあ、みんな帰っていいね」


 七瀬「はい」


 麻里は、少しだけ嬉しそうに頷いた。


 その時、九条の視界に、また表示が出た。


『現場安全判断者:有効』


『公的記録:外部接続済』


『記録者識別:R』


『未定義変数:同行中』


『空欄通知:未照合のまま保持』


『未帰還者記録:復元対象外』


『撤退判断保存:公開観測中』


 九条は、読み上げた。


 璃子が記録する。


 麻里が自分のところで「同行中」と書く。


 三枝が「公的記録:外部接続済」を紙台帳へ写す。


 七瀬は「現場安全判断者:有効」のところで、ほんの少しだけ目を伏せた。


 九条「全部は解決していない」


 璃子「はい」


 九条「赤いベンチも、休憩室も、未帰還者も、半年前のQ.E.D.も、残っている」


 麻里「でも、戻るのは消えない?」


 九条「消えにくくなった」


 麻里「消えない、じゃないの?」


 九条「断定しない方がいい」


 璃子「でも、前よりは残せます」


 三枝「公的記録にも、撤退判断を弱めない扱いを追加します」


 七瀬「現場でも言います。撤退は負けではないと」


 麻里「私は?」


 九条「君は、いる」


 麻里「いるだけ?」


 璃子「それが重要です」


 九条「世界が閉じた式にしようとした場所に、君が人としている。単独条件ではなく、同行者として」


 麻里「難しい」


 九条「簡単に言うと、君を道具にしない」


 麻里「それなら分かる」


 九条「分かるのか」


 麻里「大事にされてるってこと」


 九条は少しだけ黙った。


 それから頷いた。


 九条「ああ。そういうことだ」


 麻里は、布袋を抱えたまま笑った。


 ふわふわした笑い方だった。


 だが、その中に、前より少しだけ芯がある。


     *


 夕方。


 管理局の面談室を出る前に、璃子は最後の確認をした。


 動画の末尾。


 黒い画面。


 白い文字。


『撮影・編集・記録:R』


 残っている。


 固定カメラにも、自動処理にも、記録なしにも変わっていない。


 璃子「残っています」


 麻里「R、勝ち」


 璃子「勝ちではありません」


 九条「負けにしなかった」


 璃子は少しだけ九条を見た。


 それから、短く言った。


 璃子「採用しすぎましたね」


 九条「ぼくの言葉が返ってきた」


 三枝「本日の確認は、ここまでにしましょう」


 麻里「帰る?」


 七瀬「帰ります」


 麻里「世界三位が言った」


 九条「では帰ろう」


 麻里「帰るの、勝ち」


 三枝「管理局としては、適切な撤退行動です」


 麻里「かたい勝ち」


 璃子「新しい言葉を作らないでください」


 廊下に出ると、自動販売機が明るかった。


 麻里が立ち止まる。


 麻里「甘い現実、買っていい?」


 九条「一本だけだ」


 三枝「経費にはできません」


 麻里「行政、最後まで厳しい」


 璃子「そこは変わりません」


 七瀬「私は水にします」


 九条「世界三位が現実的だ」


 七瀬「現場では水です」


 麻里「私は甘い現実」


 麻里は缶のカフェオレを買った。


 取り出し口から缶が落ちる音が、妙に明るく響いた。


 九条はそれを聞いていた。


 半年前の崩落音ではない。


 管理局の廊下にある、自動販売機の音だ。


 今、ここにいる音。


 九条は小さく息を吐いた。


 璃子「先輩」


 九条「何だ」


 璃子「現在地」


 九条「和歌山県ダンジョン安全管理局。地下二階廊下。午後五時二十六分。同行者、璃子、麻里、七瀬さん、三枝さん」


 麻里「甘い現実、一本」


 三枝「それは記録不要です」


 九条「ぼくは、帰っている」


 璃子「はい」


 麻里「帰ってる」


 七瀬「帰っています」


 三枝「記録します」


 九条は、少しだけ笑った。


 記録されることが、こんなに安心できる日が来るとは思わなかった。


     *


 夜。


 鳳明塾和歌山校。


 九条真は、黒板の前に立っていた。


 高校二年生、数学Ⅲ。


 議題はε-δ論法。


 受験生にとっては悪夢。


 数学教師にとっては、ご褒美の時間である。


 生徒1「先生、今日ちょっと機嫌よくないですか」


 九条「そう見えるか」


 生徒2「いつもより黒板の字が読めます」


 九条「それは機嫌ではなく、努力の成果だ」


 生徒1「先生が努力した」


 生徒2「歴史的瞬間ですね」


 九条「数学より失礼な発言が飛んでくる授業だな」


 教室に小さな笑いが起きた。


 九条はチョークを持つ。


 黒板に書く。


『任意のε > 0 に対して、あるδ > 0 が存在し――』


 そこで、視界の端に薄い緑色の文字が浮かんだ。


『公理R-1』


『連続性基底命題』


『局所的変化は許容範囲内において連続である』


 初めて見た時と同じ表示。


 だが、続きがあった。


『注記:人間の判断は、単なる状態変化ではない』


『撤退判断保存:公開観測中』


『進行方向の一方化:制限』


『未解決境界:保持』


 九条は、ほんの少しだけ眉を上げた。


 雑だ。


 相変わらず、定義は雑だ。


 だが、前よりは少しだけましだった。


 九条「……雑だが、改善はある」


 教室が静かになる。


 生徒1「先生、また塾長の怨念ですか」


 生徒2「前にもそんなこと言ってましたよね」


 九条「怨念ではない」


 生徒1「じゃあ何ですか」


 九条「戻る判断だ」


 生徒2「数学ですか?」


 九条「数学だ」


 生徒1「絶対違うやつだ」


 九条は黒板にδを書いた。


 小さく、しかしはっきりと。


 九条「連続であるとは、ただ進み続けることではない。ある範囲の中で、どこまで近づいてよいかを決めることだ」


 生徒2「急にいいこと言ってる」


 生徒1「先生、何かありました?」


 九条は少しだけ考えた。


 説明しすぎない。


 でも、なかったことにはしない。


 九条「何かは、あった」


 生徒たちが顔を見合わせる。


 九条「だが、今は授業だ」


 生徒1「戻る判断って何ですか」


 九条「危ないと思ったら、戻っていいということだ」


 生徒2「それ、数学ですか?」


 九条「人生にも数学にも必要な考え方だ」


 生徒1「先生、たまにまともですね」


 九条「たまにを消してくれ」


 生徒2「検討します」


 九条「行政みたいな返事をするな」


 教室に笑いが起きた。


 九条は黒板に向き直った。


 緑色の文字は、まだそこにある。


 ただし、今日はもう怖くない。


 読める。


 間違っていれば、指摘できる。


 証明できる。


 証明しないこともできる。


 戻ることもできる。


 九条はチョークを走らせた。


 その時、黒板の端に、誰にも見えない薄い緑色の文字が浮かんだ。


『この証明は、誰のものとして残る?』


 九条は手を止めた。


 空欄通知と同じ文。


 だが、今度はコメント欄ではない。


 黒板の端。


 授業中。


 世界の公理の余白。


 九条は、少しだけ考えた。


 そして、チョークで黒板の端に小さく書いた。


『戻った人と、戻れなかった人のために。』


 生徒1「先生、今の何ですか」


 九条「余談だ」


 生徒2「黒板に余談を書かないでください」


 九条「すまない」


 九条は消さなかった。


 授業の邪魔にはならない端に、そのまま残した。


 すると、緑色の文字が一度だけ揺れた。


『発話確認』


『復元要求:なし』


『撤退判断保存:継続』


『未照合境界:保持』


 そして最後に、三文字が出た。


『Q.E.D.』


 九条は小さく息を吐いた。


 世界の定義は、まだ雑だ。


 赤いベンチも、消えた休憩室も、未帰還者も、半年前のQ.E.D.も、完全には戻っていない。


 空欄通知の正体も、名前も、まだない。


 だが、戻る判断は消えていない。


 少なくとも、今この瞬間は。


 だから九条は、いつものように授業を続けた。


 九条「では、証明する」


 生徒1「今度こそ数学ですよね」


 九条「もちろんだ」


 生徒2「信用していいんですか」


 九条「証明で確認してくれ」


 教室に、もう一度笑いが起きた。


 九条は黒板に向き直る。


 チョークの白い線が、緑色の文字の下をまっすぐ走った。


 世界はまだ雑だ。


 けれど、雑な世界にも、少しだけ余白ができた。


 戻るための余白。


 やめるための余白。


 誰かが怖いと言える余白。


 そして、誰かがそれを記録できる余白。


 九条真は、その余白に証明を書いた。


 ――最終話 了。

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