第十話 赤いベンチは、誰の記憶だったのか
柿の葉寿司は、証拠保全のあとに食べるものになった。
九条真は、その事実を受け入れられずにいた。
九条「生還後の予約だったはずだ」
璃子「生還後です」
九条「では食べてもいいのでは」
璃子「データ送信後です」
麻里「柿の葉寿司、待機中」
九条「寿司にまで待機を強いるな」
和歌山へ戻ったのは、夕方だった。
九条の部屋ではなく、和歌山県ダンジョン安全管理局の面談室。
机の上には、璃子のノートパソコン、外付けSSD、紙の記録、麻里の布袋、そして封を切られていない柿の葉寿司が置かれている。
布袋の中には、赤いベンチの輪郭だけをかすかなノイズとして残したUSBメモリが入っていた。
麻里命名、記録ちゃん。
三枝羊子は、柿の葉寿司を見て、少しだけ眉を動かした。
三枝「食事を持ち込む場合は、事前申請が必要です」
九条「証拠保全より厳しいですね」
三枝「匂いが残りますので」
麻里「柿の葉の匂いはいい匂いだよ」
三枝「良い匂いでも、記録室には残さない方がいいです」
璃子「麻里、あとで食べましょう」
麻里「記録ちゃんもあとで?」
璃子「USBメモリは食べません」
麻里「知ってる」
九条「今の返事は、本当に知っている人間のものだったか?」
麻里「ちょっとだけ確認した」
璃子「何をですか」
麻里「食べないこと」
九条「確認方法を聞きたくない」
三枝は淡々とした顔で、璃子の提出データを確認していた。
奈良での映像は、ほとんど白飛びしていた。
音声は途切れている。
紙のメモは残っている。
スマートフォンの静止画は赤いノイズだけ。
そして、記録ちゃんには赤いベンチの輪郭だけが残った。
三枝「不完全ですが、残っています」
璃子「はい」
三枝「完全な証拠とは言えません」
九条「でも、ゼロではない」
三枝「そこが重要です」
三枝はUSBメモリを複製し、二つの封筒に入れた。
片方には管理局の封印。
もう片方には、璃子の署名。
三枝「一つはこちらで保全します。もう一つは天野さんが持っていてください」
璃子「私が?」
三枝「はい。こちらの記録だけが正しいとは限りません」
その一言で、部屋の空気が少し変わった。
行政側の人間が、行政記録だけを信じないと言っている。
それは、三枝の立場では相当危うい言葉だった。
九条「三枝さん」
三枝「はい」
九条「それ、録音しておいた方がよかったですか」
三枝「録音されると困る言い方をした自覚はあります」
璃子「それでも言うんですね」
三枝「必要なので」
麻里「三枝さん、強い」
三枝「強くはありません。書類を増やしているだけです」
九条「行政の戦闘方法ですね」
三枝「そうです」
三枝は璃子のノートパソコンへ視線を戻した。
璃子は、保存したコメントの画面録画を開いていた。
消えた投稿。
その本文。
返信欄。
投稿者名は今も確認できない。
正確には、投稿者ページへ飛ぼうとすると、存在しないユーザーとして処理される。
しかし、返信欄に残っていた一つのユーザー名だけは違った。
璃子「この人です」
画面には、短い返信が映っている。
『私も覚えてる。赤いベンチのところで、奈央が泣いてた』
九条「赤いベンチ」
麻里「奈央さん?」
璃子「投稿者本人か、同行者かは分かりません。ただ、この返信をした人のアカウントは、まだ残っています」
三枝「連絡は?」
璃子「しました。こちらの身元と、管理局へ共有する可能性も説明したうえで。さっき返信が来ました」
九条「行動が早いな」
璃子「消えるかもしれないので」
その言葉は短かった。
だが、以前より重かった。
九条は何も言わなかった。
代わりに、麻里が小さく言った。
麻里「璃子ちゃん、また見逃さなかった」
璃子は少しだけ目を伏せた。
璃子「たまたまです」
九条「たまたまを繰り返せるなら、それは能力だ」
璃子「先輩に能力と言われると、少し嫌です」
九条「なぜだ」
璃子「だいたい危険な方向へ進むので」
九条「否定できない」
三枝はタブレットを置いた。
三枝「相手の方は、通話に応じるそうです。ただし、名前と顔は出さない条件です」
璃子「音声だけで構いません」
麻里「怖がってる?」
三枝「おそらく」
九条「当然でしょう。覚えているはずの場所が消え、覚えているはずの友人が覚えていないと言っている」
麻里は布袋を抱きしめた。
麻里「それ、やだね」
九条「ああ」
短い沈黙のあと、通話がつながった。
画面は黒いまま。
スピーカーから、若い女性の声が聞こえた。
『……聞こえますか』
璃子「はい。天野です。こちらには九条、朝倉、管理局の三枝主任がいます。録音してもいいですか」
『はい。でも、名前は』
璃子「出しません」
三枝「管理局内の確認資料として扱います。外部公開はしません」
『お願いします』
声は震えていた。
無理もない。
自分の記憶だけが、世界の現行記録から外れている。
それを誰かに話すだけでも、十分怖いはずだった。
璃子「まず、あなたが返信に書いた『赤いベンチ』について確認させてください」
通話の向こうで、息を吸う音がした。
『ありました。赤いベンチ。古い休憩室で、壁際に二つ。片方は座ると少し沈みました』
麻里「沈むベンチ」
九条「麻里、今は聞く」
麻里は口を閉じた。
璃子「その休憩室へ行ったのは、いつですか」
『一か月くらい前です。吉野上市の第一階層で、奈央と一緒でした』
璃子「奈央さんは、昨日投稿した方ですか」
『はい。投稿したのは奈央です。でも、今は本人が覚えていません』
九条の指が止まった。
璃子も、わずかに表情を硬くした。
三枝はペンを動かし続けている。
三枝「覚えていない、というのは」
『休憩室のことも、投稿のことも、写真のこともです。私が画面録画の話をしたら、そんな怖い冗談やめてって』
麻里「冗談じゃないのに」
『はい』
声が小さくなった。
『でも、私もだんだん怖くなってきて。自分が間違ってるのかなって思って。だって、地図にもないし、写真もないし、奈央も覚えてないし』
璃子「あなたは、なぜ覚えていると思いますか」
『分かりません。でも、あの日の奈央の顔だけは、忘れられないんです』
九条は顔を上げた。
赤いベンチ。
泣いていた誰か。
奈良の壁に一瞬だけ重なった休憩室の光景が、通話の声と結びついていく。
璃子「奈央さんは、そこで何を?」
通話の向こうが、少し静かになった。
それから、女性は言った。
『泣いてました』
麻里の手に力が入った。
『探索をやめたいって言ってました。もう無理だって。低層だから大丈夫ってみんな言うけど、怖いものは怖いって』
九条は目を閉じた。
低層。
安全。
初心者向け。
そういう言葉は、時々人を追い詰める。
怖いと言えない場所を作る。
『奈央、お金が必要で潜ってたんです。家のこととか、弟さんのこととか、詳しくは言えませんけど。でも、あの休憩室で言ったんです。もうやめるって。私も、それでいいと思いました』
璃子のペンが止まった。
麻里は、布袋を胸に抱いたまま動かない。
九条「そのあと、どうなりましたか」
『次の日、奈央は普通に探索の予定を入れてました』
九条「やめる、と言っていたのに?」
『はい。私が止めたら、何の話って。休憩室なんて知らない。泣いてない。やめたいなんて言ってないって』
声が少し崩れた。
『私、あの子が怖くて覚えてないふりをしてるんだと思ったんです。でも違いました。本当に知らない顔でした』
部屋の空気が冷えた。
消えたのは、休憩室だけではない。
写真だけでもない。
投稿だけでもない。
その場所で生まれた決断まで、何かに巻き戻されている。
麻里が、ぽつりと言った。
麻里「やめる場所が、消えたんだ」
誰もすぐには返せなかった。
麻里の言葉は、ふわふわしている時ほど軽い。
けれど、こういう時だけ、世界の中心にまっすぐ刺さる。
九条「……そうかもしれない」
璃子「休憩室は、ただの設備ではなかった」
三枝「退避場所です」
九条「物理的な退避だけじゃない」
九条は、ノートを開いた。
万年筆を持つ。
しかし、命題は書かない。
まだ、証明する段階ではない。
九条「探索をやめる。進まない。戻る。そういう選択をする場所だった」
璃子「それが消された」
三枝「仮説です」
九条「はい。仮説です」
三枝は頷いた。
未確認のものは、未確認として扱う。
だが、なかったことにはしない。
その姿勢が、今はありがたかった。
璃子「その時、休憩室に他の人はいましたか」
『いませんでした。たぶん』
九条「たぶん?」
『誰かの荷物があった気がします。赤いベンチの下に、黒いリュックみたいなものが』
麻里が小さく息を呑んだ。
九条は、奈良で照合された休憩室を思い出した。
赤いベンチ。
壁際の古い掲示板。
非常用ランタンの棚。
そして、見えた直後に現れた、黒い染みのようなもの。
九条「黒いリュック」
『はい。でも、はっきりは覚えていません。荷物だったのか、影だったのか』
璃子「分かりました。断定しない形で記録します」
麻里「……黒い影だった?」
『え?』
麻里「ごめん。なんでもない」
璃子「麻里」
麻里は首を横に振った。
麻里「分からない。今は言わない」
九条は少し驚いた。
言いたいことを、麻里が飲み込んだ。
それだけで成長に見えた。
九条「麻里」
麻里「なあに?」
九条「今の判断は、えらい」
麻里は一瞬だけ目を丸くした。
それから、少しだけ照れた。
麻里「予約なしで褒められた」
九条「たまには即時支払いもある」
璃子「報酬制度みたいにしないでください」
通話の向こうで、女性が小さく笑った。
ほんの少しだけ。
怖がっていた声に、初めて人間らしい温度が戻った。
『すみません。少し安心しました』
九条「こちらこそ。怖い話をしてもらっています」
『いえ。誰かが聞いてくれるだけで、少しましです』
璃子「最後に確認します。奈央さんは今も探索を続けているんですか」
『はい。明後日も入ると言っていました』
三枝のペンが止まった。
璃子「場所は」
『吉野上市です。でも、休憩室があった北西の方には行かないと言ってます。そんな場所ないからって』
九条「存在しないから安全、とは限らないな」
三枝「こちらで奈良県側へ連絡します。個人名は出さず、当該探索者への注意喚起という形にします」
『お願いします。私が言っても、たぶん聞かないので』
三枝「分かりました」
璃子「通話記録はこちらで保全します。あなたの名前は出しません」
『ありがとうございます』
通話が切れた。
面談室には、短い沈黙が残った。
麻里が、そっと布袋を撫でた。
麻里「赤いベンチ、泣く場所だったんだ」
九条「泣いてもいい場所だったのかもしれない」
璃子「探索者が弱音を吐ける場所」
三枝「正式な休憩室であれば、そういう役割もあります」
九条「正式な役割より、大事な使われ方をしていたんでしょうね」
九条はノートに書いた。
『赤いベンチ』
『奈央』
『探索をやめる決断』
『翌日、本人は決断を忘却』
『友人のみ記憶保持』
『記録なし』
『感情の残存履歴』
書いてから、最後の一行に自分で眉をひそめる。
九条「感情の残存履歴、か」
璃子「悪くないと思います」
九条「論文に書いたら怒られそうだ」
璃子「これは論文ではありません」
九条「では何だ」
璃子「現実です」
九条「現実は、論文より査読が厳しいな」
三枝「しかも査読者が名乗りません」
麻里「空欄査読者」
九条「嫌すぎる」
そのとき、璃子のノートパソコンが小さく音を立てた。
自動文字起こしの処理が終わった通知だった。
璃子は画面を確認した。
そして、動きを止めた。
九条「璃子?」
璃子「……おかしいです」
画面には、通話の文字起こしが表示されていた。
璃子が自分で書いたメモには、こうある。
『赤いベンチ。古い休憩室で、壁際に二つ』
だが、自動文字起こしにはこう出ていた。
『灰色の壁。古い通路で、壁際に二つ』
九条「赤いベンチが、灰色の壁に変わっている」
璃子「音声を再生します」
璃子が再生ボタンを押した。
スピーカーから、さっきの声が流れる。
『ありました。赤いベンチ。古い休憩室で、壁際に二つ』
音声は、はっきり赤いベンチと言っていた。
だが、文字起こしは灰色の壁。
もう一度再生する。
音声は赤いベンチ。
文字は灰色の壁。
麻里「記録ちゃん、けんかしてる?」
九条「けんかというより、別々の世界を主張している」
三枝の表情が険しくなった。
三枝「音声、文字起こし、手書きメモ。三つが一致しない」
璃子「音声と手書きは一致しています。自動文字起こしだけが違う」
九条「いや」
九条は画面を見つめた。
自動文字起こしの文字列の上に、薄い緑色の表示が浮かんでいる。
『記録整合処理:軽微』
『対象語句:赤いベンチ』
『置換候補:灰色の壁』
『処理理由:現行構造との不一致』
九条「処理されている」
璃子「何が見えますか」
九条「赤いベンチという語句が、現行構造と合わないから、灰色の壁に置換されている」
麻里「勝手に?」
九条「ああ。勝手に」
麻里「だめじゃん」
九条「かなりだめだ」
九条は万年筆を握った。
視界の右下に、薄い通知が浮かぶ。
『命題候補:観測記録の整合条件』
『条件一部達成』
『複数記録間の不一致を確認』
『追加条件:原記録・転記・現地痕跡の三点照合』
九条「まだ足りないか」
璃子「証明できますか」
九条「条件一部達成。まだ無理だ」
璃子は、ほんの少しだけ息を吐いた。
安心ではない。
落胆でもない。
まだ戦う前に、相手の形が少し見えた時の息だった。
璃子「では、次は三点照合ですね」
九条「現地痕跡が必要になる」
三枝「吉野上市へもう一度行く、という意味ですか」
九条「可能性としては」
三枝「許可は簡単には出せません」
九条「分かっています」
三枝「分かっている人は、そういう顔をしません」
九条「どういう顔ですか」
璃子「問題を見つけて少し楽しそうな顔です」
麻里「真先生、悪い数学顔」
九条「人聞きが悪い」
三枝「ただし、こちらでも奈良県側へ再照会します」
九条「追加照会不要、と言われた相手に?」
三枝「今回は、休憩室の有無ではなく、探索者の安全確認です。切り口を変えます」
璃子「行政戦術」
三枝「言い方はともかく、その通りです」
麻里「三枝さん、役所ダンジョン攻略してる」
三枝「攻略ではありません。迂回です」
九条「ますますダンジョンだ」
三枝は否定しなかった。
その沈黙が、少しだけ面白かった。
けれど、笑っていられる時間は短かった。
璃子のノートパソコンで、もう一つ通知が鳴る。
今度は文字起こしではない。
Q.E.D.チャンネルの管理者用通知欄。
投稿者名は空欄。
アイコンもない。
本文は、一行だけだった。
『赤いベンチを基準点にするな。』
九条は画面を見つめた。
三枝も、璃子も、麻里も黙る。
九条「基準点」
璃子「そこから照合するな、という意味でしょうか」
三枝「あるいは、そこから照合されると困る」
麻里「でも、赤いベンチがあったから分かったんだよ」
九条「ああ」
麻里は布袋を握った。
いつものふわふわした声ではなかった。
麻里「泣いてたことまで、なかったことにするのはだめだよ」
九条は麻里を見た。
その言葉は、たぶん麻里自身にも向いていた。
かつて大学を辞めかけた時。
消えた方がいいかもしれないと笑っていた時。
九条が、その書類を取り上げた時。
誰かがやめたいと言える場所。
泣いてもいい場所。
戻ると決められる場所。
それを消す世界なら。
九条「そうだな」
九条はノートを閉じた。
九条「赤いベンチは、ただのベンチじゃない」
璃子「はい」
九条「誰かが、進むのをやめてもいいと決めた場所だ」
麻里「うん」
九条「なら、そこを基準点にする」
空欄通知は、もう増えなかった。
返事はない。
いつものように。
九条は、ノートの余白に一行だけ書いた。
『消えた場所は、消された選択肢である可能性』
その下に、もう一行。
『次回、記録同士の不一致を照合する』
璃子が横から覗き込んだ。
璃子「次回って、動画タイトルみたいですね」
九条「今のは研究メモだ」
麻里「でもちょっと動画っぽい」
三枝「公開はしないでください」
九条「分かっています」
璃子「本当に?」
九条「今回は本当に」
麻里「柿の葉寿司は?」
九条は、机の上の包みを見た。
冷えている。
最初から冷えているものなのに、さっきより少しだけ遠く感じた。
九条「食べよう」
麻里「いいの?」
九条「ああ。泣いてもいい場所の話をしたあとだ。食べてもいい時間くらい、あっていい」
璃子「先輩、たまに良いことを言いますね」
九条「たまにを外してくれ」
三枝「では、食事は記録室の外でお願いします」
九条「現実がすぐ戻ってくる」
麻里「現実も一緒に食べる?」
三枝「勤務中ですので」
麻里「残念」
璃子はノートパソコンを閉じる前に、もう一度だけ文字起こしを見た。
音声には、赤いベンチ。
手書きにも、赤いベンチ。
自動文字起こしには、灰色の壁。
そして麻里の記録ちゃんには、赤いベンチの輪郭。
記録は残っている。
だが、同じものを残しているとは限らない。
九条はその画面を見て、静かに言った。
九条「記録が残れば勝ち、ではないらしい」
璃子「はい」
麻里「じゃあ、次は?」
九条は万年筆を胸ポケットにしまった。
九条「どの記録が、どこから嘘をつき始めたのかを調べる」
麻里「記録ちゃん、次もお仕事?」
璃子「お仕事です」
麻里「よかったね」
USBメモリは答えない。
けれど、布袋の中で、赤いベンチのノイズだけは消えずに残っていた。
――第十話 了。




