狂気が、星空から降り注ぐ
ずる、ずる、ずる……。
何か重く、粘ついたものが床を擦る音。書斎の扉のすぐ向こうで止まった。俺とネカは、息を殺して身構える。心臓の音が、やけに大きく聞こえた。
一瞬の静寂が、嵐の前の不気味さを伴って廊下を支配する。
びちゃり、と濡れた音と同時に、扉と壁の隙間から、虹色の液体が染み出し始めた。まるで生き物のように脈動し、見る角度によって色が赤や緑、見たこともないような禍々しい紫へと変化する。
「な、なに、あれ…」
ネカが恐怖に引きつった声を出す。
「マナ…、なんとか言って」
俺も驚きのあまり、声が出ない。
次の瞬間、書斎の扉が内側に向かって「溶け落ちた」。
蝶番も錠前も、分厚い木材さえも、虹色の液体に触れた部分がゆっくりと形を失い、崩れていく。扉の向こうにいた「それ」が、ぬるりと姿を現した。
先ほど倒したゼリー状の怪物と同種に見えるが、大きさが三倍はあろうかという巨体。その体内に見えるのは、ネズミの骨どころではない。歪んだ人間の顔、千切れた腕、砕けた眼鏡――それが、悪夢のように体内で渦巻いている。
(…こいつが、メモが途切れた原因か。相当な数を喰ってやがる)
この館を彷徨ううちに、他の怪物を吸収して巨大化した個体。そして、あの体内にあるのは、過去にこの館を調査しに来て、喰われた者たちの成れの果てだろう。
「マナ、あれ、倒せる?」
「…『分解』出来れば可能性はある。だが、近づくのは危険すぎる」
ネカは、焦燥から「ハハハ…」と引き攣った笑みを浮かべた。あの虹色の体は、見ているだけで脳の奥が痺れるような不快感をもたらす。
クトゥルフ因子の汚染が、霧のように俺たちの正気を蝕んでいく。長期戦は悪手だ。
「…行くぞ」
「で、でも、どうやって!? 入口は塞がれてるし…!」
「なら、作るまでだ」
俺は書斎の机にあったインク瓶を拾い、廊下とは反対側の壁に投げつけた。ガチャン、と音を立ててインク瓶が割れ、壁に黒い染みが広がる。壁は、本物だ。
「一か八かだ。少し下がってろ」
因子効果『自動鋼鉄化』を、俺自身の意思で能動的に発動させる。
全身の筋肉が、皮膚が、骨が、一瞬にして鋼鉄へと変わる感覚。凄まじい負荷と高揚感が、同時に全身を駆け巡った。
「おおおおおおっ!」
雄叫びと共に、俺は鋼鉄の塊と化した自らの体を、壁に向かって撃ち出した。
轟音。分厚い壁が、俺のタックルによって粉々に砕け散る。
「すっご…」
ネカが唖然と見ている。
飛び込んだ先は、隣の使用人室か何かだろうか。書斎とは違い、ベッドとタンスだけが置かれた簡素な部屋だった。
「ネカ、こっちだ!」
「う、うん…!」
壁に空いた穴から、すぐにネカを呼び寄せる。俺たちは、すぐさま使用人室の扉に駆け寄り、外へ飛び出した。
そこはループしていた廊下ではなく、高い吹き抜けを持つ広大な空間――玄関ホールだった。目の前には、二階へと続く古びた螺旋階段が見える。
「よし、出られた…!」
背後では、俺たちが立てた音に気づいた巨体が、書斎の中で蠢く気配がした。俺たちは、すぐさま螺旋階段を駆け上がった。
二階のフロアは、中心に吹き抜けがある、回廊のような構造になっていた。
「待って、ハァ…ハァ…」
ネカが、壁に手をついて肩で息をする。
「…すまん、もう少しだけ頑張ってくれ。いずれ追いつかれる。『青の応接室』を探すぞ」
俺たちは、探索を再開した。二階は一階よりもさらに歪みが酷いのか、床が奇妙に傾いていたり、遠近感が狂って見える窓があったりと、歩くだけで精神がすり減っていく。
「マナ、あれかな…!」
ネカの声に、彼女が指差す先を見る。無数に並ぶ扉の中で、一つだけ青い塗料で縁取られた豪奢な扉があった。表札には、掠れた文字で『青』と書かれている。
「ナイスだ、ネカ。」
扉を開けると、中は、その名の通り、全てが青で統一された美しい応接室だった。だが、その中央には、血のような赤い魔法陣が描かれている。
そして、その魔法陣のすぐ側。大きなソファの陰に、一人の男が倒れていた。
「大丈夫か!」
俺が駆け寄ってその肩を揺する。彼の胸ポケットから、ギルドの紋章が刻まれた革の身分証が覗いていた。
「…カーター。あんたが先行調査員か」
「…見ては、いけない…星の、色を…マーロウは、扉を、開けてしまった…」
「しっかりしろ!」
俺が頬を軽く叩くと、男はうっすらと目を開けた。
「…ああ、君たちも、ギルドからか…? 手を貸してくれ、時間がないんだ」
彼は助かったことに安堵するでもなく、ただひたすらに焦っていた。
「何があった。この魔法陣は何だ」
「…マーロウの日記を、解読した。全ての元凶は、彼が呼び寄せてしまった『星の彩(※)』だ。彼はただの天文学者だったが。宇宙の深淵に潜む『古き神-《エルダーゴッド》』を崇拝する、狂信者と化してしまった…」
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※『星の彩-《ほしのいろ》』
クトゥルフ神話に登場する、ガスのような生命体。宇宙から飛来し、土地や生物を汚染しながら、その生命力を吸い尽くす。物理的な攻撃は一切通用しないとされる。
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彼は、ぜえぜえと息をしながら、部屋の天井を指差した。
「この部屋の真上が、天文台だ…。彼は望遠鏡を使って、この世界と『外なる宇宙-《そとなるうちゅう》』を繋ぐ扉を開いた。この魔法陣は、その扉を固定するためのものだ。…そして、今夜…星辰が正しい位置に来る刻…扉は完全に開き、この一帯は『彩』に飲み込まれ、『神』を呼び込むだろう…!」
その言葉と同時に、館全体が大きく揺れた。窓の外の霧が、不気味な虹色に輝き始める。タイムリミットが刻一刻と迫っているのを、肌で感じた。
「止める方法はないのか!」
俺は男の体を抱きかかえるが、その体は枯れ枝のように軽かった。
「扉を内側から閉じることだ。『楔』を破壊し、この魔法陣の力を弱める…」
彼はそこで一度言葉を切り、悔しそうに顔を歪めた。
「『太陽系儀』と『鳴り止まぬピアノ』…二つまでは、私が破壊した…。だが…!」
彼は自らの胸のあたりを抑える。服の下が、じっとりと血で滲んでいた。
「最後の楔…地下の貯蔵庫の『血を啜る祭壇』へ向かう前に、待ち伏せしていたマーロウに不意を突かれた…。彼は完全に正気を失い、化け物になっていた…。楔を破壊しない限り、災厄が訪れる…!」
「…そうか。なら、話は早い」
俺は彼をソファにそっと寝かせ、立ち上がる。
「あんたはここで待ってろ。」
「マナ…?」
ネカが、不安そうな顔で俺を見る。俺は彼女の目を見て、力強く頷いた。
「ネカ、聞いた通りだ。やることは1つ。地下の祭壇をぶっ壊す。時間がない。行くぞ」
「行こう!」
ネカの瞳から、恐怖の色が消えていた。目的が明確になり、彼女もまた戦士として覚悟を決めたのだ。
「俺の能力は『分解』。ネカの能力は『吸収』。それに『因子装備』がある」
俺は右手のガントレットを構え、言った。
「――今の俺たちなら、やれるさ」
「…うん!」
ネカが、こくりと頷いた。
「よし。仕上げに行こうか」
俺は館の地図を拾い上げ、扉へと向かう。
目指すは、地下貯蔵庫。
呼応するように、館が呻いた。
(第9話 終わり)




