その少女を渡せ
一触即発の火薬庫と化した診療所で、全ての視線が、三つの勢力の中心で、ただ一人、飄々と立つ男…ドクター・ヘルメスに注がれていた。
「…なんだぁ、てめえ。今、なんつった?」
ダゴンが、ドスの効いた声で凄む。
「いやなに、せっかくの談合中、悪いと思ってね。だが、そろそろ店じまいの時間なんで、皆さん、お引き取り願おうかと」
ヘルメスの言葉に、アイリスが、初めて感情の色…冷たい侮蔑を、その瞳に浮かべた。
「事情も知らないのに、随分と余裕じゃないか――」
先ほどのダゴンの襲撃で棚から転がり落ちたラジオが、アイリスの言葉を遮るように、ノイズ混じりの音声を流し始めた。
『――ザザ…ビー…続いてのニュースです。昨夜未明、クロスロード郊外の山中に、所属不明の物体が落下したと見られ、現在、政府と教会の合同調査団が、周辺一帯を厳重に封鎖し、調査を行なっています。落下物は…』
アイリスが少し反応した変化を見逃さず、ヘルメスは、ニュースに気づかせるように、わざとらしくラジオに目をやった。
「おや。追いかけている理由は、これかい?」
ヘルメスの言葉に、アイリスは答えなかった。だが、その沈黙こそが、答えだった。
彼は、やれやれと肩をすくめると、懐から、古びた銀色のコインを一枚、取り出した。
「…まあ、長話は無用だ。私には関係ない話だ。――出ていかないのならコインの裏表で、決めるとしようじゃないか」
「「は?」」
ダゴンとアイリスの声が、綺麗にハモった。
「表が出たら、あんたたちは出ていき、私は今日のことは忘れる。裏が出たら…まあ、その時は、好きにするがいいさ」
あまりに馬鹿げた提案。だが、ヘルメスの瞳は、笑っていなかった。
隠し部屋の闇の中、俺とネカは息を呑んだ。ドクターの奴、何を考えてやがる。
「…面白い」
最初に口を開いたのは、アイリスだった。
「いいだろう、情報屋。そのふざけた賭け、乗ってやる。だが、どうやって公平性を担保する?」
「簡単なことさ、私は弾く以外何も触らない」
ヘルメスは、コインを親指で高く弾いた。
回転しながら宙を舞う、銀色のコイン。
しかし、ダゴンが即座にコインを床に叩きつけ、裏のまま床にめり込む。
「これで裏だな、好きに調べるぞ」
ダゴンが、勝利を確信して、下卑た笑みを浮かべる。
だが、ヘルメスは、動じなかった。
彼は、心底うんざりしたように、一つだけ、短くため息をついた。
「…やれやれ。野蛮なのは、どうにも好きになれないな」
ヘルメスが、パチン、と指を鳴らす。
「因子!ケリュケイオン―夜のとばり」
次の瞬間、彼の足元から音も匂いもない、純粋な闇が爆発的に発生した。
それは、ただの煙幕ではなかった。光さえも飲み込むような、絶対的な暗闇。一瞬で部屋全体が、視界ゼロの空間へと変貌する。
「なっ…!?」
「どこだ!奴はどこへ消えた!?」
敵の動揺する声が響く。闇は、視覚だけでなく、聴覚や平衡感覚さえも狂わせているようだった。あちこちで、チンピラたちが咳き込み、壁や棚にぶつかる音がする。
「…くだらない陽動だ!」
闇の中で、アイリスの冷静さを保とうと努める声が響いた。
「ダゴン、破壊はやめろ。時間の無駄だ! …これより、この建物を隅々まで捜索する。壁の一枚、床板の一枚たりとも見逃すな!」
彼女は、俺たちがまだこの建物の中にいると確信していた。
その時、隠し部屋に仕掛けられていた、小さなスピーカーから、誰にも聞こえないほどの、小さな声が届いた。
『…聞こえるか、マナ。奴らが別の部屋を調べている、今が逃げるチャンスだ』
俺は、息を殺して、その声に耳を澄ませる。
『この隠し部屋の奥に、地下水路へ抜ける古い通路がある。それを使え。クロスロードを出て、東の港町…アポロニアへ向かえ』
東の港町アポロニア
『俺も一旦身を隠す。もはや、この街に隠れる場所はない』
ヘルメスの声は、どこまでも冷静だった。
『アポロニアに、俺の古い知り合いがいる。名はレオ。奴は、フリーのハンターで適当に神話獣でも狩ってるはずだ。』
『街で、厄介な討伐仕事でも請け負っていれば、いずれ接触できるだろう。奴なら、お前さんたちの力になってくれる』
『…いいか、マナ。強くなれ。』
それが、最後の言葉だった。
『ありがとう。…父さん』
ネカの顔を見て、強く頷く。
俺たちは、音もなく隠し部屋の奥へと進み、そこに隠されていた古いマンホールの蓋を開けた。
俺とネカは、互いの顔を見合わせると、躊躇なく、その暗い闇の中へと、身を投じた。
(第3話 終わり)




