絶望の祭壇、希望の一閃
俺たちは、厨房の奥に隠された、石造りの簡素な下り階段を発見した。
ひんやりとした、湿った空気が下から吹き上げてくる。カビの匂いに混じって、微かに、血の錆びたような匂いがした。
「嫌な臭いするね…、一番嫌な場所な気がする…」
ネカが、俺の服の袖を固く握りしめながら呟く。
「だろうな。最後の楔だ。最も厄介なものが待ち構えているはずだ」
一歩、また一歩と、暗闇の中を慎重に下りていく。
辿り着いた先は、広大な地下貯蔵庫だった。天井からは鎖が垂れ下がり、壁際には無数の樽や木箱が乱雑に積まれている。
そして、その中央。
部屋のすべてを支配するように、最後の楔、『血を啜る祭壇』はあった。
黒曜石を削り出したかのような、禍々《まがまが》しい祭壇。
表面には、おびただしい数の骸が蝋のように塗り固められている。
祭壇の中心からは、心臓のように脈動する、粘ついた暗黒物質が絶えず溢れ出していた。
祭壇の前には、番人がいた。
その顔は生気がなく、瞳は虚ろで、焦点が合っていない。体からは不気味な虹色のガスが陽炎のように立ち上っていた。天文学者、マーロウだった。
彼の口から、二つの声が混じり合って響いた。一つは恐怖に怯える男の声。もう一つは、人間ではない何かの声だ。
「…来るな…!助けてくれ…!……我らが主の、降臨の邪魔をするな…!」
彼の理性は、完全に狂気に呑まれかけていた。
「…ネカ、あいつを頼む」
「うん!」
「因子を『吸収』すれば、正気に戻るかもしれん」
俺の言葉に、ネカは、こくりと強く頷いた。
「俺は、祭壇を叩く」
俺とネカは、左右に分かれて同時に駆け出す。
作戦通り、俺はまずマーロウの注意を引く。床に転がっていた樽の蓋を拾い上げ、『鋼鉄化』して全力で投げつけた。
「こっちだ!」
だが、マーロウの反応は俺の予測を遥かに超えていた。
人ならざる速度で振り返ったマーロウは、迫り来る鋼鉄の盾を、その腕の一振りで粉々に砕いた。
「なっ…!?」
陽動は通じない。マーロウは俺には目もくれず、より近くにいたネカへと、獣のような雄叫びを上げて襲いかかった。
「ネカ!」
ゴォンッ!とネカの悲鳴よりも早く、硬質な音が響く。彼女の『自動鋼鉄化』が発動したが、攻撃の威力は凄まじく、ネカの体は数メートル後方まで吹き飛ばされた。
「きゃっ…!」
壁に叩きつけられる寸前でなんとか体勢を立て直したネカの目の前に、マーロウが追い打ちをかけるように迫る。
ネカはここで引けば終わりだと悟った。マーロウの体にしがみつく。
「あなたを蝕む悪いもの、全部吸い取ってあげる!」
『吸収』が発動する。マーロウの体から、おぞましい虹色のオーラがネカへと吸い込まれていく。彼の絶望と狂気が、濁流のようにネカの精神へ流れ込んでくる。
「ぐ…っ!我慢比べだね!!」
ネカは歯を食いしばり、必死にそれに耐えていた。マーロウもまた、自らを蝕む狂気とネカの力との間で「グ…アアアアアッ!」と苦悶の声を上げて暴れる。
マーロウに呼応するように、祭壇から溢れる暗黒物質が、無数の触手となって襲いかかってきた。
「――させるか!」
俺は迫り来る触手をガントレットで掴み、『分解』する。だが、一本を消しても、すぐに2本の触手が再生する。きりがない。
(物理攻撃は効果が薄い…!)
ネカの苦悶に満ちた表情が目に入る。このままでは、彼女が持たない。何か、別の手を…!
その時、俺の脳裏に、かつてヘルメスに言われた言葉が蘇る。
『分解とは、破壊ではない。対象を理解し、その理を掌握することだ』
そうだ。俺は一度分解した因子の構造を、記憶している…!
俺の脳裏に一つの可能性が閃いた。
(あのゼリーの『腐食』因子と、ガントレットの『鋼鉄』因子…二つを、俺の中で再構築する…!)
「――因子再構築『腐食する鋼鉄-《アシッド・ショット》』!」
俺のガントレットが、分解し記憶していたゼリー状の怪物の因子と、ケリュドーンの鋼鉄の因子を練り合わせ、全く新しい物質へと造り替える。そして、圧縮された酸性の鋼鉄弾を、祭壇めがけて連射した。
その効果は絶大だった。酸性弾を浴びた触手が、ジュウジュウと音を立てて溶け、再生が明らかに遅れていく。
好機は、一瞬。
「――終わりだッ!」
俺は無理やり一歩前に踏み出し、がら空きになった祭壇の中心部へ、ガントレットを叩きつけた。
「分解!!」
ひときわ大きな絶叫が、骸と化した祭壇から響き渡る。
次の瞬間、祭壇は中心から砕け散り、同時に、ネカに押さえつけられていたマーロウの体から力が抜け、彼は床に崩れ落ちた。
「…はぁ…はぁ…終わった、のか…?」
俺が息を整えていると、突如、館全体がこれまでで最も激しい揺れに見舞われた。
天井から瓦礫が降り注ぎ、床に亀裂が走る。
「マナ! 館が、崩れてるよ!」
楔を全て失い、館が崩壊を始めたのだ。
(第10話 終わり)




