雨音のアリバイ
推理小説の醍醐味は、物語の最後に訪れる「予想の裏切り」と、その裏に隠された「必然」にある。
本書は、山間の古びた旅館を舞台に、一夜にして崩れ落ちる人間関係と、音・匂い・時間といった些細な手がかりから真相を紡ぎ出す、本格派の密室ミステリーである。
主人公は、県警捜査一課の刑事・朝倉怜司。一見すると柔和で控えめな男だが、その眼差しは獲物を狙う鷹のように鋭い。彼の推理は、証拠を寄せ集めるのではなく、音の響き、手の震え、視線の揺らぎといった人の“ほころび”から始まる。
事件は、秋雨の夜に発生した。
旅館の一室で客が倒れ、助けを呼ぶ声が雨音にかき消される中、いくつもの証言が交錯する。しかし、それらはまるでピースの合わないパズルのように、わずかに形が食い違っていた。
あなたには、この物語の最初から最後まで、朝倉と同じ情報が与えられる。
聞こえた音、見えた影、手の中の封筒。
それらをどう組み合わせ、真犯人に辿り着くかは、あなた次第だ。
ただし——物語が終わった時、きっとあなたは気づくだろう。
真実はずっと、目の前にあったのだと。
第一章 雨の夜に響いた音
——耳に残るのは、雨が地面を叩く音。
それに紛れて、唐突に「ドン」という乾いた衝撃音が混じった。
その夜、温泉旅館「つつじ荘」の二階廊下は静かだった。
午後八時三十五分。廊下を歩いていた藤村美奈は、足を止める。
彼女の足元には、窓から吹き込んだ冷たい空気と、雨の匂い。
「教授?」
返事はない。
その直後、「ガタン」という音が室内から響き、美奈は慌ててドアを叩いた。
しかし鍵はかかっており、ドアは開かない。
隣室の宿泊客・岡野誠一も廊下に顔を出す。
「何かあったんですか?」
美奈は震える声で答える。
「中から…音がしたんです。倒れたような…。」
女将と若い従業員が駆けつけ、マスターキーでドアを開けた。
そこには、畳の上に倒れ、動かなくなった三枝慎吾教授の姿があった。
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第二章 刑事の到着
現場に入ったのは、雨合羽を脱ぎながら現れた男だった。
朝倉怜司刑事。捜査一課の中でも、現場の「音」と「時間」のズレを見抜くことで知られている。
「室内は施錠、窓も雨戸も閉鎖。外から侵入した形跡なし。完全な密室だな。」
朝倉は女将の報告を聞きながら、部屋を見渡した。
机の上には湯呑、未開封の封筒、そして黒い折りたたみ傘。
畳の隅にはきちんとたたまれた小さめの浴衣。
机の端に小さな木の破片が落ちていた。
(破片…障子の桟のようだ。何かがぶつかったのか?)
朝倉は屈み、破片を指で撫でた。
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第三章 証言と影
関係者を一人ずつ別室に呼び、朝倉は聴取を始める。
藤村美奈
「教授は研究データの整理中でした。
私は八時半ごろ、資料を届けに部屋の前まで行きました。
“ドン”という音の後、何かが倒れる音…。慌ててドアを叩きましたが、鍵が…。」
朝倉は視線を外さずに尋ねた。
「その時、誰か廊下で見かけましたか?」
「いいえ…誰も。」
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旅館女将・奥村初枝
「廊下は私と佐久間が掃除してましたが、誰も通りませんでしたよ。
窓から外に出るなんて無理です。外は暗くて、庇が濡れてますから。」
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隣室の客・岡野誠一
「“ドン”という音の直後に、雨音が大きくなった気がします。
…窓でも開けたんじゃないですかね?」
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従業員・佐久間
「教授はずっとスーツ姿でした。
あ、昼間、藤村さんが『教授は高い所が苦手』って話してましたよ。」
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第四章 微細な違和感
現場の窓を開け、朝倉は庇を覗き込む。
幅四十センチほどの庇が隣室まで続いている。
足跡は見えないが、雨水の流れが一箇所だけ不自然に途切れていた。
さらに障子の桟に小さな欠けを発見。
机の端の木片とぴったり合う。
(誰かがここを蹴ったか…あるいは踏んだか。)
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第五章 封筒の中身
藤村の部屋を調べると、濡れたタオルと小さめの浴衣があった。
彼女は「温泉に行こうとしてやめた」と答える。
しかしタオルからは泥の匂い。
教授の机の上の封筒を開けると、研究データの改ざんを示す証拠と「明日、大学に報告する」との一文があった。
藤村宛だ。
朝倉は黙って封筒を閉じた。
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第六章 推理戦
翌朝、朝倉はロビーで藤村と向かい合った。
「藤村さん。あなたの証言には二つの不自然な点があります。」
「不自然…?」
「まず、“音”の順番です。『ドン』の後に倒れる音と言いましたね。
だが、教授は倒れた際にもっと柔らかい音を立てるはずだ。畳ですからね。
あなたが聞いたのは——浴衣や傘を落とす音です。」
美奈は唇を噛んだ。
「もう一つは?」
「雨音です。隣室の岡野さんは、『雨音が強くなった』と証言しました。
窓を開けたからです。あなたが庇を渡って隣室に戻る時に。」
美奈の目が鋭くなる。
「そんなこと、証明できますか?」
「障子の桟の欠け。あなたが壁を蹴って移動した時にできたものだ。」
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第七章 暴かれたアリバイ
事件の真相はこうだ。
•美奈は教授が入浴中に部屋へ侵入。
•戻ってきた教授を突き飛ばして殺害。
•内側から施錠し、小さめの浴衣に着替え、窓から庇づたいに隣室へ移動。
•戻る際、壁を蹴った音が「ドン」と響き、落とした浴衣や傘が倒れる音に偽装された。
•窓を閉める音と雨音の変化が唯一のヒントだった。
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朝倉「あなたは“雨”を味方につけたつもりだったが、その雨が、あなただけの足跡を残した。」
美奈は観念し、静かに手錠を受け入れた。
庇を叩く雨は、なおも止む気配を見せなかった——。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
本作は「読者が作中の探偵とまったく同じ条件で真相に辿り着ける」ことを目指した、本格推理小説です。
舞台となった山間の旅館や、窓を打つ秋雨の音、行き交う視線の微妙な揺れは、すべて物語の鍵となる要素として配置しました。
おそらく、最後の告白シーンに至るまで、何度も「これが真相か」と思った方もいらっしゃるでしょう。しかし朝倉怜司と美奈の推理戦が進むにつれ、読み手自身の推測が少しずつ削られ、やがてひとつの核心だけが残っていく過程を楽しんでいただけたなら、作者としてこれ以上の喜びはありません
推理小説は、作中の事件が解決した瞬間に終わるものではありません。むしろ、物語の余韻と、読者自身の中に生まれる“もうひとつの答え”こそが、このジャンルの魅力だと思っています。
あなたがこの物語を読み終えたあとも、ふとした日常の中で「朝倉なら、このときどう推理するだろう」と思い返していただけたなら、それはきっと、この小説が生き続けている証でしょう。