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13 ワガママなキス

 

 ・・◆



 2人の話題が途切れた、その場には滝の音だけが響く。


「先日ティルヴァーン公爵が来ましたよね。」


 シエナは思い切って話し始めた。滝の方を見ていたエストもシエナに向き直る。


「ご存知かもしれませんが、私の名前はシエナ・ティルヴァーンと申します。」


「うん。」


 簡素で短い返事だった。やはりエストはシエナが公爵令嬢だと知っていたようだ。



「ここで1ヵ月過ごさせてもらって、初めて私は私のために生きることができたのです。」


「初めて?」


「私は今まで、まだ見ぬ結婚相手のために生きてきました。

『シエナ』でなく『ティルヴァーン公爵の娘』として、です。」


 自分のことを話すのはひどく緊張する。語尾が震えていることに気づく。



「ここにいると、自分を知ることができました。

 誰かのための勉強や誰かの好みではなくて、私自身はこれが学びたかったのか、これが好きだったのか、って。


 小説が好きな理由は、別の誰かになれるからなんです。

 私は屋敷からほとんど出ることもないけれど、小説の主人公になればどこにでもいける。物語の主人公の感情をわけてもらえる。


 でもここで生活をして、好きなものを見つけて、初めて私を知ったのです。初めて『シエナ』になれたんです。」



 伝わるだろうか。

 ひんやりとした空気の中、語尾だけでなく全てが震えてしまう。



「うん。」


 エストはうなずいてから、左手をシエナの右手に重ねた。よく見るとシエナは手まで震えていたようだ。

 冷たく固まった指先にエストの熱が伝わり、シエナの震えが止まる。

 彼の手は、シエナを肯定していた。



「大丈夫、君が好きなものは俺も知ってる。

 小説、魔法史、庭で魔法を試すこと、トマト、庭いじり、買い食い、それから……。」


 エストは右手を指折り数え始めた。


 彼が、好きなものを挙げるたび、シエナという人が出来上がっていくようだ。

 自分の好きなものを知る。そして、それを誰かが知ってくれている。


 これはこんなにも幸福なことだったのか。



「ふふ、全部正解です。でも、正解できるのはきっとあなただけでしょうね。」


「君が好きなものなんて、見ていたらすぐにわかるだろ。」


「きっと私の家族含めて、答えられる人はいませんよ。」



 だって、シエナ自身もここに来るまでは知らなかったのだから、自分の好きなものを。



「好きなものがたくさんできました。でもそれは全て封印しないといけないのです。」


「どうして?」


「公爵令嬢は魔法も必要ないし、庭で泥だらけになることもありません。街に気軽に遊びにも行けませんよ。


 今日で終わりです。夢の日々でした。」


「……。」



 エストは何を思っているのだろうか。こんなことを言われても困るだろうか。


 でも、言うんだ。夢から醒めてしまう前に。現実に戻ってしまう前に。




「エスト様が私の好きなものたくさん並べてくださいましたけど、1つ足りていません。」


「ああ、庭の花を忘れていたと思ったんだ。」


「違いますよ。エスト様です。」


「な……。」


 裏返った声でこちらを向くエストの顔は赤く、瞳はまた夜空のようだった。

 そんな彼の様子にシエナの緊張はほどけていく。切り出してしまえばあとは簡単に言葉が滑り出てくる。



「私、エスト様が好きなのです。」


「公爵令嬢の君が?」


「ええ。よくある言葉ですが、エスト様といて本当の自分に出会えたんです。

 公爵令嬢である私に対して、買い食いが好きだと思うのはあなたしかいませんよ。」


「確かにその言葉は失礼だったな。」


「あはは、違うんです。嬉しかったんです。」


「嬉しいか?」


「嬉しいですよ!」


 シエナは声を出して笑った、この1ヶ月、何度大声で笑っただろうか。王都では咎められていたことだ。きっと一生分笑った。



「俺も……君のことが好きだよ。」


 エストはボソボソと切り出した。瞳は夜空のままで。


「君を見ていると嬉しいんだ。君が嬉しいのが嬉しい。

 恋愛については全くわからないんだ、でもこれが恋なんだろう。」



 本当に同じ気持ちだったんだ。シエナ・ティルヴァーンだとわかっても恋だと言ってくれる。

 涙が出そうなくらい嬉しい。でも、それで十分だった。



 エストが一緒に逃げようか、と言ってくれたなら、公爵令嬢としての自分を捨てる覚悟はあった。

 ただの買い食いが好きなシエナとして生きていこうと思えた。



 でも、エストには夢がある。何もせずとも恵まれた状況にいる自分が、夢のために努力を続ける人の未来を潰すわけにはいかない。



 夢が醒める前に、同じ気持ちでいられた。十分だった。



 でも最後にもう1つだけワガママがある。





 ・・♠




 シエナが、自分を好きだと言う。期待していたことではあるが、実際に言葉にされると信じられない。



 まだ手は重ねたままだ。この手をそのまま取って、逃げ出してしまえたら。

 そう思うのに、それ以上言葉に出すことは出来なかった。



「エスト様、最後にお願いがあるのです。」


「お願い?」


「キスしていただけませんか。」


「キス……!?」



 動揺して重ねていた手を離してしまった。シエナは凛とした表情で冗談ではなさそうだ。



「はい。ここには休暇という設定で滞在させてもらっていましたが、父には恋人をお願いしたのです。

 今後結婚する身ですし、純潔を守ると誓いましたが、恋人ができることは了承済なのです。」



 屁理屈な気もするが、彼女は至って真面目に言い放つ。



「恋人でいられるのは、今日だけですが……どうでしょうか。」



 どうもなにも、エストにとっては嬉しい申し出ではある。

 嬉しいよりも動揺が勝っていて、何も頭が回らないのだが。



「うん。」



 シエナの瞳に自分がうつる。そして彼女の瞳は閉じられた。

 彼女の右肩にぎこちなく触れる。触れた肩は少し震える。そのまま顔を近づけた。



「童話では王子様のキスで夢から醒めますからね。」



 触れた唇が離れると、シエナは照れ隠しのようにつぶやいた。

 おどけて言うが、頬はピンクに染まっている。潤んだ瞳がエストを見上げる。


 確かに、これは童話に出てくるお姫様かもしれない。そう思うほど可愛かった。


 ここは童話ではないのだから、夢から醒めてほしくなんてないけれど。


 エストはもう1度顔を近づけた。



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