隕石が落ちた世界で
「桜を見に行こうか」
雨が上がった春の日の午後、ユウくんが言った。
「今から? 仕事は?」と私は聞く。
まだ仕事が終わる時間出はないはず。なぜ、そんな提案に至ったのか、理解できなかった。
ちなみに、ユウくんがどんな仕事をしているかは知らない。興味もない。一日中、パソコンの前で退屈そうにしていて、たまにキーボードを叩くだけ、という謎の仕事だ。
だけど、ぎりぎり昼間と言えるような、こんな時間帯に終わるような仕事ではないはずだ。
「いいよ。休み、申請する」
突然転がり落ちてきた、小さな幸せに驚き、反応できずに固まっていると、ユウくんは拗ねたみたいに少しだけ眉を寄せた。
「嫌?」
「ううん。嫌じゃない」
嫌なわけがない。
ニートを一年続けている私は、ユウくんが仕事を終えるまで、ひたすら退屈な時間を過ごすしか選択肢がない。だから、必要以上に幸福を感じ、驚いてしまっただけなのだ。
「じゃあ、行こう」と言って、ユウくんはパソコンを閉じる。
「うん、行こう」とソファに寝そべっていた私も身を起こした。
それから、部屋を出るまで時間はかからなかった。準備といっても、二人とも部屋着から着替えるくらいだったから。
目的の場所は決まっている。
付き合い出してから、桜を見に行くと言ったら毎回同じ場所。歩いて二十分ほどの川沿いの道、川を挟むように桜が咲いていて、それがずっと続いているのだ。
「どうして急に桜を見に行く気になったの?」と私は聞く。
ユウくんは働きたくない働きたくないと言いながら、朝は早く起きて定時と言われる時間まで、パソコンの前から動かない、向上心はなくても真面目な人だ。それが、急に仕事を切り上げるなんて、本当に珍しいことなのだ。
「次の週末、雨らしいじゃん。そしたら、今年は二人で桜を見る機会がなくなる」
確かに、そうだった。
桜の季節は意外に雨が多い。それに、今年は色々あってユウくんが土日を留守にすることもあり、二人で出かけるタイミングがなかった。
ユウくんは出不精だから、きっと今年は二人で桜を見るチャンスはないだろう、と思っていただけに、この誘いはサプライズだ。
「へぇ。退屈過ぎる私が可哀想だと思ったからじゃないの?」
「それは前提」とユウくんは笑った。
それから、会話と言えないような会話が続き、気付けば桜の道のすぐ近くを歩いていた。
「あそこの八百屋、なくなっちゃったね」
一年に一回、この道を通るときだけ見かける八百屋がなくなっていた。
「ここの喫茶店もテナント募集だ」
八百屋の向かいにあった建物を見てユウくんは言った。
「仕方ないか。あんなことがあったし」
「そうだね。時代だね」
「でも、僕たちの桜は残ってて良かった」
「そうだね。下手したら、見れなかったかもしれない」
一年前、新宿に隕石が落ちた。
その衝撃は周辺地域を巻き込み、壊滅状態に。多くの人間と建造物が消滅した。
また、隕石から発生する謎の気体が、人体に悪影響を及ぼす恐れがあると、外出を自粛するよう国から要請もあった。
それから、半年ほどで隕石から発生する気体を抑え込むことに成功したそうだが、まだまだ私たちの生活に暗い影響を与えたままだ。
「見て、知佳。まだまだ咲いているよ」
「本当だ。やっぱり、ここは私たちを裏切らないね」
桜は散りつつあったが、まだまだ美しく咲き乱れていた。
「明日も雨みたいだし、今日を逃したら見れなかっただろうなぁ」
ユウくんはスマホを取り出して、桜を写真に収める。
「うん。今年も見れて良かった。ユウくんのおかげだ」
「僕の英断のおかげだね」
「うん。エイダンのおかげ」
英断という大袈裟な言葉がおかしくて、私はクスクスと笑った。
「でも、少し黒くなっている。あ、ここなんて青いよ。隕石の影響かな。一番きれいな時期は逃しちゃったね」
目を凝らして桜を見たユウくんはがっかりしたようだ。
「たぶん、今年は満開の状態を見れた人は少ないと思うよ」
「そうかもね」
桜に挟まれながら、二人で歩く。ピンクの花弁が舞い落ちて、私はそれをキャッチしようと何度も手を伸ばしたが、一度も成功しなかった。
アスファルトの上も、桜の花弁がたくさん落ちている。たくさんの人に踏まれていたのだろう。泥にまみれて汚かった。
「ねぇ、見てよ。ここは綺麗だよ」
ユウくんの声に、私は顔を上げる。ユウくんは目線より少し上にある桜の枝を見ていたようだが、確かにそこは綺麗に色づいている。全体を見れば、黒ずんでいる桜たちだが、部分的には十分に美しい。私はすぐに飽きてしまい、下を見て歩いていたから気付かなかった。ユウくんは綺麗なものを見ようとする気持ちが、私なんかよりずっと強いのだろう。
「隕石が落ちる位置が少し違ったら、この桜を見れなかったんだろうな」
ユウくんは呟く。
「それどころか、私たちの家もなくなっていたかもね」
「無事でよかったね」
「うん。よかった。私は無職になっちゃったけど」
「僕も無職になるかもしれないから、それについては何も言えないなぁ」
ユウくんは照れ笑いを浮かべる。
彼が勤める会社も隕石の影響で、経営が芳しくないらしく、売上の悪い部署は次々に消えているそうだ。ユウくんも明日は我が身だ、という気持ちで毎日働いているのだとか。そうは見えないけれど。
◆
ユウくんと会ったのは、まだ私が二十歳そこそこだったころ。
私はユウくんのファンだった。
彼はSNSに自分が描いた絵を上げていて、それほどフォロワーが多いわけではなかったが、三人から五人ほど、熱心なファンがいた。彼が絵を投稿する度に、必ずコメントするような熱心なファン。
私もコメントしてみようか、と何度も迷ったが勇気がなくて、いいねボタンを押すだけに踏みとどまっていた。
しかし、彼の絵と出会って、半年も経った頃、絵の投稿が止まってしまった。もしかして、絵をやめてしまったのだろうか。そう考えつつ、私は昔投稿された絵にさかのぼって、いいねを押したりしていた。もう彼の絵を見られないかもしれない。だとしたら、帰ってきてほしい。そんな願いを込めて。
すると、ある日のこと、彼の方からダイレクトメッセージが送られてきた。
「貴方の詩を見て、心に何かが響きました。よければ少しお話したいです」
私のSNSの投稿を見て、興味を持ってくれたらしい。
だけど、それは詩ではなく、ただの愚痴だった。それでも、彼は私が生み出した何かに、共感を得てくれたらしく、それはそれで素直に嬉しかった。
「僕は好きな人がいます。彼女がいるから、僕は絵が描ける」
彼の絵が好きで、ずっと前からファンだった、と伝えると、そんなことを言われた。
そうか。あれは誰かのための絵だった、とひっそり落ち込んでいると、さらにこんなメッセージが。
「だけど、もう描けなくなってしまった」
このとき、何があったのか深く聞くべきだったのだろうか。それは分からないが、私は慰めと言うわけでもなく、ただ彼の絵が見れないことが嫌で、こんな風に返信した。
「どんな絵であっても、私は貴方のファンです。ただ自由に、描きたいものを描いてみてはどうでしょうか」
それからも、私と彼は頻繁にやり取りを続け、ついに会ってみないか、という話が出た。お互いが一時間ほど移動すれば会えるような距離だと判明したので、私たちは会うことにした。
「僕は君のために、すべてを捨て去っても良いと思ってしまった。君を好きになることを許してはくれないだろうか」
初めて会ったその日、別れ際に彼は言うのだった。
「そして、君がいれば僕はもう一度絵を描ける気がする。だから、傍にいてほしい」
それから、一ヵ月もしないうちに彼は仕事をやめ、私の近所に引っ越してきた。しかも、いつでも二人で暮らせるよう、少し広めの部屋を借りて。
私はもとから彼のファンだったし、会って話した感覚も好きだと思えた。だから、迷うことなく二人で一緒に暮らすと言う決断ができた。それからは、いつも私たちは一緒だった。新宿に隕石が落ちたあの日も。
ただ、ユウくんは絵を描いていない。新宿に隕石が落ちたあの時から、何かが変わってしまったそうだ。
◆
「眩しい」とユウくんは手の平で光を遮ろとした。
確かに、川に日の光が反射して、目を開いていられない。
「あ、サギがいる」
水面の光が綺麗で、そこに目を奪われていたのに、ユウくんはもう別のものを見付けていた。ユウくんが指をさした方向に、白い鳥が。
「本当だ」
そう言いながらも、私はサギがどういう鳥なのか知らなかったので、適当な返事だった。
「去年はサギなんて見なかった。たぶん、新宿隕石のせいだったんだろうな」
ユウくんは悼むような表情を見せた。
「あれのせいで、環境が変わっているって話はあったよね」
何か言わないと、と思ってニュースで聞いた話を口にした。でも、ユウくんの表情は変わらない。
「国は新宿隕石の影響は終息に向かっている、って言っているけど、本当なのかな。僕には、色々なことが悪くなっているように感じるけれど」
「きっと、これから良くなるはずだよ」
「僕は新宿隕石の影響は、これから目に見えてくるんじゃないかって思うときがあるんだ」
「……もっと酷くなるって、こと?」
ユウくんな数秒黙った後、大きく息を吸ってから言った。
「よく分からないけど、隕石はまだ眠っているだけだって、そんな気がするんだ。本当はもっととんでもない災厄を溜め込んでいて、僕たちを不幸に突き落とすため、力を溜め込むみたいに眠っている。あれは、そういうものなんじゃないかな」
ユウくんの目は鋭かった。そして、さらにこんな一言を付け加えた。
「この桜だって、いつまで見られるのか」
「あ、ここの病院、求人出している」
私は歯医者さんのドアに貼られた用紙を見付ける。
「どう思う?」と聞いてみると、ユウくんは求人内容に目を通してから、首を傾げた。
「うーん。ちーちゃんには難しいんじゃないかな。仕事内容、けっこう大変そうだよ。最近、体調も良くないじゃん」
実は、最近よく咳が出る。熱が出て、上手く眠れない日も。これは、新宿隕石が落ちたばかりの次期、その影響を受けて体調を崩した人たちと、似たような症状だった。
新宿隕石の影響はもうありません。
これはテレビやネットのニュースで言われていることだ。だから、きっと私の体調の悪さは、新宿隕石と関係はないはず。そう思うようにしている。
「まずは病院で見てもらったら?」
「うーん。お金ないよ」
「僕が出すよ、もちろん」
「えー、先月から電気代上がったり、食費も抑えようって話だったじゃん。せめて、次の仕事見付けてからにするよ」
「……不甲斐なくて、ごめん」
「一年も私を養っているんだから、ユウくんのせいじゃないよ」
実際、ユウくんは偉い。
お荷物みたいな私を養ってくれるのだから。
一年前、新宿隕石のせいで職を失った私だが、それ以前から収入は安定していなかった。なぜなら、私は生まれつき体が弱くて、働く気はあっても体力はなく、すぐに辞めてしまうような人間だからだ。ユウくんは、そんな私を温かい目で見てくれる。文句ひとつ言わず、一緒にいてくれるのだ。
気が付くと、辺りは暗くなり始めていた。雨が上がって、青空が広がっていたはずなのに、今の空は黒い雲が多い。
桜が続く道を歩き終えてしまったが、ユウくんは振り返って桜を写真に収め、満足げな笑顔を見せる。
「楽しかった?」とユウくんが私に聞く。
「もちろん、楽しかったよ」
そう答えて、私は名残惜しい気持ちになった。今年はもう二人で桜は見られないだろう。だからといって、いつまでもこうしてはいられない。
「また来年も見られるかな」
「見られるといいね」
私たちは明日に備えて、帰路に着いた。
こんな日々がいつまでも続けばいい。ずっと二人で細やかな幸せの日々を。
だけど、それは許されることなのだろう。ユウくんが言う通り、状況は少しずつ悪くなっている、のかもしれない。
だとしたら、私たちはこんな日々を続けられるのだろうか。底辺のような生活力で?
たぶん、今日みたいな小さな幸せを積み重ねることすら、許してもらえないのだろう。大切なものだって、守れなくなる。
そして、いつかやってくる。
新宿隕石が溜め込む災厄が、噴き出すその日が。
「そういえば」
ユウくんが言った。
「また、絵を描こうと思うんだ。今なら描ける気がして」
私は言葉を失った。一年間もユウくんは描かなかった。私が描くように勧めてみても、迷惑そうに目を細めるだけだったのに。
「……そっか。うん、良かったね。描いてみたら」
そんな言葉しか、出てこなかった。ありきたりな言葉だったかもしれないが、それで良かったらしく、ユウくんは照れ臭そうに頷く。
でも、私は知っている。ユウくんは絵の才能なんてないことを。描けば描くほど、彼の気持ちは落ち込んでしまう。下手をしたら、暴力的になるだろう。それに、私は彼が絵を描く意味を、理解しているつもりだ。
まだ家は遠いのに、咳き込んでしまう。口元を手で抑えるが、なかなか止まらなかった。一分くらい咳き込んで、やっと止まったと思って手の平を確認してみると、そこに生温かい感触が。ハンカチでそれを拭うと、ぽつりと頭に水滴が落ちたような気がした。
「あ、雨降り出したかも」と私は言う。
「じゃあ、早く帰らないとね」
私たちは再び歩き出す。
一年後、三年後…私たちはいつまで一緒にいられるだろうか。
私とユウくんなら大丈夫だと思う。だって、二人は小さな幸せを分かち合うことができるのだから。しかし、環境が変わっても、生活を維持する力を手に入れられたとしても、きっと失われてしまうものはある。
そんなとき、私はどうするべきなのだろうか。
胎動が聞こえる。きっと新宿から。少しずつ膨らんで。少しずつ大きくなって。いつか私たちを地獄に落とすために。あいつは、ずっと私たちを見ている。幸せになれると思うなよ、と。
雨が本格的に降り出した。雨雲に遮られ、太陽の光は届かない。辺りは思った以上に暗かった。