【第3話】 何者だお前は
――お前じゃ話にならねぇ、じゃあな
それだけを残し、女の下を去っていったはずだが、
「お前な、急に殴ってくんじゃねえよ! 知ってる? 俺、記憶喪失なんだけど」
「ご、ごめん」
服を着ずに逃げ出してきたはずの黒髪の男は、蒼白の髪の女にいつの間にか追いつかれ、陰口への報復を受ける。その報復に己が記憶を亡くしているを訴える男は、女にまた号泣されそうになっていた。涙に男が虚弱であることを分かってやっているのか、相当な悪女だ。
そんな劣悪な状況を肥大化させる存在が、女だけでも厄介だというのに、これに加え、女と同様に泣き崩れる老婆、それとこちらはまだ話が通じそうな中年警官がぼっ立ち――悲惨さが加速していくのが男には目に見えていた。
「そ、そうですよ。記憶がこれ以上飛んでったらどうすんだ! ってね」
「―――」
「ヒッ、じょ冗談ですよ。許してくださいって」
警官が、頬を膨らませイライラとした態度を見せる女に、気休め程度の冗談を披露する。が、黒髪の男しか眼中にない女には逆効果だったらしく、憎悪に塗れた目つきが警官に向けられた。その視線に警官は会話を躊躇い、黙りこくってしまう。先程までの男との対峙で見せていなかった女の新たな表情に、男は警官と同様に息を呑んでしまっていた。
女の顔つきはとてもおぞましく、まともに直視できない程だった――人ひとり殺してもおかしくないくらいには。こんな顔もするのかと、また目が奪われてしまっている男は、己の気概のなさに呆れていた。見惚れていると、女の美顔が朱に染まっている事実にも意識がいく――、
「お前、顔も目も真っ赤じゃねえかよ」
つい口にしてしまった男は、本気で女の魅惑に惑わされていた。そのくらいには、女の顔が朱に染まって見えて仕方がなかったのだ。無粋で野暮な行為なのは、男も重々承知していた。
「あんたのせいじゃろうが!」
「っ――」
そんな野暮な行為を横行する男に老婆が手を広げ、先ほどの女の一撃より幾分強さが増した勢いで、顔面を思いっきり引っぱたく。その衝撃に男は面を喰らい、警官が目をかっぴらく。警官の方は、よっぽど珍しいものでも見たのか、驚愕で口も閉まらなくなっている。老婆が暴力を振るうなど、滅多に見られないことなのだ。
すると、男が遅れてようやく気がつく。老婆はいつの間にか泣き止み、こちらを睨みつけていたことを――、
「お前――」
「いい加減にしろ! 話したじゃろこのおじさんが! あんた何で今日こうやってお天道様の元で暮らせてんだい! なんで今ここにいられている!」
老婆は、何故男が今まで無事に生きてこれたのかを本人に問う。その質問に苦し紛れの否定を、男はするしかなかった。
「分かんねぇって……」
「分かんねーじゃない! 若いくせしてそんなんも分からんか! この嬢さんのおかげじゃろが!」
「うっ、うるせぇ……」
男も女に恩恵を受けている、その自覚は持ち合わせていた。あんな風に顔が赤いのを指摘したのも、心配が勝って仕方なく――、
「お前は関係ないだろうが」
「あ?」
心配からくる行為だったからこそ、男は見栄を張ってしまう。だってそうだろう、男なりに寄り添う形を取っただけなのだ。赤の他人の老婆に指図をされては、男もいい気分になれやしなかった。
もう女と親類縁者にでもなったつもりでいる、男も重症ではあるが。
「帰ろ」
「ちょ、おい――」
老婆と言葉を投げ合う男が、華奢な体格からは想像もできない力で女に引っ張られる。先程の一撃が挨拶代わりだったのか、と錯覚するぐらいには――、
「お前今度は――てか、手バカいてぇから! 放せこのバカ!」
「い、痛かった? そんなつもりは無かったんだけど――」
「あでっ」
男が手を離すことを要求すると、女は即座に愛する人の手を手放し、男は地面に顔面ごと突進する。場に似合わぬ強硬な交通路に男は血を垂らし、嘆く。
「なんなんだよ、クソがぁ――」
「まだ、話は終わっとらんぞ若造!」
男は散々な状況に、出る言葉も見つけられないでいた。老婆は未だ憤っている、蒼白の髪の女を泣かせ、愚弄したことに。男に罪悪感はもちろんある、癪ではあるがもう素直に謝罪しよう――、
「もう、話はありません。これ以上関わらないでください」
「なっ」
「――は」
と、男が腹を決めた時、まさかだった――女が老婆を拒絶したのだ。
「嬢ちゃん、確かにわしも悪いとこはあったかもしれん。だが、見過ごすわけにもいかんくて――」
「鶴川さん、高橋さん、お世話になりました。これをご自由に」
己にも非があったと反省する老婆をよそに、女は空へ向けて手のひらを広げる。
紙束がばら撒かれたのだ。男にとっては、それは普遍的なよくある紙に見えたが――、
「お、おう、ありがとな。金だよ金、善も積めば山となる、金と成る!」
「あんた、何やってんだい――」
中年の警官の反応を見た限り、そういう訳でもなさそうだ。警官の衝撃で動かなくなっていた体も、情けない姿勢で紙屑の収集に尽力している。老婆の方は、警官と交代制で、口こそ開いていないが黙ってしまっていた。
「怪我しちゃったなら帰って治そ」
「お前のせいだろ――」
――状況は解決に導かれるはずが、どこで間違えたのか無茶苦茶だ
「嬢ちゃん」
「なんですか」
「この坊主が逃げ出してきた理由がよく分かったよ、あんたおかしい」
老婆は警官を見限り、女に呆れた様子で田んぼ道へと足を進めた。置き去りにされた当人は、『金はどこだ!?』と、今だ目をかっぴらいている。
「この世はこういう人ばっか。情けないでしょ?」
「お、おう」
女が、その醜態への軽蔑の言葉を吐くが、男は状況の整理が追い付かず、まともな言葉選びも出来やしなかった。男の手は随分と優しく握られるようになり、女は指を絡めてくる。もう片方の指は、這いつくばり紙幣の採集を行う警官を指さしていた。
「もう一度聞く」
「ど、どうしたの?」
「――誰だ」
「ミナちゃん、中野美奈…本名まだ言ってなかったけ? ごめんね」
「あ、おう」
つい、言葉足らずに質問をしてしまったことを男は後悔する。
「ねぇ、そんな反応薄いとまた泣いちゃいそうだよ」
「――いや、スゲエいい名前だぞ。心からそう思う」
「そ、そう? 照れちゃうなーふふっ」
――何者だお前は
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