【第2話】 裸の王様
――なんだこれ
「で、掃除? いやー疲れるな、やることありすぎでしょ。これなら普段の方が楽だね」
正体不明の甲高い声が黒髪の男の耳に届く。誰かも分からない声だというのに、男は何故かその声に親近感を抱いていた――、
美声に浸っていた男は数刻の沈黙を迎え、ようやく状況理解に追いつく。
――カビ臭さが半端ないぞこれは
男はすぐさま己にかかっていた布団をはぎ、辺りの景色を確認していた。古びた窓からは山々が見え隠れし、そんな視覚を捉えていると、今度は小鳥のさえずりが聴覚として脳に届く。
起き上がって早々忙しない状況に男は、混乱しつつも何故かその状況に安堵を得ていた。感情の起伏が激しく、周囲に一喜一憂をしている男の耳に、突如として障子を引きずる音が入っていく。
「どこだここ、みたことも――」
「っー! 何考えてるの私、ここにはしけこんでる訳でもないのに」
「あっ……」
忙しなく慌ただしくしている男の居る部屋へ、襖を引きずり割り込んでくる女が現れる。
――綺麗だ
蒼白の髪に蒼い瞳、豊満な胸を持ち合わせているというのに目のやり所に凄く困る薄着姿――どれをとっても男を揺さぶる要素しかそこにはなかった。
――とても、美しい
「おい、てめぇ――」
「ち、違うのごめんごめん。これはね、そういう卑しいのじゃなくてさ」
「は? なんだそれ」
男が名刺交換と洒落込もうとすると、それに対し蒼白の髪の女が身勝手な謝罪を行う。そんな女の様子に男は少し気を苛立たせていた。
――この女、今『卑しい』とか言ったか
初対面で卑しいも何も無いだろう――と男が話しかけようとすると、
「……今なんて」
それよりも先に女が、この瞬間男が話そうとしていた内容を読んだかのように、声を震わしていた。
――いやいや、こちらのセリフなのだが
と言いかけそうになる男は我に返り、本来の目的のために、女の話の多くは聞かなかったこととする。男は女を一目見た瞬間から、ずっと気になっていた疑問を投げつけた――、
「誰だ」
女は容姿端麗であり、美貌があふれんばかりに瞳は輝きを解き放っている。からこそ、黒髪の男はその正体が気になって仕方ない。
――誰なのだろう
と、少し浮気性のような感慨に耽る男は目を尖らせ、女の顔を睨みつけていた。貧相だが魅惑的な女の頬に、男は目を奪われてしまっていた。
「へ? あーうん、忘れちゃったかぁ。ミナだよ――ミナちゃんって呼んでくれてた、んだよ……」
「みな……」
男が女の名前を得る。それだけで男は何故か満足気になっていたが、それよりも重要な事柄に気づく。この体のことを男は何も知らない。名前、生き甲斐、夢、これまで生きてきて何を感じたのかさえも――男は明らかに優先順位を間違えていたが、それよりも眼前の美貌の持ち主の正体を知れたことで、特に不満も後悔も男には存在してなかった。
と、そんな多様な思考を男が脳内で巡らせていると、女が突然泣き崩れていく。
「そう、か。うぐっ、ごめんほんとごめんって。分からない? んだよね、ひぐぅ」
「初対面でなんなんだよお前は――」
「は! そんなこと言わないで!」
己よりも感情の振れ幅が大きい女を心配する男は、女の地雷を踏んだのか、落ち込む姿に今度は叫ぶように叱咤されていた。
――なるほど、分からん
顔も知らぬ相手に粗相な態度を取られた男は、女の感情の激しさに揉まれ、混乱を引き起こしていく。正直、男にとってこれ以上の厄介事はご勘弁願いたい所だが――、
「す、すまん、何かあったのか。相談ならのる」
「やっぱいつでも優しいね、君は。相談したいのは君の方だろうに、ぐすっ、うぅん」
世界一とも取れる美貌を目の前にする男はらしくもなく、優しく振舞ってみるとそれが功を奏したのか、女は泣き止んだ。とりあえずは、話が聞ける雰囲気になりつつある――その好機を逃すことなく、男は再度話しかけていく。
「おい――」
「ごめん、もうちょっとだけ待って、うわぁん、何でなんっでぅえ」
チャンスと掴めたと思った矢先だ、男はまた女を泣かしてしまっていた。感情的なのは魅力だが、ここまでくると病的な何かに思えてくる。
男はひたすら情緒不安定な女にただ振り回さているだけ、のようにもみえるが実は収穫があった。
――どうやら自分は記憶喪失らしい
その情報だけを掴むことが出来たが、これ以上の豊作になる気配も感じられない。女の相手をしているのも到頭面倒くさくなり、男は奥に外へ続いてそうな戸があることを確認し――、
「お前じゃ話にならねぇ、じゃあな」
混沌の地へ言葉だけを残し、男はその地を後にした。
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黒髪を特徴とする男の瞳に、見知らぬ情景が飛び込んでくる。男の知らない世界、そう容易くお目にかかることなどできないそんな世界――ではない。
本来この部落で住んでいる者然り、この世界に生を授かった者であれば皆、知っているべき世界だ。
「―――」
で、あったはずだが記憶喪失の男にそんな共通は通じない――ここも失った記憶の一つなのだから。それ故に『外出時には衣服を纏う』、なんて教養もこの男には無いのだ。
男は局部含め体躯の全容を晒しながら、田舎道を独り黙々と歩いていた。
「んぎゃー! あんたなぁに、服も着ずにこんなとこほっつき歩いてんだい。いくらここがド田舎やからってそりゃあかんで。はよ、服を着てくれ……おーい、聞こえとるかー?」
「――?」
声を発することも無く、独りで公然わいせつ罪を被る、純一無雑な悪人に突如として、奇声じみた年増の悲鳴が襲い掛かる。それとともに年増の老婆から、問答の要求も同時に行われるが、そんな要望に男が聞く耳をもつはずもなかった。
このご時世に服を着ず歩を進める者など二つに一つしかない――ヤバい奴かイかれてる奴だけだ。
「そっか、じゃあその服を俺に寄越せ」
「はい?」
「そしたら納得いくだろ? てめぇはうるせーし、丁度良いじゃねぇか」
「――! 頭おかしいんかあんた! 口を開いたかと思って聞いてみれば何がうるさいじゃボケ! こんな町中を裸でうろつき回ってたらそりゃツッコむわ!」
裸を醸し出す男がおかしな事を口にすると、それには至極真っ当な意見が返ってくる。裸で徘徊する男を不審がらない者などいない――老婆の反応はごく普通の反応だった。というよりかは、話しかけることもせず逃げ出す方が普通かもしれない。というのに、わざわざ乗ってくれるというのだからこれでも温情な老婆だ。
その時だった。男と老婆の言い争いに、遠方から鈴の声と地を擦る音を鳴らす、警官服姿の男が歪な双方の像に近寄ってきたのは――、
「ちょっと、お兄さん! そこで何やってんの! あぁ、こんにちは」
「高橋さん、この人ヤバいのよ。急に歌女の服脱がそうとして――」
「あーね、はいはい。それもう40年経ってるから。それに、このお兄さんも分からんだろ。んで、本当のとこは?」
「ホンマだわ!」
「お――」
未練たらしく騒がしい老婆の主張にどこか冷酷な台詞が続いていく。老婆には事あるごとに己の武勇伝を語る癖があり、警官もその対処には慣れていたのだ。何度も繰り返されてきた話には、警官も流石に聞き飽きたのだろう。慣れた手つきで、老婆の歌劇を無情な警棒で制止していた。ただ、それは単なる嫌悪からではなく、警官が男へ感じる違和感を整理するためである。
「――! そうだ!」
何かを悟った様子の警官に老婆は深く首を傾げ、説明が不可欠なのだとも悟る警官はそれ以上に深く嘆息していく。
「あれですよあれ、忘れました? 数年前、名前なんだったかな……。まあ、その人がさ男の人担いできてそれで植物状態で今も寝てるっていう――」
「あ……」
警官の説明に老婆は何か感づいたのか、裸の妙な男を凝視したあげく、急に黙り込んでしまう。それを不気味がる男は一歩引く姿勢をとるが、老婆は容赦なく距離を寄せる。
「元気になったんだねえ。ホンマに良かったわ、良かった……」
老婆は久しぶりの再会に目を潤ませ、年寄り特有の突如の感涙を披露する。そんな情緒不安定の老婆の様子に、男は目を開き驚愕に陥っていた。
――老婆の様子が先程まで憤慨してたはずの状態から、一変してしまったのだから
そんな老婆の姿に、男はすっかりあっけにとられていた。
「急にどうしたんだお前……。怖えからやめてくれ」
「そう、そうやな。知らんもんな、ごめんな。お前が起きる時がワシの生きてる内に来るとはなぁ……。うゎああ……」
そう言ってさらに涙ぐみ、喋れるようでもない老婆に代わって、警官がこの状況と男に対する情報の説明を続ける。
「君はね、8年前にもうなるのかな? 女の人にここへ突然運ばれてきたんだ」
――ああ、あの女か
「特別、傷があるってわけでも無かったんだけど、意識がなくってね。それで恐らく君がここに来る前、こんな感じの家から出てきたと思うんだけど、そこで女の人が8年間ずっと、君の面倒を診てたわけなんだ」
とりあえずの話を終えた警官は、『覚えていないか?』と男の出所したであろう古民家と、酷似していた隣の民家をしつこく指し示していた。
――ただ、そんなのは知ったことかと男の記憶には綺麗な風貌の女だけがひたすらに再生されていて
「みんなが心配してたんだ。そりゃ、もちろん女の人が一番なんだろうけど――」
「アイツか……」
男の記憶に残る女が綺麗なことは確かだが、『神は二物を与えず』、なんてよく言ったものだと思えるほどに、難癖のある情緒不安定さも女は兼ね備えていた。
「なんだあの人、今日は居たのかい。珍しいねー。いっつも遠出なんかして1カ月居ない、なんてざらだからさ」
「そうなのか」
「そうだよー。僕も見かけたのなんて1桁あるかないかで――いや待って、じゃあなんで君裸なの……?」
男は、記憶に残る女、老婆や警官との会話を経験したことで、記憶が無いながらにやりとりを交わせるようにはなったが、警官がそれ以前の問題に疑問符を浮かべる。
――裸の男はあの女の人が居たにも関わらず、何故こんな容姿でここまで歩いてきたのか
その警官の疑問に男は経験値を活かし、回答を行う。
「鬱陶しかったんだよ、何がミナちゃんだ。ふざけんのも大概にしろってな」
「えぇ……冷たいなー。いやまぁ嬉しかったんだよ、起きてくれてさ。それを君は良くは思わなかったのかは知らないけど……」
「知るか」
男は女を毛嫌いしているような素振りを見せ、その嫌悪や怒りから憂さ晴らしを警官に投げつけていた。そんな不貞腐れた男の憂さ晴らしを、警官は一度なだめてみようと試みるが、すぐさまその試みは無意味だと知り、それ以上を口にしない。
――裸の男は、女を語ることに夢中だった
そんな男に説得するだけ無駄なので、なだめることなどしない――つもりだったのだが、男の背面に近寄る憤怒の形相を浮かべた赤鬼を確認し、警官は急遽止めに入る形にならざるを得なくなる――、
「ちょっと君……!」
この状況を打破しないと、男がどんな有様になるのか分からない。
――もしかしたら、死ぬのでは?
そんな不安が警官を取り巻き、男の暴言の数々を制止しようと奮闘していた。
「なんだそんな化け物をみたような――いやすまん、ここでは服を着るのが普通なんだな、悪かった。以後、気を付ける」
「いや、どこもかしこも普通だけどな……じゃなくて!」
不安ではち切れそうな警官の心を、男が気づくはずもなく、男はただただ嫌味混じりに女を語り続けている。
「どうしたんだよ……あのアバズレもよさっさと言ってくれりゃあ良かったのによ」
「――痛いぞぉ」
そんな男の暴言の数々を警官は全力で抑えた、つもりだ。だが、どうも止みそうにもない不平不満に警官は見切りをつけることにした。
――なぜなら金棒は、既に裸の男の頭目掛けて振り下ろされていたからだ
「本当にアイツは無能だな。これじゃ、とんだ恥晒しだっての。てめぇの名前とかどうでもいいんだよ。やっぱ、アバズ……いでっぇ!!」
「……誰がアバズレですって?」
よくよく赤鬼を注視してみると、その正体はこの世のものとは思えない程の美貌の持ち主であり、男を匿っていた張本人である事実に、警官は遅れて気づくことになる。