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ガチャーン。
教室に嫌な音が響いた。割れたガラスのかけらが床に散らばりキラキラと光った。そして流れでる液体。
渡されたビーカーが床に落ちて、緑色の液体が流れだす。その周りには放課後の時間であるのに数人の男女がいた。
濡れた床の周りを囲むように男子生徒が、一人の女子生徒に向かって命令する。
「早く、床を拭け。そうしなければ明日の授業が困るだろ。お前が落とさなければ割れなかったのだから」
そういって笑いながら立ち尽くす女子生徒に言い放つ。
彼はその女子生徒の婚約者。
女子生徒の名前はシャーリー・スコット伯爵令嬢。腰まで伸びた長い綺麗なプラチナブロンド、翡翠色よりも青っぽい、青緑色の大きな瞳。その瞳からは今にも落ちそうに涙が溢れていた。
床を拭く道具もないため、シャーリーは自分の制服のポケットからハンカチをとり出した。そんな小さなハンカチでは拭き取れないくらいだが、直ぐに拭かなければと床に膝をつき屈む。
その時、周りにいた男子生徒が彼女を小突いた。
すると華奢な体が揺れた。
「べチャリ」
いやな鈍い音がして、その後から笑い声が聞こえてくる。
シャーリーは、その濡れた床に片手をつき、さらには綺麗なプラチナブロンドの髪が床に落ちた。それはただの液体ではなく接着剤。彼らはそれをビーカーに移し、彼女に渡そうとしてわざと落とした。
接着剤と知らないシャーリーは、べったりとそれが手と髪について動けなくなった。俯く彼女に彼らは冷たく笑いながらさらにいった。
「接着剤を知らないのか。馬鹿だな。俺の婚約者と名乗るのが烏滸がましい。いくら親が決めたこととはいえ腹が立つ」
そう言ったのがシャーリーの目の前にいる婚約者のヒューイ・ブルームフィールド侯爵子息だ。金茶色の髪に茶色い瞳の美青年。彼らは10歳のとき両親たちが婚約を決めた。貴族としてはごく普通のことだった。しかし成長するにつれ、ヒューイはシャーリーが自分の婚約者であることが疎ましかった。
華やかでも、美人でもなく、頭が悪く、さらに笑わない、冷めた令嬢。
彼女のことを周りでは、氷の令嬢や鉄仮面の令嬢などと揶揄していた。
さらにそれに拍車をかけたのが、その周りにいる女子生徒のマリア・ロッテ子爵令嬢だ。
彼女は学園一美人といわれ、長い波打つ赤茶色の髪に薄茶色の瞳、二人が並ぶと絵になる。そのため周りでは、ヒューイの婚約者にシャーリーは似合わないと口々に言い放っていた。マリア自身も入学してすぐにヒューイに近づいた。シャーリーという婚約者がいるのにも関わらず。
マリアは人の物を欲しがる性格なのか、その美貌を武器になんでも思い通りにしないと気が済まなかった。
時間が経つにつれ、だんだんと接着剤が硬くなり、シャーリーは身動きが思うようにとれなくなった。
放課後のため生徒は教室にくることはない。まれに来たとしても彼らが怖くて助けることはないだろう。
するとシャーリーの前にレイモンドがたった。
レイモンド・コーツ伯爵子息。ヒューイの幼馴染だ。
「君がマリアに意地悪をするからこうなるのさ。これに懲りて少しは反省した方がいいよ」
そう言ってから、シャーリーの横にコトンと音がした。
「右手は使えないけど、左手は使えるだろう。はい。これを使えば動けるよ」
そういって笑って、そのシャーリーの横に大きなハサミが置かれた。
彼らはシャーリーを見下げて笑い、ぞろぞろと教室を出て行った。
シャーリーの頬をたくさんの涙が流れる。どうしてこんな目に遭うのだろう。自分が何をしたのだろうか。考えてもわからなかった。でも一つ言えるのはシャーリーがヒューイの婚約者だからと結論付けた。彼の婚約者でなければこんなことに遭わなかっただろう。こんな惨めな思いが卒業するまで続くのかと思うと心が折れそうになった。
すでに日が暮れ、窓から見ると外は薄暗くなっていた。
もう誰も来ないだろう。遅くなればきっと両親が心配する。
彼女は伯爵令嬢だが、家はギリギリ伯爵家を維持していた。
それには理由があった。彼女には双子の弟と妹がいる。その妹は方は幼い頃から体が弱く、隣国の病院で療養しているためお金がかかるからだ。
双子は2歳下の14歳。本当なら自分と同じ学園に通うはずだった。だが二人とも母の実家のある隣国の学園に通っていた。そこは通信制と通学制がある。そのため弟は通学制を選び、妹は病院療養のため通信制を選んだ。
最近の妹は、随分体も良くなっていると聞いた。
その学園は入学時に試験があり、成績優秀者の上から5名は授業料が無料になっていた。そしてその5名に双子は入っていた。おかげで、シャーリーは学園に通うことができた。
ガラっとドアが開く音がした。
すでに教室は薄暗い。教室の中に入ってくる人影が見えた。シャーリーに気がつきこちらに来た。
そして明かりをつける。その様子を見て彼は目を見開き呆然とした。がすぐに膝を折りシャーリーに向かって話かけた。
「これはひどい。随分とひどいことをされたね。付いた手は引っ張れば離れると思うけれど、その綺麗なプラチナブロンドは難しいかな」
そういったのは、この国の第3王子、ハリー・デラード殿下。
彼は私より年下で今年入学したばかりだった。勉強家でこの日も図書館で自習し、たまたま読んでいた本に夢中になってこんな時間まで学園に残っていた。帰る際に先生から明日の授業で使うものがシャーリーのいた教室にあるので取ってきて欲しいと頼まれた。
「殿下、構いません。切ってください。そうしなければ家にも帰れません」
シャーリーは心配する彼に向かっていい、悲しげに微笑んだ。
居た堪れなくなるがこのままでは帰れない、仕方なくハリーはハサミを持った。
目をぎゅっと瞑るシャーリーを思うとやりきれない、女性にとって髪を切ることは辛いだろう。
男の自分であっても悲観的になる。
では、いくよ。そういい、ハリーはギリギリまで接着剤がついていない髪のところにハサミの刃を近づけた。
「ジョキッ、バサッ」
嫌な音がシャーリーの耳の直ぐ側で聞こえた。目を瞑る力がさらに強まる。
すると頭が軽くなり、床から離れる。そして左腕を掴みぐっと床から引き離す。
ーードン。
ようやく体が床から離れた。鈍い音がして、力一杯引っ張ったので二人同時に床に尻持ちをした。
それは無理矢理引き剥がしたためだった。
すぐにシャーリーはハリーに向かって頭を下げた。
「お、お怪我はありませんか。殿下、ありがとうございます。殿下の御蔭です」
そういい何度も何度もシャーリーはハリーに向かい頭を下げた。
それを見るハリーは寂しそうにいった。
「いや、でもあなたのその綺麗な髪を失ってしまった」
「大丈夫です。それにもう、いいのです」頭を左右にふり、そう言ってから床に着いてある自分の髪を見る。
「髪はもういらない」
そう小さく呟くようにシャーリーがいった。
ハリーにはあまりよく聞き取れなかった。でも彼女の顔を見ればわかった。
そしてシャーリーの顔は、もう疲れたとでもいうかのようで、その姿は儚げに見えた。
ハリーは先生から頼まれたものを見つけてから、シャーリーに向かって今から家に帰るのに、一人では危険だからと自分と一緒に馬車で帰るようにといった。恐れ多いと断る彼女にハリーは無理矢理馬車に乗るようにいった。肩を窄める彼女は恐縮するばかりだった。
ハリーと一緒にシャーリーと教室を出て、先生の部屋に向かった。そこで先ほどのことを話した。先生が、教室は明日から封鎖すると、そしてすぐに専門業者に掃除を頼むと二人にいった。
二人が学園を出ると、門の前ではすでに王室の馬車と御者がハリーを待っていた。
四頭立ての馬車はさすが王子が乗る物だ。黒光りして金の縁取りが施される。馬車には王子の紋章がドアにあった。この国の王族には、一人一人に紋章がある。第3王子の紋章がその馬車のドアに金で施され、この馬車が第3王子の物であるのがすぐにわかる。
一緒に乗り込むことに躊躇するシャーリーに手を差し伸べる。おずおずと手を伸ばした彼女を元気付けるかのように優しく握り中へ促す。
ハリーは馬車の中で、なるたけ楽しい話をするように心がけた。
伯爵家に着き、玄関前で馬車が停まった。
それと同時に屋敷からあまりにも遅い娘に両親とその弟が外に出てきた。
不定期な投稿ですが、よろしくお願いします。