つがいの妊婦が現れた!
妊婦が現れた。
どうする?
僧侶は呪文を唱えた。「妊婦よ! 立ち去れぃ!」=産前産後休暇を唱えた。
妊婦はそこにたたずんでいる。
僧侶は呪文を唱えた。「妊婦よ! 立ち去れぃ!」=有休消化を唱えた。
妊婦は家に帰った。
職場は守られた。
すべってね? とかいわれそうだけど、思いついたんだもの!
いま幸せなのだもの!
妊婦がいないだけで、自分として生きられる!
って、昨日まで思って……いた。追い妊婦とかどーしょもないじゃん!
ま。そちらもあと数日で。。。はい。五月になれば! 五月になれば妊婦アレルギーが終わる!
そして、五月病が始まる!!
さて。当方「妊婦様」が苦手でござる!
ほわっ、それだけでそのような刺さるようなご視線を向けられるとはっ。はっ、まさかあなた様はリアジュウ様でございますか!?
相手を鉄板の上に押しつけて、ジュウジュウ焼く係でございますわねっ。やだ、リアル怖いっ。
というのは冗談として。「自分の中の認知領域以外に人は居ない! 存在し得ない」と考え、その常識内で思考をし、相手をただ自分のバックグラウンドだけで判断して、叩く方でいらっしゃるのでしょうか?
それならなおさらちょっとお話を聞いていって下さいな。
世の中いろいろな人がいるものですから。ママ友、というものには「子供が居ない人は入ってこない」ですものね。
私は極めて、「真摯的」にこのお話をしようかと思います。(真摯に、的は一般的につけませんが、紳士的とかけています)
まず「つがい」というタイトルを付けたことには、説明をします。
つがいじゃない妊婦って? ということを考えていただければ、「婚姻関係にある夫婦の元に子供ができたよ」の意味とわかっていただけると思います。
また、妊婦様と表現しましたが、「いわゆる、妊婦様」ではなく、「妊娠した女性」(場合によっては男性)も、苦手でございます。
やつら、子宮というものを持っていて、そこで子供を産み育てるのだぜ! なんたるうらやま!
ああ、卵巣こそが大切ダナ。遺伝子情報のゆりかごだ。
私は子供産めない体質だから、「妊婦とか見ると羨ましい」ので、職場に妊婦が出たら、ぽんこつになります。
どれだけポンコツかっていえば、体調不良の全部を妊婦がいることを由来とするくらい!(言いがかりと言われそうだけど、能力落ちるからね! デバフだからね!)
今回は12月に判明して、そこからずーっと喉が痛かった。のどに何かがつまってるような嫌悪感。
さらには一月の上旬には発熱をして、ずっと左喉が痛く、二月には耳鼻科にかかり、ちょっと改善したけど、まだずっと喉が詰まっていました。
仕事でミスをする……というのは、うーん、そこまでは。ただ「新しいことをやろう!」とか「改善しよう!」という意欲はとてもおちました。省エネでミスしないように現状維持。現状維持。現状維持です。
喉が痛いとかコロナかよとか言われそうですが、一月からですし。クルーザー関係者との接触もありません。
なにより「妊婦がいなくなったとたんに改善した」のですから、因果関係はあるかと思います。(免疫力が上がったとかな! 思い込みの力はすごいのだぜ)
(しかして、一週間後に、落とされるんだぜ……妊婦またでおった……ってか、裏妊婦やった……だから表妊婦が入院しててもずーっと調子悪かったんですね! こじつけですね!)
でも、そちらの方は私の事情をよく知っていらっしゃるため、ここまで裏ボスならぬ、裏妊婦をしてくださっていました。
怪しいとは思っていたのだけど、ここまで隠し通してくれたのは本当に感謝です!
(そもそも、私はぼっちなんで、昼間に職員と会話することはないし、仕事中は仕事会話以外ろくにしないのだけれども)
というか、「そういう会話を聞きたくないから、私は一人で寝るという選択肢をとっている」のですよね。
うちは女性職員の比率が多く、場所によっては「子供の話ばっかりで、ここはママ会なのかい?」っていうくらいなところがあります。
若い子は、そういうの結構デリケートに解ってるけど、「できて当たり前世代」は、本当にひどかったのでね。
本当に妊婦は苦手なのです。「嫌い」ではなく「苦手」なのです。愛憎ともいえましょうか。
そもそも。私は以前「妊婦がでたのを理由に有休をもらったこと」があります。それくらい妊婦だめ。ほんとまじだめ。
一緒の空気すってるだけで、どうにかなりそう。てか昨日とか知った後ずっと涙目。
(っていっても、作中で必要なら書くんだけどさ。あーーもう、気が重いよ! おっぱいねーちゃん勘弁してくれよーもう)
そもそも妊婦みるの嫌で、精神科通うようになったくらいですから!
有休から戻った後に、その年あと二件の妊婦が発生して、なんとか「妊婦と共に生きるすべ」を学んだという後日談もあるわけなのですが。(苦笑)
最近は結婚できぬ、子供もできぬ!! ふぬぅ! というご時世なのですが……
当方の職場はなぜか、婚姻率が異常に高く……
なんでやねん! というのはなんだろうな……仕事が安定しているから、とか、結婚しないと収入が安定していないからとか、いろいろ理由はあるのかなとは思うのですが。
とにかくやたらと、若いうちに結婚するねん。
というか、一般的、王道的な人達が「そう」なだけで、私がマイノリティなだけかいなとも思うのだけど。
生涯未婚率とか見ると、けして結婚している人がそんなに多いわけでもない。
もちろん、女性の多い職場であるということを考えても「適齢期」であったりはある程度ありうるし、周りが結婚していくのに自分だけいき遅れ感というのは、本当に非常に半端なく、激しく痛感しむるわけなのだけれども。
私の場合は最初から子供に関係する権能がなかったので、そもそも「それ」を理由に結婚をしようという風にはなからなかったし、逆に若いうちに結婚をすると、お子さんは? とか聞かれかねないので逆に結婚を躊躇したりしているところだ。(まあ、結婚というのはタイミングもあると思うけれども)
昭和の時代の人間というのは、どうしても結婚=子孫繁栄という考えをとりたがる。
年々その考えは軟化してきているし、たとえ政府関係者が「税制のために家制度を堅持し、お国のために働けよ愚民」などと思っていたとしても、一般的には子持ちであることが当たり前な世の中ではなくなってきているところだと思っている。
とはいえ、慣習というものは本当に至る所に染みついていて。
私なんぞは、テレビ番組を見ていて、「田舎の紳士、淑女」に声をかけるときに「お父さん、お母さん」っていう単語を使うのがとても気になってしまう。そこに気づかないでいいのは、慣習の中にどっぷりつかってそこにいらだちも違和感も感じていないからだ。
また、現状は60~80歳くらいだと、子供がいる可能性の方が遙かに高いというのもある。
そこに違和感を持つのは私のような異端だけなのだろう。
(こだわりの方向からすると、若干アスペってるところもあるのかね、ほんと)
うちの会社の場合、結構三年目の結婚をする人が多いように思う。
同期も三年目に結婚だった。
割と学生時代から付き合いがあって、そのまま結婚というパターンが多いみたいだ。
つまりは、学生生活をどれだけ上手くやれたのか、というのが結婚に影響するパラメータが大きいように思われる。
なぜ三年目なのかと言えば、仕事が安定してこの後も続けられそうだ、となったら結婚もできるよねという話があるからだろうか。
私の三年目とか、職場に妊婦の先輩さまが現れて激鬱で薬漬けだったものなのだが。
となると学生生活というものがいかに大切なものなのか、というのが透けて見えるように思う。
とはいえ、「学校は別に、人間関係を学ぶ場」などではないと私は思っているし、「不登校」であることもよい選択肢だと思っている。
私にとっての「学校」という組織は「人間関係を円滑にできるかどうかのふるい分け」をする組織であって、育む場などではないものだからだ。
だって、学校じゃ人との付き合い方とか教えてくれないじゃない?
仲良くしなさいってせんせーから言われても、はーい! ってならないじゃん。
ただ「同じ枠に入れる人だけ」を拾い上げて、そこからこぼれちゃった人達に「やれやれ、またお前達なんかやっちゃいました?」って肩をすくめるところでしょう?(え、違う?)
ちなみに学校で教える学問は、せいぜい使えるのは小~中学生の分くらいじゃないかと個人的には思っている。
おまけに100点じゃなくても社会ではやっていけるのである。まあ知恵がないとだまされるし、情報の扱いが下手だと生きにくいというのはあるだろうけれども。
賢い方が人にだまされにくいし。いいたくはないが「だましやすくなれる」から、良心がうずかないなら勉学に励むのもよいと思う。
現状、高収入の人は「発想がとがっている」「人を上手く扇動」した人だと私は思っている。
違法行為はもちろんダメなのだけど、それでも「収入がいい人」は今の世の中真面目にやってるだけではダメで、利益を出せる人材でないといけない。
例をだすなら、国会議員とかは、収入はいいけど、けして「勤勉でも、博愛主義でもない」わけで。利己的かつ、周りをおもっている「ふり」をどれだけできて、周囲を魅了できるのかというのが、政治家の必須スキルなのだろうと私は思っている。
おっと。話がずれた。
学校の卒業については、周囲の同調圧力もあるのだろうと思う。
実際、高卒と大卒と、大学院卒では扱いは変わる。
能力で、という話はあるけど、実際そこらへんはどうなのだろう?
残念ながら私は知るすべがないけれども。
赤点ぎりぎりだろうと、楽しくリア充してうまいこと「人と付き合う」ことができる人か。
自分の道を選べた人というのが、学校生活での正解を引いたんじゃないかなと私は思っているのです。
後者の方は「学校をリタイア」しても、自分の得意で好きなジャンルで研磨ができれば、形になるのだろうと思うのですよね。
なので、私としては自殺するくらいなら不登校になっとこうか? という風に思う訳なのです。そんなに学校ええとこやないもの。
ループしてイベントしっててもう一回って言われても……さぁ、どうなんすかね?
ああ、だからTSさせるんだね、みんなね。そうすりゃリセットして、別人として生き直せるからね。
もとの性格はかわらんと思うのだけども、TSすると「ねくら」が「おとなしい」とか「清楚」とかに変わったりっていう風に思ってるのかな。
まあTSをきっかけに、「生き直そう!」となるなら、それは転生と同じようなきっかけにはなるだろうけれども。
さて、話を戻そう。
妊婦である。
十月十日で腹の中で、生き物を育てる存在である。
産んでないうちは妊婦であり、まだ母ではない。
我が職場は妊婦対応はかなり厚遇されているところだと思う。
体調不良があれば臨機応変に有休が使えるし、産休期間前に有休を使って休むことができる。
補充人員の予定がつくから、普通の休職よりマシだとかいう話もないではないですが。
(でも今回補充はないっぽい)
現代医療があるからこそ、出産行為というものはかなり安全性が高まりましたが、基本的には致死にいたるものであります。
なので周りがサポートすることは当然のことだし、私自身妊婦がいたら、最大限に手を貸します。
例えば電車で目の前に妊婦がいたのなら、さっと席を譲って隣の車両に移動します。
これは小さい子や、赤子連れなどでも適用されます。
見たくないからさっさとその場を、華麗に去るのです。
仕事ではそうですね。
私にさほどの権限はないのですが、まあ「本人がやれる範囲」でやってもらう感じでしょうか。
何もやらせない、は逆に人間にとっては苦痛のようでもあり、日常生活を送りつつ不測の事態に備えるといった感じでいいのではないでしょうか?
もちろん、腹圧がかかるような業務は、とは思いますがそこまで重いモノをもつことがない事務業務ならば影響はないかなと思っています。
そこまで配慮はしています。だから「妊婦がうらやまけしからん」と私が思うことを許して欲しいのです。
少子高齢化の中、妊婦がヤ、というとみんな狂ったように、なにいってんだ、このごぢゃっぺがぁ! などといってくるわけで。
(注:ごぢゃっぺ:茨城王国における、ごぢゃごぢゃしている=よーわからんことをいう意)
被害妄想ももちろんあるんですよ。
あるんですが、「妊娠の話は堂々と語られる」けど、「妊娠できませんでした!」てニュースは流れないでしょう?
アングラでしょ?
アンダーグラウンドでしょう?
おまえが話せる土壌をつくれって? けっこう悩ましいのです。
「不妊」という単語にみなさまはどういう感情をもつのでしょうか?
「いまだ、妊娠していないもの」これではないかと思うのです。
広義では誰しもそうです。
男性にかんしても「不妊だ」といえます。
(いつか、妊娠するようになるかもしれないじゃないのよう! ぷんぷん)
ここで新たな概念「不妊治療をしている人達」が登場します。
不妊治療というのは、「ふつーにやってて、しばらく子供ができまへん人達」がやる治療です。
結婚して何年とか、ぴーがどうのとか、線引きはあるんですが。
負担は大きく、保険もろくにききません。40過ぎたら一人つくるのに1000万だとかいう話もあります。
(私としては1000万はらってできるならうらやまなんですがね)
自然状態だとなにかしらが悪さしていて、子供ができにくいということです。
あー、そのプロセスに関してろうろうと語るのは、私は問題はないと思っても、誰かが問題と思うだろうから、興味のある人は高校生物の発生から、調べていくといいと思います。
人間さんは動物さんです? っていう感じですね。
さて。この人達に対して「不妊症」と名付けた医師は、ちょっとぶん殴りたい感じがあります。
外国医師で、日本語訳の時にやらかしたのかもしれませんが。
基本的に「不妊治療をしている人」というのは「まだ、妊娠をする可能性がある人」です。
不能なわけではない。
十年前くらいにちょっとだけ声があがった「未妊」という単語が適切だと思うのです。
産婦人科学会もこれつかえばいいのに、「はいはい、治療を要しないひとたちはうちらの患者じゃないんで、そっちに配慮する必要はないよ」といったかは知りませんが、いまだに、「不妊症は不妊症」です。
ようは。
不妊なんだよねーって話をすると、「大変だね」「がんばって」って言われちゃうわけですよ。
完全にできないんだってば。
そこらへんがどうにも一般の人には想像できないらしい。
子供はできてあたりまえ感! 圧倒的な当たり前感でございます。
そして。子供がいないとどうなるかっていうと。
「仕事にイキロ」って言われるんです。
子育てしないやつぁ、せめて仕事しろって。まったくほんと、一億総奴隷国家ですからね。
まじ、うざったいもんです。
さて。長くなってきましたので。
「子供は親をえらぶ説」これを全力否定して終わろうかと思います。
一部のネットロア……ではないな。
いや、でも恐怖体験だろうが。
世の中では、子供は親をえらんで胎にはいるという話があります。
スピリチュアルな話で、これ自体は「子供を虐待しないようにする」ためのブラフであっても私はいいと思っています。
たとえ、できの悪い子でも「自分を選んでくれた」と思えば、親は子供を慈しみます。
男親の場合は、蹴って殺したりするそうですが。
ただ、反面これは「選ばれなかった相手」として「不妊」やらで子供ができない人達のことを貶めます。
これについて、私は「むかー!」「むきー!」とか思っていたのですが、ちょっとしたひらめきが先ほどありました。
「繁殖可能な妊婦」、「子供として生まれ落ちる可能性が高い」ところから、「選んで」子供ができる説、です。
うん。「いれもの」としての肉体が作れない不妊の人はもともと「選ばれない」って言う話です。
だから、「子供に選ばれない」から「子供ができない」のではなくて、肉体のコンディション的に「器ができない」状態だから、選ぶ子供の魂的なものも、見向きできないということだと思います。
(だって、器がないと、そのまま死ぬでしょ。選ばないじゃん)
だから「いい人だから良い子がくる」とかいうのはなくて。「繁殖能力のある牡胎から、選んで子供がでてくる」って解釈でどうなのかな? と思うのです。
それをいうなら、「いい人だから、良い子が育つ!」これが真理です。教育こそがいい人を育てるのです。
魂というものは、一度漂白されているのだから、まっさらなものなはずなんですよね。
巡り合わせと、環境が人を作るのであって、選ぶってのはなんか違うような気がするのです。
もちろん、子育ては大変だというのは理解していますから、「この子は選んでうちに来てくれた、だから頑張る!」と歯を食いしばるのはとてもいいことだと思います。
ただ、その言葉は他人に対して言って欲しくないな、っていう感じなんですよね。
自分に向けるべきであって、不妊症の人とかに「いつかあなたを選んだ子がやってくる」とか言った日には……そしてその後子供できなかったら、もー、目も当てられないじゃあないですか。
まあ、「あたりまえ」が実は「あたりまえじゃない」っていうのは「あたりまえじゃない側」にしかわからない事。
それを、あたりまえ側に「知ってもらう」(注意:解ってもらうの前段階)のはとても難しいことだと思います。
だからこそ、あたりまえじゃない側は、常に思考をしなければならないのだと思います。
さて。あと二日だーー!
全力で、無気力に、現状維持するぞーい!