呪いのキーボード
次の朝、あたしの顔を見るなり、ミントが詰め寄った。
「お前、外人の超美形と付き合ってるって?」
「奈月に聞いたのね」
「ほ、ホントなのか」
どもるなよ。
「車で送ってもらっただけよ。
兄貴の知り合いの人なの」
「なんだ、そうかあ」
見るからにほっとしてていいのか、ミントよ。
「良かった、オレ、捨てられるのかと思った」
あたしはあっけにとられて、ミントの顔を見直した。
先週の段階で、あたし、捨てる気満々だったんですけど。
そのこと伝えたはずなんですけど。
今さら慌ててるって事は、伝わってなかったわけ?
鈍いのか、現実を見つめたくないのか、どっちだろう?
あたしとミントの関係は、あの別れ話以来、膠着状態だ。
あたしはもうふたりきりで会う気がしないし。
ミントも、苦し紛れに提案したダブルデート作戦が大失敗だったので、もうどうしていいかわからないのだった。
このまま自然消滅して欲しい。
そう思うのは、あまりに虫が良すぎるか。
昼休み、音楽室に入ってびっくりした。
もう他の人たちは揃っていた。
それが全員、3年生なのだ。
バスパートのリーダーをしている五木先輩。
バスのナンバー2、宇野先輩。
テノールで、去年の定期公演でソロを歌った、羽賀先輩。
アルトも、パートリーダーの吉行さんと、ソロの常連、花井さん。
ソプラノからはリーダーの間壁さん。
そして、部長の緑川先輩。
え? 一年生はあたしだけ?
「ええと。 お疲れ様です。
お話しましたとおり、9月の定期公演の件です」
部長が、あの艶のあるバリトンで話し始めた。
「実は、今年から新企画が上がっておりまして。
アカペラのジャズやロックを、2曲ないし3曲入れたい、との事です。
昨年もリズム物をやりましたよね。「天使にラブソングを」から、ブギウギ風ゴスペルを持ってきて好評だったんですが、今年もあれをやるつもりでいたら、客演をお願いしているエルデジット音大の方々が、同じようなのをされると言われたのです。
で、じゃあうちは、マイク入れて、ハモネプ風に砕けようかと言う話になりました」
「でえ〜! ボイパなんかできねー!」と、宇野先輩。
「まあ、ボイパは時間が足りないので、簡単に出来るものを一つ入れるくらいで。
あとは手拍子足拍子、ということにしましょう」と、部長。
「いつもやってるオペラの独唱はどうなるの」
と、吉行さん。
「だからそれを、五木くん、羽賀くん、吉行さん、間壁さん。
各パートのトップの人にやってもらうということです。
もしもの時を考えて、代役も決めなきゃいけないから、もっと人数は増えますけどね」
「でも、待って! じゃあ、アカペラはキンギョちゃんがソプラノ?
無理よ、まだ一年で入ったばかりなのよ!」
間壁先輩が慌てて言う。
あたしもそう思う。
「それについては理由があります」と、部長。
「ロックのナンバーはテノールとアルトがメロディになる。
ソプラノは最高音だけど、サブになる。
なまじ声量があると、マイクを絞るのが難しい。
間壁ちゃんあたりだと、ボーカルを食っちゃうよ」
「声を抑えるわよ」と間壁先輩。
「半分シャウトしてほしいくらいなんだ。
抑えたら面白くないじゃないか」
「じゃあ、2年生にやらせましょうよ」
「2年は音が下がるじゃないか。
無伴奏なんだ、みっともないぜ」
「キンギョちゃんなら下がらないっての?」
間壁先輩、むきになって叫んだ。
「この子は下がらないよ」
部長がきっぱり言った。
「音程が狂わない。 リズムも正確だ。
ないのは声量だけなんだ」
「部長、無理です」あたしも訴えた。
「実力もまだないですし、あたし入ったばっかです。
ここで積み重ねたものが、まだないんです。
定期公演という発表の場にはふさわしくないです。
2年生と3年生の方に、練習の成果を出して貰ってください!」
「キンギョちゃん、じゃなくてかなをさん」
部長は、眼鏡の奥の目を細めて笑った。
「一応、先生の了解も取れてるんだよ。
返事は急がないから、もう少し考えよう。
9月まで間がある。 練習の成果というのなら、その間にも積んでいける‥‥」
ピーッ!
ミ♭の音がした。
全員が体をこわばらせ、キーボードを見た。
ケースに入れたまま、壁に立てかけてあるのに。
「いやあ‥‥なんで鳴るのよ‥‥」
女子が泣き声で騒ぎ出した。 それでも音は止まらない。
「いいかげんにしろ!」
緑川部長が壁を、バン!と叩いた。
音は止まった。
「受けちゃダメよ、キンギョちゃん」
音楽室を出て、教室に戻る途中。
間壁先輩が追いついて来て、あたしに釘を刺した。
「今回は断った方がいいわ。 2年が黙ってないわよ。
合唱曲の中にも、パートソロ入ってるのは少ないしね」
「あたしも、受けるつもりはないですよう」
女同士の人間関係は、壊すとあとが大変だ。
あたしだって、わかってる。
「緑川くんって、とことん音にこだわるからね。
彼の言う事は正しいし、よく見てると思うわよ。
キンギョちゃん、基礎的な力はあるのよ。
‥‥でも気をつけなさい。 緑川くん、ああ見えて手え早いから」
「え?」
なんでいきなりそっちの話になるかな。
「うかうかしてると、キーボードの呪いにかかるわよ」
「キーボードの呪い?」
聞き返すと、間壁先輩は声を落とした。
「あのね、あのキーボードのもとの持ち主は、世良ゆきなさんっていう人なの。
あたしらより2コ上の先輩よ。
それがどうも、一年坊だった緑川くんにふられて自殺したって噂があるんだ」
「そんな最近なんですか?」
「だから、緑川くんが女子にちょっかい出すと、キーボードが鳴るのよ。
キンギョちゃん、昨日も鳴らされてたじゃない」
「あ、はあ」
「いい?忠告したわよ。
ゆきな先輩の霊に取り憑かれたくなかったら、断るのよ!」
イヤに断定的な言い方を、先輩はした。
なんとなくだけど。
間壁先輩って、部長の事好きみたいな気がする。
あの人、面食いだしな。
でも、いかにもカタブツって感じの部長が、女に手が早いって?
これも、イメージがわかない。
ユルミの時も思ったけど、そっちの話になると、あたし人を見る目ゼロだなあ。