ピアニシッシモ
陸橋を駆け上がってきた部長は、軽く息を弾ませていた。
水滴で役に立たなくなった黒ぶち眼鏡を、めんどくさそうに外した。
そいつをポケットにねじ込みながら、こっちへ歩いて来た。
やっぱり、イケメンじゃん‥‥。
近づくにつれ、囁くような歌声が聞き取れた。
♪全て 捧げ尽くせしに
早も 心移りしか
はかなし 愛の誓い
悲しき思い出は 尽きず♪
小さな、ホントに微かな音量で。
きっとずっと歌いながら来たんだ。
息が弾んでても、歌が途切れないのは、さすがプロ志望だ。
あたしは吸い込まれるように、部長の胸にダイブした。
彼の服も、雨に濡れてまだらになっていた。
もう泣いてもいいよね。
我慢しなくていいよね。
あたし、頑張ったもん。
たくさん悲しむ権利があるよね!
「全弾投入したのか」
歌を止めて、部長が訊いた。
あたしがすっぽり入ってもまだ余る腕の中だ。
「はい」
「矢尽き刀折れたのか」
「はい。‥‥でも、すみません部長‥‥」
「なんだ」
「部長の忠告、あたし守れませんでした」
「忠告?」
「一線を越えるなと言われたのに」
「あ。やったのか」
「やっちゃいました」
なんか、すごーくマヌケな会話になった。
「まあ仕方ないさ。
全弾投入だからな。
玉砕ってことは、何もかも試してみたって事だろ」
あたしはちょっと黙って、考えた。
ホントはもっと攻撃のしようはあった。
もう最低のやり方ならもっと弾はあった。
でも、それは真ん中のやり方じゃない。
部長はあたしの濡れた髪をそっと撫でた。
「惜しかったな。
ガス爆発がなければ、いいセン行ってたのにな」
「そうです‥‥」
「悪いのは道路工事だな」
「そうです」
「道路公団、税金ドロボーだな」
「そうです!」
唇から、嗚咽が漏れた。
くやしい。
くやしい。
くやしい。
一生分頑張ったのに、ついに叶わなかった。
れんさんが好きだったよ。
れんさんが欲しかったよ。
一生ずっとじゃなくたっていい。
たった一年でも、一ヶ月でもいい。
あたしのものにしたかった。
部長はあたしの髪を撫でながら、歌の続きを歌い始めた。
最弱を示す、ピアニシッシモの音量。
鼻声になっちゃったあたしの代わりに、歌ってくれてるんだろう。
♪野をよぎり 果ても知らず
流れ行く 小川のごと
変わらじと 君は契りぬ
されど今 君はいずこ♪
部長の体に、耳を押し当てる。
カラダを揺する振動がある。
れんさんのときは胸板のトコだったけど、部長は背が高いからみぞおちに耳が当たる。
呼吸の流れが耳に響く。
腹筋を入れる緊張がつぶさに伝わってくる。
「あッ‥‥」
あたし、つい声を出してしまい、口に手を当てた。
なんで?
あたし今、「来て」る?
部長の声で「来た」ことは、これまで一度もないのに!
ヤバ‥‥!
心拍数、上がって来た。
泣いててそれどころじゃないってのに、どうなってるんだ、あたし!
そうか。部長のこの声。
軽く息が切れてるから、ハスキーになってるんだ。
しゃべる声はバリトンで低いけど、歌う声はテノール。
れんさんの声とは質は違うけど、同じ条件だ。
小声で。
ハスキーで。
テノール。
同じトコに、来る。
しかも、これ、鍛えてるだけあって、声のパワーが違う。
迫力がある。身にこたえる。
ヤバい。怖い。
‥‥気持ちいい‥‥。
我慢できなくなりそう。
一曲歌い終わった部長に、あたしは食ってかかった。
「やだっ、どうしてやめちゃうんですか!」
部長は面食らって、目を白黒させた。
「どうしてって、終わったからだろ?」
「中途半端に止めないで下さい」
「おしまいまで歌ったじゃないか‥‥」
「じゃあ、もう1回歌って下さい!」
「でもそろそろ帰らないと、このカッコじゃ風邪ひくだろ?」
あたしは唇をとがらせた。涙がぼろぼろ落ちた。
「どうしてそんな意地悪するんですか?」
「おい。意地悪って‥‥」
「あたしを焦らして、楽しいですか?」
「き、キンギョちゃん?」
「あたしがいいと言うまで、歌って下さい!!」
うわー。あたしメチャクチャだ。
これって、えっちをおねだりしてるのと一緒じゃないか。
途中で気がついたんだけど、もう止められない。
だって。
ホントにイキそうだったんだもん!
あたし、部長のみぞおちに耳を当てて、スタンバイした。
「早く、部長!もう一回歌って下さい」
完全に開き直って、ねだった。
あたしはまだ知らなかった。
まさか将来、この部長があたしの夫となることとか。
結婚式で、この不吉な歌をデュエットさせられるハメになることとか。
夫婦の寝室での夜の会話が、まさにこのおねだりのパターンになることとか。
あのコンピュータの相性占いが、一語一句外れず実現することになるとか。
この時点では、予測もつかなかった。