人魚姫
最高音でシャウトする。
眉間に当てていた息を、天頂へと放り上げる。
目を見張って、耳で引く。
ああ、わかった!
「頭の皮を、耳を使って後ろへ引く」、こうか!
腹筋の力が咽喉へ抜ける。
抜けた抜けた!
正面でメロディをシャウトする部長が、口の端に笑みを浮かべた。
「なんとかなったじゃない」
花井先輩が、あたしのほっぺを指先でつついた。
「今ぐらい出せば、他のパートと遜色ないわよ」
よかった!上手く行きそうな気がして来た。
「もうちょっとテンポ上げるからな。
腹に息落とすタイミング、ずらすなよ」
大林先生がメトロノームをいじる。
「えええ!まだ上げんの?」
「ブレスめちゃめちゃムズいぞ」
先輩達が悲鳴混じりに抗議する。
アップテンポにした方が、あたしは調子がいい。
「おっかしいなあ、なんでキンギョちゃん、こっちの方が声が出るんだ?」
宇野先輩があたしと並んでやってみる。
「ブレスどうしてんだ?オレとリズム一緒だよな」
「ここのワン・ツー・スリ・と・タ・ターンで、“と”のあとにシャウトです」
「え?その間に腹筋入れんの?」
「Rockin- Rockinのnでブレス、iで腹筋入れます」
「あ。そうか」
「ええ?そんな変なトコでブレスなの?」と、花井先輩。
「だってそこしか入りませんよ」
「すげえ。オレここで入れてた、Ahの前」
「そこで入れると出遅れるんです」
「なるほど」
緑川部長が、満足そうににやにやしている。
「だから言ったろ。キンギョちゃん、リズム感がいいんだって」
「お前の手柄かよ」と、宇野先輩。
大林先生が、したり顔でうなずいた。
練習が終わって帰ろうとしたら、大林先生が、
「かなを。ちょっと話さんか」
音楽準備室から手招きした。
「待ってようか?」と、緑川部長。
「バーカ。カレシが迎えに来んだろ?うぜーよ」
羽賀先輩が、部長の長身を引きずって出て行った。
音楽準備室の奥には、こっそり小型冷蔵庫が置いてある。
先生はそこから、缶ジュースを出してあたしにくれた。
「がんばってるな」
「はい、少しはマシになってきたみたいで」
「うん。ついて行けてる」
先生は缶コーヒーを開けて、飲みながらパイプ椅子に腰掛けた。
あたしにも椅子を勧めた。
「話というのはな、廉のことなんだ」
あたしはビックリした。
れんさんのことを大林先生から言われたのは初めてだ。
「言いにくい話になるんだがな。
廉のヤツ、夕べ、俺んとこへ相談に来たんだ。
大学やめて働くから、結婚させてくれと言ってね」
「結婚‥‥って」
あたしは思わず立ち上がった。
「正確には、そう言って自分の親、つまり俺の兄貴をね、説得して欲しいって話だった」
先生は、手で座れと合図してから続けた。
「ポエムって名前の子がいただろ?」
「エムさん‥‥」
「廉が事故に遭ったって騒いでたあの日な。
そのポエムちゃん、発作的に3階のベランダから飛び降りたんだよ」
「ええ!?」
あたしは愕然とした。
「じ、自殺ですか」
「まあ思い詰めて衝動でしたことだろうな。
それが頭から落ちるつもりが、半回転して足から着地した。
命には別状無かったらしいが、足がな」
「治らないんですか?」
「膝と、股関節がちょっとイってるそうだ。
リハビリすれば車椅子は免れるが、不自由な歩き方になるだろう」
普通に歩けなくなる?
あの、とびきりスタイルのいい人が?
あたしはこの時、まるきり無反応だったと思う。
どうリアクションしていいかわからなかった。
『あたし、死ねって言った。死んじゃえって。
本当に死んじゃったらどうしよう!』
エムさんの声が、耳の中でこだましていた。
れんさんを失って、錯乱するほど好きだったんだね、エムさん。
その時あたしの頭に浮かんだのは、何故か童話のワンシーンだった。
“王子様の愛を得られなかった人魚姫は、
海の泡になって消えてしまうのです。
それがいやなら、この短刀で王子の心臓を刺しなさい。”
「かなを?大丈夫か?」
大林先生が、心配そうにあたしの顔をのぞきこんだ。
「あ‥‥。大丈夫です。
先生、れんさんは、責任を取ろうとしてるんでしょうか?」
「うーん、それも勿論あるんだが。
だが他にもふたつばかり理由がある。
まず、今度のことで、ポエムちゃんの婚約話が破棄になった」
「あ‥‥」
「プロポーズの相手が引いちまったんだ」
無理もないか。
前のオトコの後追い自殺を図った女、って。
ちょっと遠慮したいかも。
「もうひとつの理由はな。
卒業の時に、二人が別れた状況だ。
廉の女癖じゃ、遠恋はキープ出来っこないと、二人ともが思ってそれで別れたんだ」
「それは聞きました」
「あいつ、廉のヤツな。
昔から、親と折り合いが悪い子でな。
よく大喧嘩しちゃ、俺んとこへ飛び込んできて、泊めてやったりしてたんだ。
悪い子じゃないのに、親にうまく認めてもらえんのだ。
まあ、そういう寂しさを、恋愛で代用しようとしたんだろうな。
女癖が悪くなったのは中学からだったが」
先生は缶コーヒーをゴクゴク飲んで、続けた。
「とにかく今度のことで、ポエムちゃんは一人で生活できなくなり、親元へ帰ってくる。
つまり、恋愛の障壁になるものが、何にもなくなるわけだ。
あいつも、家庭に飢えてるわけだから、結婚して家が出来れば、一人に落ち着くだろうと俺も思う」
あたしは、れんさんの家族を思い出した。
見かけも雰囲気もれんさんと全然違う家族。
あたしが代わりになってあげようと、あの時思った。
でも、れんさんが選んだのは、あたしじゃなかった。
「とりあえず大学は出とけ、って俺は言ったよ。
女房子供養うには、資格も学歴も必要だ。
今はまだポエムちゃんだって未成年だ。
婚約だけにして、親御さんに預けとけってな」
「先生‥‥。今の話、れんさんからの伝言ですか?」
「いいや。俺が勝手に話したんだ」
「れんさんが、あたしに伝えてくれって頼んだんじゃないんですね?」
「廉は自分の口で話すって言ったよ。
かなをのことは、何べんも言ってた。
悪いことしたって。
約束破っちまうって」
あたし、膝の上で拳を何度も握り直した。
「だけどなあ。俺は廉も可愛いけど、かなをだって、俺のかわいい生徒だ。
顔見て、話して、確かめたかったんだ。
廉に話を聞いた後で、ポエムちゃんみたいに自殺未遂とかされたくないしな」
「しません、そんなこと」
あたしはきっぱり言った。
「れんさんと、ちゃんと話をします」
「そうか‥‥。しっかりしてるな、お前は」
「可愛げがないんです」
怒ったような言い方になってしまった。
『あやちゃんは可愛い。ホントに可愛い』
れんさんのハスキーボイスが、頭の中によみがえる。
どこまでしっかりしていられるだろう。
メールが2本入ってる。
1本はれんさんから。
『公園横で待ってる』
もう1本は、エムさんから。
一度開いて、すぐ閉じた。
今は読めない。読んじゃいけない。
石の様に重くなった足で、公園横に向かう。
あたしは王子を殺せない人魚姫。
海の泡になれずに、何になろう?
ようやく最終段階に入って来ました。
もう少しお付き合いくださいね。