れんさんの失踪
「もし中に人がいてね、運び出されたらね。
必ずここに連れて来るからね。
それまでここに座っててね。
悪いけどここに君の名前、住所、電話番号。書き込んでおいてくれる?」
職員のものらしい車の中に連れて行かれた。
人ごみからは離れた場所だ。
隣に、救急車とレスキューの車が停まっている。
「それとね、カレシの名前と住所とかもわかるかなあ。
あのウェストポーチの持ち主の人ね。その人の名前を、こっちの紙に書いて‥‥」
職員のおじさんが、手馴れた様子で書類の書き込みを手伝ってくれた。
氏名欄に“広瀬 廉”と書いたら涙が出て来た。
これは夢だ。悪い夢。
あたし、れんさんの腕枕で寝てしまったんだ、きっと。
あたしの携帯が、カンツォーネのメロディを奏でた。
緑川部長だ。
「おい!なんで練習に出てこない?
アカペラメンバー、ぶうぶう言ってるぞ」
そう言えば、集合時間を過ぎている。
あたしは事情を説明して、今日は休ませて欲しいと頼んだ。
部長もさすがに息を飲み、少し優しい声になった。
「わかった。
大林先生に言って、自宅にも連絡入れて貰った方がいいだろうな。
まだ時間かかりそうか?」
「瓦礫を全部運び出すつもりみたいで‥‥。
5時前後には終わるって言ってます」
「うん。意外としっかりしてるな」
部長は言った。
「やなこと言うけどな。最悪の覚悟はしておけよ。
僕は部員の指導があるから抜けられないが、終わったらそっちに行くから」
あたしは黙って携帯を切った。
部長の言うことは、いつも現実的で、厳しい。
現場が見えない場所で、待っているだけの状態はつらかった。
今しがたまであたしにいろいろな言葉を囁いてくれたれんさんの顔が浮かんで、あたしを混乱させた。
3時を回った頃、職員に案内されて、数人の男女が車から降りて来た。
れんさんのポーチを手にとって、中を確認している。
どうやら彼の家族らしい。
車の中からその人たちを見て、あたしはギョッとした。
誰一人、れんさんと似ていないのだ。
お母さんはフクロウみたいに目ばかり目立つ丸顔のおばさんだった。
お父さんは、なんだかものすごーく四角い顔のおじさんだった。
妹が二人いると聞いてたけど、一人しか来ていない。
それがまた丸顔の、いかにも日本的な下膨れの顔で。
この中に、ハーフみたいな顔のれんさんが入ったら、一人だけ、家族じゃなく客人に見えるだろう。
前妻の子で、外国人の血が入っていると言うなら、納得も行く。
でも、れんさんは以前、「カケラも入ってない」と言った。
なんだか胸が痛くなった。
家族の絆は外見じゃない。‥‥ことはわかってる。
でも、れんさんは寂しかったんじゃないかな。
自分の出生のこととか、悩んだこともあったんじゃないかな。
あんなに女の子と遊んでたら、家に帰る暇ないんじゃないかと思ったこともあった。
でも、もしかしたら、戻り辛い家だったのかもしれない。
不意に、強い悲しみがあたしの心に満ちてきた。
生きてて。れんさん、生きてて。
戻って来て、あたしと遊ぼう。
本気の恋じゃなくていいよ。
手のかかる赤ちゃんやってもいいよ。
お母さんの役も、してあげるから。
お願いだから、生きていて。
にわかに外が騒がしくなった。
担架が運ばれて来たのだ。
一つ目の担架は、車の前で止まらず、さっさと通り過ぎてしまった。
あたしは車のドアを開け、外へ飛び出した。
「あの、なんで見せてくれないんですか?」
さっき書類の世話をしてくれた職員のおじさんに抗議した。
「今のは女性で、しかもお年寄りだ。
関係ないものは見せないよ」
おじさんはそっけなく答えた。
「中にいたのはあと一人だけで、そっちは若い男性だ。
ただ、残念ながら、すでにご遺体だよ」
「うそ‥‥」
「爆発で崩落した大きい瓦礫の下敷きになって潰されてね。
ちょっと顔とかは確認できない状態なんだ。
今、運んで来るけどね。
ご家族に確認してもらうから、君は見なくていいよ」
「いや。見せて!」
あたしは反射的に叫んだ。
「見ない方がいい。相当ひどいことになってるよ」
「見ます。会わせて!」
おじさんの反対を押し切って、あたしはれんさんの家族の後ろから、運ばれて来た担架を覗き込んだ。
人の形はしてなかった。
どこがどうなってるのかわからない物が、そこにあった。
赤黒い泥が、赤黒い布と混ざって固まっているような。
「服の布に見覚えがないか、見てください。
これ、ブルーのジーンズだと思うんですが。
見覚えありませんか?」
誰も質問に答えられなかった。
お母さんが口を押さえて、車の陰に走りこんだ。
あたしも吐き気がし始めていた。
でも。
口を押さえたまま、あたしはおじさんに言った。
「ここ、ひっくり返してもらえませんか?」
「ええ?」
おじさんは目を剥いた。
「ひっくり返すったってこりゃ‥‥」
「ジーンズのラベル、これボブソンって書いてありませんか?」
「うーん。そうかもしれん」
「れんさんのはリーバイスだった」
「こりゃまた細かい‥‥」
「それとこのシャツ、プリント柄ですよね」
「たぶん。そのようだね」
「クリーム色の無地を着てたんですけど、そういうものに見えます?
違うと思います、これ‥‥」
そこまで言って、あたしもとうとうリタイヤした。
車の陰に走って行って、吐いた。
結局、あたしは違うと言い、家族はわからないと言った。
それで、遺体は確認できず身元不明ということになった。
でもその日も次の日も、れんさんは自宅に戻らなかった。
宙ぶらりんな情報はあたしをいらつかせた。
れんさんは行方不明になった。