れんさんの真ん中
東京本選は、日曜の朝9時から夕方5時まで。
なのに何故、土曜日から行くかと言うと、朝、声出しをする時間が取りたいからだ。
歌い始めて、咽喉が立ち上がるまで20分ぐらいは欲しい。
朝9時に会場入りするまでに発声を済ませておくには、寝起きでガンガン歌いこんでから移動しなければならない。
咽喉に負担が掛かる。時間もあせる。
それで、宿を取って6時起きして、発声してから会場に行くのだ。
土曜日は昼過ぎて集合だった。
東京入りして、まず会場の下見をする。
そのあとぞろぞろ歩いて宿舎入り。
部屋割りを見ると、パートごとで固まって大部屋だ。
これを毎年やるから、アルトがビョーキになるんだな。
「6時から食事、そのあとミーティング。
それまで部屋で少し休め。
部屋の外で騒ぐなよ!」
大林先生が、手早くみんなに伝達した。
あたしの携帯は、さっきから鳴っている。
れんさんだ。
あたしがおねだりした、5時の定時通話。
廊下に出て、喫煙所のソファで電話に出た。
「あやちゃん?無事着いた?」
ああ、やっぱり、この声好き。
「はい、今ホテルに入ったところです。
みんな遊び気分で大騒ぎですよ。
緊張してるから、誤魔化そうとしてるのかもしれないけど」
「あやちゃんは大丈夫?」
「あたしはまだ初めてだから、どこでアガッたらいいのかわかんなくて」
「そうか」
「はい」
「あのね、あやちゃん」
「‥‥はい?」
「雷の日の話の続きがしたい」
あたしの心臓が、ズドンと波打った。
「ユルミちゃんのことだけじゃなくて、僕は癖が悪い」
「‥‥れんさん」
「高校時代からこれだ。
馬鹿ばかりやって、大抵本気で付き合った子に一年で逃げられる」
「‥‥ベーコンのモトカノにも?」
「あれは相当深入りしたから、まだグズグズしてる」
「まだつながってる?」
「もうやめたと言いながら、会う度にズルズルと抱いてる‥‥。失望した?」
「なんであたしにそこまで話すんですか」
「あやちゃんとは遊びじゃない」
「‥‥ウソです」
「信じなくてもいい。
それに、イヤになったら、今やめてもいい」
「またあたしがブレーキですか?
れんさんの気持ちは?」
「あやちゃんが好きだ」
それは、ウソでしょう。
それはずるいでしょう。
れんさん、自分のやってることがわかってる?
そして、あたし。こら、あたし!
グラグラするんじゃない。その気になるんじゃない。
どうすりゃいいんだ?
何を信じりゃいいんだ?
あたしは弱い。めちゃくちゃ弱い。
この人の声に、台詞に、言葉に弱い。
好きだと言われたら、信じたいよ。
でも多分、みんなそうやってひどい目にあってるんだ。
わかってるのに、グラグラする。
6時に食堂に集合して、夕食を取った。
賑やかな食事だった。
みんな少しハイになって、口数が多い。
あたしはおしゃべりするのが苦痛だった。
「あやちゃんが好きだ」
れんさんの声が、まだ耳の中で響いてる。
好きな人に好きと言われて、こんなに悲しい気持ちになったヤツ、過去にいたんだろうか。
その時、あたしの目の前を、ひとつの運命が横切った。
見覚えのある女の人が、仲居さんに案内されて入ってきた。
あたしの卓の前を通って、窓際の席に腰を下ろす。
忘れもしない、この人の顔。
大学祭で、れんさんの腕を取った人。
K駅のホームで、れんさんと並んで立ってた。
モトカノの、ミス・ベーコン。
あとから、仕事関係者らしい男性がふたりで現れて、彼女と一緒に食事を始めた。
緑川部長は、少し離れた席で食事をしていた。
あたしと目が合うと、部長も彼女に気付いていて、そっとうなずいた。
あたしは急いで食事を終えた。
生徒手帳のメモページを破って、携帯の番号を書いた。
「あの‥‥お食事中すみません」
ミス・ベーコンのテーブルに寄って行って、メモを差し出した。
「あたし、かなを あやきといいます。
ええと‥‥広瀬 廉さんのことで、あとでお話したいんですけど」
「あなた、あやちゃんね」
思いがけず落ち着いた声で、ミス・ベーコンは答えた。
「はい、そうです」
「合唱部の遠征か何かで来てるの?」
「よくご存知ですね」
「廉は私には、なんでもしゃべるのよ。
ふうん、こんな偶然もあるもんなのね」
「あたしもびっくりしました」
「私も、あなたとはゆっくり話したいと思ってたのよ」
わ。こわいな。
まさか、ドロボーネコ!ってビンタされたりしないだろうな。
「いやあね、怯えなくていいわよ。
とにかく後で電話するわ。
私の名前を知っている?」
「あ。‥‥いいえ」
あたしが慌ててメモを差し出すと、彼女はそれに書いて見せてくれた。
「鈴木ポエムって言うのよ。保・絵・夢。
恥ずかしい名前でしょう。
廉はただエムって呼んでるわ。似合わないって。私もそう思う」
「じゃ、あたしもエムさんにします」
「しっかりしてるわ。廉の言う通りね」
エムさんは、あたしの顔をしみじみ見上げて笑った。
「しっかり‥‥してますか」
「長けた感じの子、って言ったわよ。
老成してるという意味なんでしょうね。
同感だわ、話が合いそう」
エムさんはちょっと皮肉っぽく笑って、じゃああとね、と手を振った。
食事が終わると、テノールの大部屋でミーティングをした。
そのあとそれぞれで、入浴と就寝準備。
大浴場に下りる時、部長が追い付いて来た。
「どうだった、ミス・ベーコン」
「あとで電話くれるそうです」
「大丈夫か。
もし会って話をするなら、大林先生に外出の許可をもらえ」
「はい」
「まあ、こういう偶然はめったにないからな。
食いついておかないと後悔するだろう」
「あたしもそう思って。
あの人は、れんさんが許した“真ん中”の人なんです。
それがどういう立場なのか、知りたいんです」
「よし、それでいい。
ただし、夜更かしはするなよ、咽喉に悪いからな」
「はいっ」
エムさんからの電話は、入浴後に入った。
実はとてもいいタイミングだった。
大浴場で鉢合わせた吉行先輩にまとわりつかれて閉口していたところだったからだ。
大林先生に相談して、10時までの約束で出してもらった。
ラウンジで、エムさんとジンジャーエールで乾杯した。