雷鳴
「ようし、抜けた!」
部長の声が力強く響いた。
朝から厚い雲が垂れ込めて、荒れそうな空の下。
屋上の朝練。
15分ほど歌った頃、思いがけない勢いで、あたしの声はするするっと前へ伸びた。
詰まったものを、ひもを引いて引き抜いてもらったような開放感があった。
「やっと抜けたな。5声全部出してみろ」
「はい」
アーー、エーー、イーー、オーー、ウーー。
信じられない。呼吸がこんなに楽だ。
いらない息を使わないから、減らないんだ。
「イの音が一番いい。
5声ともイと同じとこへ当てて響かせろ。
口を開けた方が響きが悪いって事は、当てるポイントがちょっとずつずれてるんだ。
このズレを自分で修正して行け」
「はい」
「‥‥どうだ、気持ちいいだろう」
部長は満足そうに笑って見せた。
「はいっ、サイコーですね!」あたしも笑った。
「本選に間にあってよかったな」
「はい、ありがとうございます!」
深々と頭を下げた、その時。
パシン!
鋭い音がして、空に閃光が走った。
ガラガラガラドォン!!
腹の底に響く雷鳴が轟いた。
あたしは悲鳴を上げて、部長にしがみついた。
大粒の雨が落ち始めた。
「役得なんだがねえ。
あさっての本選に風邪ひかせちゃまずいから、中に入ろうか」
部長は名残惜しげに、あたしの体を離した。
雷は嫌いだ、昔から。
帰るまでに止んでくれればいいけど。
願い空しく、放課後も空は大荒れだった。
一旦弱まっては、また戻って来る雨だ。
雨音をバックに、合唱部はコンクールの仕上げをした。
明日から夏休み。
あさってから2日間、東京本選だ。
それが終わったら、本格的にソロの準備に入る。
夏休みいっぱい、合唱と平行してアカペラの特訓だ。
なんとなく出来そうな感じがしてきた。
一度抜けた声も、時間を置くと元に戻ってしまう。
でもまた発声を始めると、前より楽に抜けてくる。
あたしは、新しく手に入れた自分の声が嬉しくて仕方なかった。
まだずいぶん頼りなくて、すぐにくるっと裏返ったり、曇ったりしてしまうけど。
努力して達することの大切さが実感できた。
なんだか、頑張れる気がした。
そんなわけで、れんさんのことは久しぶりに忘れていた。
思い出したのは、5時にメールが入った時だ。
練習が終わって、星野ちゃんとふたりで階段を下りてるとこだった。
「これじゃ帰れないよね」
「傘なんか、役に立たないねえ」
踊り場の大窓から見える校庭は、土砂降りだった。
“校門の横に車を着けた”
れんさんのメールは短いものだった。
この雨足では公園横まで来れないと読んで、来てくれたのだ。
あたしは慌てて、星野ちゃんをやり過ごした。
こそこそする必要はないんだけど、れんさんを他の人に見られたくない。
というより、れんさんに他の女の子を会わせたくない!
気を使ってもらったのに悪いけど、全然無駄だった。
傘さしてても、校庭を抜けただけでずぶ濡れ。
れんさんが、タオルを貸してくれながら、
「今日は買い物はやめようね」と、一言。
あたしのブラウスが、派手に透けてるのだ。
家に向かう車の中。
稲妻に気を取られてるふりをしてた。
聞きたいけど聞けないことが、たくさんある。
あたしが黙ってると、れんさんのほうから話しかけてくれた。
「明日はもう学校ないんだよね。
5時に必ず電話するけど、昼間に会うかい?」
「ああ、ごめんなさい、明日は最終ミーティングがあるんです。
ちょっと時間が読めないです。
電話待ってます。何をしてても出ます」
「わかった」
あたしの家に着いた時、時間は5時15分。
あと45分も余ってしまった。
家に誘うのはまずいと思って、いつも先に時間をつぶしてたのに。
でも、この恰好のまま、車の中で45分はきつい。
突然、空が割れたような音がした。
ほぼ同時に、轟音が響き渡った。
地面に振動が伝わってきた。
まだ夜には早いのに、あたりは真っ暗だ。
「近くに落ちたな」
あたし、気がつくとれんさんの腕の中にいた。
どう考えても、自分でしがみついたらしかった。
れんさんを家に入れたのは、ほとんど無意識だった。
音も光も素通しになる車の中が怖くて、動転していた。
鍵を開ける間に、ふたりともびしょびしょになってしまった。
玄関は真っ暗。
「やだ、電気が点かない」
「さっきので停電したんだ」
れんさんが携帯を開いて、あたりを照らしてくれた。
バスタオルを取り、着替えの準備をする間、ずっと付き合わせてしまった。
まずかったな、と気付いたのは、自分の着替えが済んで落ち着いてからだった。
れんさんにはお兄ちゃんのジャージの上下を渡して着替えてもらった。
「あと40分じゃ乾かないから、着替えは持って帰るよ」
コーヒーを渡すのも手探りだ。
正気に返ってみると、すごく危ない場面になってる。
立ったままってワケにも行かないし。
暗がりでソファにふたり座ると、当然のように肩に腕を回された。
さあ、これをどうやって無難にかわせってか。