ノーブレーキ
れんさんの唇は、チューインガム香水の香りがした。
あたしの首筋から移った香りだ。
残念ながら、香りと違って味は苦いばかりだったけど。
ずうっと、この人のキスが欲しかった。
唇が重なった瞬間、びっくりした。
キスの仕方が、前の時と全然違う。
もうあたしの唇のご機嫌を伺って来ない。
当たり前だ。
腕の中に誘い込むためのキスはもう必要ないんだ。
これから必要なのは、もっと深い欲求を呼び覚ますためのキス。
セックスのステップとしてのキス。
もしかして‥‥ヤバい?
狭い車内では、体を重ねないと抱き合えない。
初めて男の人とこんなに密着した。
二人の体の間に挟まれた両腕が痛い。
思わず引き抜いたら、れんさんの体に回すしか置き場がなくなってしまった。
この瞬間、あたしは拒絶のための手段を一つ、失った。
押し返すことが出来ないのだ。
「簡単に体を許すんじゃない!」
頭の中で、部長のバリトンが叫んでいた。
でも、だったらどうすればいいの?
ミントの時みたいに、キス一つで逃げ回ればいいの?
それであたしがれんさんを好きなこと、伝わるの?
でもまずいです、れんさん。
これ、制服でしょ?
あたし、16歳です。
れんさん、自分で言ったんですよ、まずいでしょ?
って、さっさとボタン外し始めないで下さい!
「いやなら言っていいよ」
あたしの表情を読んだのか、れんさんが耳元で言った。
「いやなら言って。あやちゃん。
いつでもやめる。やめられるよ‥‥」
れんさん、ずるい!
自分のブレーキ、あたしに踏めって言った。
大人のくせに、自分はノーブレーキ?
やめなくちゃ。
ここでうっかり流されたら、何のために寂しい思いして「ひとりラブホ」をやったのやら!
あたしのブラウスのボタンを全部外し終えたれんさんが、開いた襟の陰に静かに顔を伏せた。
「待っ…」
やだ。
車の中で、制服で。
やってることが、まるでユルミのトレースみたいで。
でもあたしは、ユルミよりひどい状態だ。
れんさんに流されっ放しで、自分の意志が伝えられない。
毅然として拒否するほどの自信もなく。
大喜びで体を開くほどの愛想もなく。
部長の言うとおり、このまま流されても、れんさんの真ん中に入るわけじゃないとしたら、あたしの立場って何なんだろう?
自分の立ち位置が分からないよ。
どこのパートを歌えばいいのかも分からないよ。
れんさんは、楽譜も渡さずにイントロを流し始める。
あたし、ステージで立ち往生だ…。
「だから、なんで泣くまで我慢しちゃうんだ?」
あたしの泣き顔に気付いたれんさんが、戸惑ったように体を離した。
「嫌ならそう言っていいのに」
「れんさんはずるいです」
あたしは泣きながら訴えた。
「あたしを兄貴から守ってくれたんじゃないんですか?
なのに自分がこんな事するって、どうしてですか?
いつでも止められるなら、どうして自分から止めてくれないんですか?
あたしのせいにするつもりですか?」
「…あやちゃん」
「あたし、れんさんのこと好きです。でもれんさんはあたしが子供だと思って誤魔化してる!」
あたしは起き上がって胸のボタンを留めた。
興奮して震える指先でそれをするのは至難の技だった。
れんさんは、唇を引き結んで運転席に体を沈めた。
「ごめん」
短い一言に余計に涙が出て来た。
否定しないのが、悲しかった。
あたしはやっと自分の思いを伝えられた。
でも少しも心を軽くする事は出来なかった。
れんさんは、これまで開いていた扉を閉ざしてしまうような気がした。
面倒くさい女だと思われているかも知れない。
結局何をしてもしなくても、やるせないばかりなのだ。
ユルミみたいに何も考えず楽しくやるのが一番利口なんだと、この時初めて気づいたのだった。