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緑川部長の恋

 次の週から、お兄ちゃんは寮生活に入った。

 あたしは、れんさんに付き合ってもらう理由を失った。

 何より、食事当番が毎日あたしの仕事になってしまった。

 

 学校から、紐が付いたようにまっすぐ家に帰る。

 買い物と食事の支度。

 終わると6時半ごろになる。

 それから母が帰るまでの30分。

 たったそれだけの時間が、死ぬほどつらかった。


 こんな時、相談できる友達のひとりもいないことも落ち込みの原因になった。

 バカをやる友達はいっぱいいるのに、恋心は明かせないのだ。


 携帯で、れんさんの番号を呼び出す。

 プッシュするのは簡単だ。

 話がしたいといえば、してくれるだろう。

 会いたいと言えば、出て来てもくれるだろう。

 でも、それをするのがこわかった。


 あたしはこれまで、自分から彼を呼んだことがない。

 その禁を破るのが、こわかったのだ。

 好きという感情には際限がない。

 たった今「またね」と別れたばかりでも、もう会いたくなる。

 OKと言われたら、次の段階が欲しくなる。


 多分、あたしに対して、ミントがしたのと同じ状態になる。

 相手に拒絶される瞬間までエスカレートする。

 ただでさえ、あたし、れんさんに対して感情のコントロールが出来ない。

 もういい加減にしてくれ!と言われるまで、やめられなくなりそうだ。


 携帯を握り締めて、動けなくなる。

 れんさんの声が聞きたい。

 いつもの笑顔が見たい。

 あの時のキスが欲しい。


 「どうして発声をしないんだ」

 屋上でぼんやりしていたら、いきなり声をかけられ、飛び上がった。

 部長が階段を上って来た。

 「気になって、ピアノの練習が出来ないじゃないか」

 声を出したら出したで、気になるくせに。


 「すみません、少し疲れてるみたいで」

 「僕のせいか?」

 「は?」

 部長はちょっと言いにくそうに頭をかいた。

 「付き合ってくれって言っただろう?

  まだ返事をもらってないんだが、そのせいで悩んでいるのか?」


 「‥‥冗談だと思っていました!」

 あたし、思わず叫んでしまった。


 部長はその場にしゃがみこみ、頭を抱えた。

 「すみません‥‥」

 「ショックで僕を殺す気か」

 「だって‥‥」

 「僕が冗談が好きそうに見えるのか」

 「‥‥いいえ」


 「まあいい。その様子じゃ、返事はNОだな」

 「すみません、あの‥‥好きな人がいるので‥‥」

 思い切って言ってみた。

 口に出すこと自体、初めてのことだった。

 「まさか、こないだのサルじゃないだろうね」

 「違います!」


 部長は静かにうなずいて、フェンスに両手をかけて空を見上げた。

 「片思いですよ、部長」あたしは付け足した。

 「告白しないのか」

 「まだ‥‥そこまで考えてないです」

 「もし、告ってダメだったりして、諦めたら教えてくれ。

  もう1回、トライするから」

 「はい」

 この人も、淀みのない人だ、と思った。


 「簡単に許すなよ」

 「はい?」

 意味がわからず、問い返すと、部長はまた頭をかき、

 「変なことを言うと思わないで、聞いてくれ。

  簡単に体を許すんじゃないぞ。

  男はバカだから、体だけバクバク喰っちまって、中身に気付かない。


  手管のつもりで誘惑したら、セフレに転落だ。

  そういう技は、オバサンになってから使えばいい」

 あたしは、同じフェンスに手を付いて、部長の顔を見直した。


 「もしかして、部長の経験ですか」

 「そんなところだ。

  中3の覚えたての頃にね。

  近所に住んでる2コ上の幼馴染みに告られた。

  受験の手伝いに、家庭教師役をしてくれた子だったんだけどね。

  好きですと言われて、抱きつかれて。

  その後は誰もブレーキかけないから、やりたい放題さ。


  当然、成績は下がるし、ペースもガタガタだろ。

  そうなってから、相手が慌てたわけだ。

  向こうは年上だからね。

  僕の将来とか、考えてくれたんだろうね。

  で、受験が終わるまで会うのはやめようって言われた。

 

  僕は納得できなかった。

  でも、ここで相手とはまったく意識が違ってたのさ。

  相手は、僕が愛情から、執着を示してると思った。

  でも僕に愛情なんてなかった。

  セックスの相手を手放したくなかっただけなんだ」


 あたしは息を詰め、黙って聞いていた。

 これは多分、ゆきな先輩とのことだ。


 「目の前においしい肉を出された犬がさ。

  夢中で食べてる最中に、他のことを考える余裕があると思うかい?

  ガキだった僕の中で、彼女への愛情や思いやりなんて、育ってやしなかった。

  会えなくなった途端、簡単に同級生の女の子と二股をやった」

 「相手の幼馴染みはどうしたんですか?」


 「一年間、バレなかった。

  彼女が3年になって、音大を受験するんだと頑張ってた頃になってからバレた。

  浮気相手の同級生が妊娠して、ぱっと噂が広がったんだ。

  最悪の伝わり方だ。

  彼女は受験に失敗した。

  自殺未遂を3回繰り返し、4回目でやっと死ねた」


 「‥‥部長‥‥」

 フェンスを握ったあたしの手は、震えていた。

 部長の声が冷静なのが、かえって悲しかった。

 きっと、苦しむだけ苦しんで、枯れちゃった後なんだね。


 「呪われてしかるべし、さ」

 自嘲的に言って、部長はまた空を見上げた。

 ゆきな先輩がいる方向を見ているのかも知れない。


 「すみません、部長。

  キーボードの呪い、あたし、直しちゃった‥‥」

 あたしはやっと気がついた。

 部長は音楽室で、何度もあたしの名前を呼んだ。

 そうして、そっと耳を澄ました。

 そうすれば、ゆきな先輩が「ピー」と叱ってくれたからだ。


 もう隠しておくのは気の毒なので、音源のことを話した。

 誰がやったかは、知らないことにした。

 部長は動揺を見せなかった。

 あらゆるパターンを想定し尽していたのだろう。


 「キンギョちゃんはいいことをしたんだよ。

  キーボードに残った汚名を、洗い流してくれたんだ。

  彼女だって、きっと‥‥」

 フェンスに手をかけてうつむいたまま、部長は言いかけ、言葉を途切れさせてしまった。


 「部長‥‥?」

 「ごめん、ちょっといいか」

 突然、部長はあたしの手を引いて、昇降口の陰に移った。

 ふわりと背中に手が回り、ゆるく抱き寄せられた。

 30cmの身長差に苦労しながら、部長はあたしの肩に目頭を押し付けた。


 「‥‥ハンカチがないんだ」

 「言ってることとやってることが違いますね。

  あたし、体は許しませんよ」

 「うん」

 「触らないで下さいね」 

 「うん」

 かすかな震えが伝わって来た。

 

 「‥‥ゆき姉と、つながっていたかったんだ。

  幽霊でも‥‥」

 小さな声で、部長が言った。

 「純愛ですね」

 「どこがだ。思いっきりドロドロじゃないか」

 「ドロドロの純愛ですね」あたしは心から言った。

 「ドロドロで、すごく純粋です。すごく」


 ほんとに大事な物って、一体なんだろう。

 心だけじゃない。

 体だけじゃない。

 理由だけじゃない。

 結果だけじゃない。


 もっと次元の違う何かだと思った。

 朝の光の中、予鈴が鳴り始めた。 

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