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個人レッスン

 それから一週間の間、れんさんは一日おきにメールをくれた。

 食事当番がない日だけ。

 学校が終わってから、母が帰る7時まで、お茶を付き合ってくれたのだ。

 お兄ちゃんとふたりきりで家にいなくていいように。

 多分、あたしが食事を作る日は、お兄ちゃんの方を引っ張ってくれてると思う。


 申し訳なくて、胸が痛む。

 れんさんは大人だ。

 あたしなんかより、お兄ちゃんなんかより、ずっと次元の高いとこにいる。

 

 あたしは毎朝、自主練を始めた。

 学校に早めに行って、発声練習をすると決めたんだ。

 屋上の高みから思い切り声を出すと、ストレスが飛んでいく。

 

 発声練習というのは、スポーツで言う筋トレの部分だ。

 とくに高音発声。

 これをすると、本当に声帯を引っ張るための筋肉を鍛えているらしい。


 部活では、9月の定期公演用の楽譜が配られた。

 全員で合唱するためのものだけで、相当な曲数になる。

 山のような楽譜を前に、気が遠くなりかけた。

 毎日毎日、パートごとに譜読みばかりしている。


 ソプラノでのいじめは、もうなくなった。

 間壁先輩が、あたしのことを見ないようにして練習するようになったからだ。

 ここまでなら、れんさんの作戦は間違ってなかったのだ。


 アルトの人たちは、相変わらず微妙な冗談を言って触りに来る。

 でももともとそうだったように、外ではあくまで冗談の域を超えない。

 ピアノ・パーティーの狂乱は、あの場限りのものらしい。

 もっとも、例のお姉さまの口調では、水面下で抜き差しならなくなる人もいるらしいが。

 不思議なことに、星野ちゃんも、平気な顔をして練習に来る。

 怖い世界だ。


 「アー、エー、イー、オー、ウー」

 屋上で発声していると、緑川部長が来て、

 「おい、いいかげんな発声はするな。

  変な癖がついたら後が大変だ。

  ちょっと見てやるから、降りて来い」

 美声のバリトンで怒鳴った。


 3階の音楽室へ降りて行くと、

 「受験用のピアノ曲を選んでるのに、気になって進まん。

  まったく、マカちゃん何も教えてねーなー!」

 ブツブツ言いながら、部長はピアノの前に座った。


 「アー、エー、イー」

 「早い早い!

  なんのために口の形を変えるのか、わかってるのか?

  形を変えると空気の通り道が変わって音が出にくくなるんだ。

  それを一回ずつ整えなおして次を出すんだ。

  全部整うまで、次の音に移るな」


 「アーーーーーーー」

 「舌を下げろ。違う、咽喉は締めるな。

  咽喉を緩めて、ほおを上げるんだ。笑え!」


 「−−−アーーーー」

 「鼻に抜けてない。空気もっと上に当てろ。

  アゴ引いて。違う!!

  頭の皮を、耳を使って後ろ方向に引っ張るんだ」

 できねーよ!!


 「だいたい呼吸法が出来てない。

  おい、少し触るぞ。なぐるなよ」

 部長はわざわざ断ってから、かがんであたしのお腹と背中を両手のひらではさんだ。

 うん、これは殴られた経験があると見た。


 「吸って見ろ。もっと。もうだめか?

  横隔膜が半分しか下がってない。

  ここに落とすんだ、下腹に!

  こら、腰の力は抜け、固まってるぞ」


 これはマズイ。

 こう遠慮なく触られたら、いろんなとこに“来る”んですけど。

 

 「今度は息を出してみろ。

  おい、そこに力入れるな。ポンプは肺じゃなくて、下腹だ。

  へその下の、ここのへんの筋肉をもっと締めて、支えろ」

  わっ!なんてとこを触るんだ。


 「こら、声が出てない。止めるな。

  口が閉じて来た。舌が邪魔だ、下げろ。

  ほおは下げるな!笑え!眼を開け!

  鼻に息を上げろ!咽喉を開け!

  肩の力、抜け!下腹締めろ!前へ体重!」


 予鈴まで20分間。

 「アー」だけで怒鳴られ続けた。

 なんか、レイプでもされたみたいに憔悴消耗した。


 予鈴が鳴った。

 肩で息をしているあたしに、部長は言った。

 「キンギョちゃん。

  僕と付き合わないか?」


 なんか、信じられない台詞を聞いたぞ。

 「なんて言ったんですか?」

 「僕と付き合ってくれ」

 「‥‥なんで!いきなり!!」

 「いや、今、すごくいい感じだったから」

 「今のどこがいい感じなんですか?」

 怒鳴り上げられただけですが。


 「うーん。下腹のへんの感触かな」

 あたしは部長の足を思い切り踏んづけた。

 「ケモノですか、部長も」

 「いいねえ。ケモノですか、って、響きがいいね。

  親父ですか!は予測してたけど」


 言いながら、部長の視線がパラリと後ろに流れて行くのを見た。

 キーボードを見てる。


 そういえば、キーボードのいたずらの事は部長に話してない。

 以前なら、こんな風に部長が女の子と親しげにしてたら、ミ♭の音がしてた。

 部長もそれが気になるのだろう。


 ふと思った。

 部長の方は、ゆきな先輩という人を、どう思っていたんだろう。

 ゆきな先輩が年下の緑川部長を好きで、ふられて自殺した、という話はみんなが知ってる。

 部長は、どうしてその人をふったのか。

 彼女が亡くなった後、どう感じたのか。

 

 もしかして、あの呪いの噂で一番傷ついたのは、部長じゃないんだろうか?

 

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