初恋の恥
「爆睡してたねえ」
一緒にパンをかじりながら、れんさんが笑った。
「え。そうですか?」
眠れない夜だと思っていたので、意外だった。
「僕としては、ノックしたら中から開けて欲しかったんだけど」
「‥‥!ノック、しました?」
「携帯に電話もしたよ」
げ。確かに着信が入ってる。
「廊下で途方に暮れてたら、事務所に連行されてさ」
「えええっ」
「そこから内線でこの部屋にかけてもらったんだけど」
「て、ことは、こ、この電話も鳴ったんですね‥‥?」
「そりゃあもう5〜6分鳴らしっぱなしにかけたねえ。
出ないから、ちょっと演技入れて、中で死んでるかもって騒いだら、やっと鍵を出してもらえた」
「うそ‥‥」
「学生証のコピーを取られたぞ。
2度とここ来れないや」
「ご、ごめんなさい!」
あたしは確かに、一度寝込むと起きられないタチだ。
でも、こんな時にここまで寝るヤツほかにいるだろうか。
一生の恥だ!
「まあいいよ。
一晩中泣いてたんじゃないとわかって、安心したから」
あたしは息を止めて、れんさんの笑顔を眼のシャッターで撮影した。
この人の言葉は、直接心の真ん中に入ってくる。
「兄貴との話はどうでした?」
「うん、来週から寮に入ることで、ご両親を説得するそうだ」
「寮って、大学の?」
「いや、国体強化チームのコーチの道場で、もう何人か寝泊りしてるんだそうだ。
自宅が近いんで入らない予定だったんだが、そこに申し込んで合流することにするってさ」
そういう現実的な話をしに行ったとは思わなかった。
夕べ帰宅した時の会話で想像していたからだ。
「あの人も、酔いがさめて冷静になっていたからね。」
れんさんは言い置いて、あたしの瞳を覗き込んだ。
「でも、僕は信用してないからね。
あの人は、酒が入るとわからない。
いい?あやちゃん。
お兄さんが家に戻っても、絶対に飲ませちゃダメだよ。
それから、部屋には必ず鍵をかけること。
出来るだけふたりきりにならないこと」
あたしは無言でうなずいた。
言うべき言葉が見つからなかった。
れんさんは悲しげな表情になり、
「ご両親に相談すべきだと思うんだけど。
‥‥無理かなあ」
あたしはあわてて首を振った。
両親に言うって、なんて言うの?
お兄ちゃんが、あたしに乱暴するって?
えっちされかけて逃げたって?
言える筈がない!
あたしの桃色のウソは、ホントになってしまった。
あたしが出発の支度を終えた時。
れんさんはフロントルームに連絡していた。
あたしは彼が何をしているのかわからなかった。
こういうところの支払い方法を知らなかったからだ。
さっき事務所に迷惑をかけたので、叱られているのかと思った。
さんざん落ち込んで、彼に謝って、面白がられた。
更に帰りぎわ、もう一つ恥をかいた。
身支度を整えたあたしを、れんさんはしばらくじっと見ていた。
なんだろうと思って、ちょっと近づいた。
すると彼は、あたしの顎に軽く手をかけ、顔を仰向かせた。
あたしはここで、急いで眼をつぶってしまった。
キスされるかと思って。
「やっぱり2コほど見えちゃうねえ。
なるべく襟の高い服を持ってきたんだけどなあ」
そう、彼がまじまじと見ていたのは、服に隠れきれないキスマークだったのだ。
あたしの早とちり、間違いなく気付かれてたと思うんだけど。
突っ込まないでくれた。
「ごめんなさい。
一緒にいると、れんさんがつけたみたいに見える‥‥」
「まあ、ラブホに似合ってていいんじゃない?」
コーディネートしてどうする。
「でもこれじゃ、明日から制服の時、困るだろう?」
れんさんに言われて、あたしも考え込んだ。
それにしても、カレシでもないオトコにキスマークの心配してもらうなんて、どういうんだろうこれ。
あたしが恋に気付いたその朝。
同時にたくさんのことを知った。
自分が愚かで、欠点だらけで、何も知らないガキだってこと。
人の優しさを知るためには、その愚かさを見せねばならないこと。
人を好きになるのが、思いのほかつらいこと。
そして、そのつらさこそが幸せであること。