エアカレ
ものッすごく明るくスルーされた。
拍子抜け。
おまけに、モトカノのキスマーク発言。
あたし、どういうわけかメガトン級のダメージを受けてる。
れんさんにモトカノいるのは知ってたぞ。
「今はいない」って、初めて会った日に言ったんだもの。
でも、れんさんは、「兄貴のこと好き」で、「女の子とキスは平気、でもハードル感じる」で。
「そろそろしてやるかあ」なんだと、言った。
キスマークって。
相手にせがまれて、仕方なくつけるものだろうか?
そんなもんじゃないでしょう。
行為中に夢中でつけてしまうんでしょう。
わざとつけるなら、男が征服欲からするとかじゃないの?
れんさんが自分から。
カノジョに夢中で?征服したくて?
あたしはでかい円形のベッドに上がった。
見上げると、天井がライト付きの鏡張りになってる。
あたしはジャケットを脱いで、仰向けに寝てみた。
ピアノ下着を透かして、肌の色まで鏡に映っている。
さぞかし官能的かと思ったら、子供っぽくて、貧相な寝姿だったのでがっかりした。
れんさんが言った「グラッと来る」は、お世辞だな。
あたしは両手を広げた。
鏡の中のあたしの上に、もうひとり人間が重なるんだな。
ここに、普通ならあたしを抱きしめる人が映るはずなんだ。
あたしは、目を閉じてその誰かとキスをした。
それから力をこめて抱きしめて貰った。
空しい。
エアギターは知ってるけど、エア彼氏かよ!
携帯が鳴った。
お兄ちゃんからだ。
「広瀬を出せ。そこにいるんだろう?」
威圧的な言い方だった。
さっきの暴挙を忘れてしまったんだろうか?
あたしに謝る気もないんだろうか?
お兄ちゃんって、こんな人だったろうか?
「れんさんはそっちへ向かったよ。
お兄ちゃんとちゃんと話し合いたいって」
「ならなんで電話に出ない?
先に広瀬にかけたんだぞ!」
「運転中だからでしょ?
とにかくそこへ行くから、彼と話し合ってよ!
でもいい?あたしはお兄ちゃんを許してないからね。
もしもれんさんをもう一発でも殴ったら、このまま家に帰らないからね!」
あたしは電話を切って身震いした。
あれは、誰?
さっきまでケダモノだった。
その前は?
あたしのお兄ちゃんと言う人は、どこに行っちゃったんだろう。
あの人こそが、ビョーキなんだ。
あたしは、壁が透けてる不安なお風呂に入った。
それしかないのでピアノ下着をもう一度着た。
わけのわからんボタンの並んだ回転ベッドの上で布団をかぶった。
何をしても落ち着かない部屋。
れんさんとお兄ちゃんのことを考えた。
今日は、お兄ちゃんに食ってかかるれんさんを見た。
彼が恋かもしれないと思っていた心は、どこに行ってしまっただろう?
憧れの人に失望して、傷ついてはいないんだろうか?
♪ハッピバースデー トゥ ユー
ハッピバースデー トゥ ユー♪
オルゴールの可愛い音色が響いていた。
眼を開けると、部屋の中は真っ暗だった。
窓がないので時間がわからないが、なんとなく朝になってるような気がする。
そっと見回すと、テレビの前のソファに、れんさんが座っていた。
テーブルに紙袋と、コンビニの買い物袋が置いてある。
ハッピーバースデーのオルゴールは、れんさんの携帯から流れていた。
彼は、暗がりの中でメールを読んでいた。
誕生日だと言ってたものね。
誰かが、おめでとうメールをくれたんだね。
それも朝一番で。
そんなことするのは、きっと女の子だよね。
妹さん?
お友達?
それとも‥‥モトカノ‥‥。
3月に別れたって事は、卒業と同時だよね。
まだ2ヶ月も経ってないんだね。
それでちゃんと別れたって言えるの?
忘れてる?忘れられてる?
どんな人だった?
どんなふうに付き合ってた?
どんなふうに愛し合った?
‥‥キスマーク、どこに付けた?
やっとわかった。
自分がショックを受けてるワケ。
こんなに惨めで、悲しいワケ。
れんさんが、してくれること。
モトカノにはキスマーク。
あたしはホテルに置き去り。
たったそれだけのこと。
あたしは布団の中で泣いた。
オルゴールの音はいつまでも続いた。
無神経なほど無邪気で澄んだ音色があたしを苦しめた。
耳から引っぺがして、捨ててしまいたい音色だった。
この時、初めて気付いた。
あたしはもう恋の中にいる。
れんさんに恋してるんだ。
泣いてる気配が伝わったらしい。
れんさんは立ち上がってベッドに近づき、上からあたしを覗き込んだ。
「おはよう」
「‥‥おはようございます」
あたしの涙を見ても、何もコメントしない。
黙ってタオルを取ってくれた。
「君んちから着替えを取ってきたよ。
それと食事は、ハンバーガーとサンドイッチでいいよね?
先に着替えるなら、出てようか?」
「‥‥いいです、こっち向かないでいてくれれば」
あたしはれんさんの後ろで、ベッドに座ったまま着替えをした。
見ないと言ったら、れんさんは絶対見ないとわかっていた。
ネックが高いTシャツとスカート。
紙袋には、ブラとパンティーも入っていた。
これを入れてくれたのは、れんさんか?お兄ちゃんか?
どちらにせよ怖いので、聞くのをやめにした。
ああ、やっとピアノ下着から逃れられた。