あたしはピアノ
リビングに戻ると、様子が一変していた。
室内が妙に静か。
缶チューハイを飲みながら、まだグチグチと話し込んでいる2年生。
よく見ると、お互いの胸やひざを触り合ってる。
ソファの上を占領してるのは、花井・紫堂両先輩。
このベテランカップルはもうすっかりコトが始まってしまっているので、あたしが横を通っても無反応。
荷物を取りに、客間らしい部屋に入った。
そこで大御所と出くわしてしまった。
吉行先輩が、星野ちゃんを誘惑してるとこだった。
誘惑ったって、言葉で口説くわけじゃない。
後ろからギターみたいに抱きかかえて、指先で演奏してるだけだ。
おそろしや。ピアノ下着。
あたしが入っていくと、星野ちゃんがはっと顔を上げた。
ほっぺたにいっぱい、涙がたまっている。
星野ちゃん、今回初めてだったんじゃないかしら。
あたしと同じに、こんなはずなかったと思ってるんじゃないかしら。
「キンギョちゃん、お姉ちゃんはどうだった?
‥‥ハードだったでしょう?」
吉行先輩が聞いた。
返事をする間はなかった。
星野ちゃんが、いきなり叫び出したのだ。
「もういや!いや!放して!
わたし、帰る!帰らせて!」
星野ちゃんは、先輩の手をふりほどいた。
泣きながら出て行ったのだけど、荷物を持ち出すことは忘れなかった。
「ほうら、あれが正解よ。
ああいう子は心配ないのよ」
あたしの後ろから、お姉さんが言った。
そのあと吉行先輩に、
「スウちゃん、キンギョちゃんは家に帰らなきゃならないの。
親戚でご不幸があったんですって」
それは、偶然にもほんとのことだった。
会社を欠勤するなら、それで済んだのだろうけど。
アルトのトップシンガーは承知しなかった。
「イヤよ、まだ8時じゃないの。
あたし、まだこの子にアイサツも済んでないもん!」
カラダにアイサツせんでいい!
「ごめんなさい!」
あたしは荷物をつかむと、玄関に走った。
下着を脱いでる暇がない。
ピアノ下着の上に、来た時の服を身に付ける。
同時に靴に足を突っ込む。
「キンギョちゃん!待ちなさい!
マカちゃんにばらすわよ!」
吉行先輩がわめいてる。
もう勝手にやってください!
玄関を飛び出した。
ほんとにえらい目にあった。
アルトはソプラノより、よっぽどハードにビョーキだ。
もう2度と行かないぞ。
駅のホームで、下着を忘れて来たことに気がついた。
着て行った、自分の下着だ。
ピアノ下着が入ってた紙袋に入れて、鞄の隣に置いたのだ。
でももう仕方ない。諦めよう。
ブラのないピアノ下着を服の下に着ていると、猛烈に頼りない。
下のパンティーは、穴あきでスースーするし。
こんな時に限って、ミニスカートはいてるし。
家に帰って、早く着替えよう。
ああ、気分はピアノ。
家に着いたのは、10時近い時間だった。
玄関の前で、茉理さんと衝突した。
彼女は何故か、えらい勢いで玄関から飛び出してきたのだ。
「あっ、ごめんなさい」
「‥‥あやちゃん‥‥」
辛うじて、ひっくり返らずに済んだけど。
茉理さんの泣き顔を見てしまった。
「‥‥兄貴と、けんか?」
思わず聞いた。
茉理さんは唇をかんで、否定とも肯定ともつかぬ首の振り方をした。
「わたしもう、ここに来ないわ」
「茉理さん?」
「もう2度と来ないから!」
その口調は、泣き顔の人間の物じゃなかった。
彼女はものすごく怒っていた。
茉理さんは、女性的で大人しいヤマトナデシコだ。
普段、怒ったことなんてあるんだろうかって感じなのだ。
お兄ちゃんたら、どんなひどいことをやったんだろう。
居間に入ろうとして、足が止まった。
部屋から話し声がする。
とっても聞き覚えのある、テノール。
「わざとじゃなかったら、何を言ってもいいわけですか」
ウソ‥‥。れんさんの声だ。
「人を傷つけて、楽しいですか」
なんだか、おだやかじゃない雰囲気。
「広瀬がなんでそこまで怒る」
お兄ちゃんが、ボソリと言った。
「僕じゃなくても怒るでしょうよ」
「茉理に気があるのか」
「人の話、聞いてますか」
「てっきり、うちの妹が目当てで来てるかと思ったが」
「あなたの考え方に幻滅したって言ってるんです!」
「お前を喜ばせるために生きてるんじゃない!」
あたしはリビングの戸を開けた。
ほっといたら殴り合うんじゃないかと思ったからだ。
お兄ちゃんとれんさんは、テーブルをはさんでソファの上でにらみ合っていた。
お兄ちゃんは、ウイスキーのグラスを手にしていた。
れんさんの前に置いてあるのは、コーヒーだ。
あと一つ、コーヒーカップが出ているのが茉理さんの分だろう。
「ただいま‥‥」
おそるおそる、声をかけた。
「おう」と、お兄ちゃん。
「いらっしゃい、れんさん‥‥」
「お帰り‥‥」
みんな、言葉を発さずに目で探り合ってる。
れんさんが、ちょっと妙な表情であたしを見直した。
あたしはそそくさと2階の自分の自分の部屋へ上がろうとした。
もう、下着が気になって。
部屋に戻って、すぐ下着を着替えればよかったんだけど。
デザインブラウスとスカートを脱いだ時点で、鏡を見たくなったのがいけなかった。
いったい、ピアノ下着を着た自分がどんな風に見えてるのか。
つい見たくなったのだ。
グロテスクな、だらしない下着だ。
あたし、ちっとも似合ってない。
こんなんでソノ気になる、世間のオトコって、やっぱり異星人だ。
ところが、大変なことに気付いた。
首筋に4つ。
胸元に5つ。
もっと下の、おへそのあたりに2つ。
赤いあざがある。いや、あざじゃないぞ。
キスマークだ。
ノックの音がした。
「あやちゃん、ちょっといい?」
うわっ、れんさんだ。何で?
あわてて上から服を着なおす。
またピアノを着替えそびれた!
ドアを開けると、れんさんの表情は硬くて複雑だった。
「兄貴は?」
「急に寝ちゃったんだ」
「わかったわ。お布団かけとく」
「そうじゃなくてね」
れんさんは、何か非常に言いにくそうに考え込んでから、
「僕が聞くことじゃないんだけどね」
「は?」
「あんまり目立つんで気になるんだ」
れんさん、ひょいとあたしの髪の毛を首筋から払いのけた。
「あ!イヤ」
あたしはあわてて隠した。けど遅いな、もう。
バレてる、キスマーク。