キスのおけいこ
れんさんの車は、昨日と同じ公園横に停まっていた。
夕べのお礼に、今日はあたしがコーヒーを買った。
「ああ、懐かしいな。紙オルガンじゃないか!」
プレートから音源を取り出して、れんさんは喜んだ。
「昔、よく景品にあったんだよ。
鍵盤を印刷した二つ折りの紙の上を押さえると、中の音源を圧迫して音が出る。
よく、もらってその日に解体しちゃって叱られたよ。
このプレートの場合、音源を2枚のプレートではさんである。
中央部のクリップがリモコンで収縮して、音源を圧迫する」
れんさんは音源を鳴らして見せた。
ミ♭の音だ。
「これで、部長に女の子を近づけまいとしたのね。
そういうのって、死者への冒涜、って言うんだわ!」
「おや、ずいぶん怒ってるね」
当たり前だ。
めちゃめちゃ腹が立つ。
あたしは音楽を楽しみたくて入部したんだ。
他の部員だって同じだろう。
部長はいい公演をやろうと必死になってる。
ゆきな先輩と言う人の遺族も、好意でキーボードを寄贈してくれたに違いない。
個人の嫉妬や好き嫌いで、台無しにされていいことじゃない。
「れんさん、あたし決めた!
公演のソプラノ、あたし引き受ける!」
「へえ」
「引き受けて、いっぱい練習して、必ず成功させる!
みんなの頑張り、あたしの力、間壁先輩に認めさせてやる!」
「決心はいいけど、今みたいなイジメの中で練習できるのかい」
「そうね、まず、イジメをやめてもらわないと」
「この音源をネタに、脅しに出るかい?」
「それも、手だけど」
敵愾心をあおるのが得策だとは思えない。
「あたしにちょっかい出す気がそがれるようなこと、ないですか?」
「あるよ」
れんさんが言って、説明する前から笑い出した。
「愛していますと言って、追い回すんだ」
閉店間際の大型電気店に行って、音の違う音源を調達してきた。
れんさんはそれに細工をして、同じリモコンで動くようにした。
車の中が暗かったので、公園の街灯の下で作業した。
明日またそれを仕掛けてくればいい。
「でも、レズの真似なんて、あたしできませんよ」
どう考えても無理だ。
「うーん、難しいかもねえ。
キスくらいはして見せないとビビらないだろうし」
「キスなんて、ちょっとだけしかしたことないし!」
あたしが叫ぶと、れんさんが吹き出した。
「ちょっとだけ、って何?
1回より少ない単位があるのかい?」
「‥‥グーで殴って逃げたんです‥‥」
れんさん、たっぷり2分間笑ってくれた。
「笑い事じゃないですよ!
ヘタすると、今度はあたしが、間壁先輩に殴られますよ」
「うんうん、手際が悪いとそうなるね」
れんさんはまだ笑っている。
「手際って、そんなもんに要領がいい悪いがあるんですか?」
「あるんじゃないの?」
あたしの背骨が、なんかヤバイ感じに、うずいた。
アブナイ会話、してるんじゃないか?
探り合うような言い方、してるんじゃないか?
「れんさんなら、手際よくできるんですか?」
こら待て、あたしの口!
なんでそっちに引っ張るんだ。
「できると思うね」れんさんがさらりと言う。
「うそお。どうやって!」
あ‥‥。 誘ってしまった。
ヤバイ!止まんない。
来る。 来る。 来る!
子宮が壊れそうな勢いで重くなった。
思わず、ジャングルジムに背中を預けた。
「教えてあげてもいいけど、時間大丈夫なの?」
れんさんは携帯を取り出してちょっといじってから、あたしに向き直った。
「少しなら‥‥」
わ。 こわい!
逃げるつもりで、身構えた。
その時、あたしの携帯が鳴った。
あとで思えば、これはれんさんがしたことだった。
気がつかず、ポケットから出そうとした。
一瞬早く、れんさんがあたしのポケットに手を突っ込んだ。
携帯を奪い取って、開く。
「ちょっ、人のものを勝手に!」
奪い返そうと、両手で携帯を握った途端、踏み込まれた。
本当に手際よくキスされた。
一瞬、どう動いていいのかわからなかった。
両手で携帯を持ってる。
落としたらいけないと、上半身の神経が分散しているところを狙われたのだ。
最初は、軽く唇を押し当てられただけだった。
逃げ遅れた隙に、もう少し深く重なってくる。
たまらず後ろに体を引くと、相手もタイミングを合わせて力を抜く。
決して深追いして来ない。
安心した瞬間を狙ってくる。
こちらの抵抗が緩むと、抱き寄せられ、唇を重ね直される。
今度は舌がからんで来る。
突き放そうとしたら、自分から緩めてくれる。
力を抜くとまた抱きすくめられる。
そのたびに深みにハマッていく。
やだ、スゴい‥‥。 これ絶対逃げられない。
本当に、キスにも技術ってもんがあるんだ。
絶妙なリズムとタイミング。
容赦ないズルさと根気。
何度か逃げようとしたけど、あきらめた。
逃げるたびにエスカレートするのがわかったからだ。
力を抜いて、されるがままになる。
もうわかったから。降参するから。
もういいよ、れんさん。
その途端、胸がズキンと痛んだ。
突然、悲しみが湧き起ってきた。
そう、あたしの相手は木石じゃない。
生身の人間だと言う事を、思い出してしまったのだ。
あたしとキスしながら、れんさんは今何を考えているんだろう?
普通のキスなら、二人の間に愛情がある。
あたしたちには、何もない。
愛情も、確認したい何か大事なものも。
ジュウリン、という言葉が不意に浮かんだ。
蹂躙。成すすべもなく土足で踏み荒らされた状態。
どうしてそんな悲壮な言葉が浮かぶのかわからない。
もともと、自分から誘ったんだよ。
おかしい、あたし、変になってる‥‥。
あたしは崩れるように、その場に座り込んだ。
それでやっと、れんさんから解放された。
真下になら、逃げられたのだ。
ああ、不覚。
まつ毛にためてこらえていた涙を、目を開けた途端、こぼしてしまった。
れんさんは驚いた様子でしゃがみこんだ。
指先であたしの涙をぬぐって、
「やだった‥‥?」と聞いた。
あたしは首を振った。
「なんか、限界越えちゃった‥‥だけ」
「‥‥ごめん」
優しい声、出すな。
くやしい。
平気な顔、してやるつもりだったのに。
あたし、この時れんさんが、すっごく憎たらしかった。
口で謝っても、してやったりと思われてる気がした。
きっと、あたしをオトして、至極ご満悦だろうって思ったら腹が立った。
あたし、結局れんさんにもてあそばれてるんじゃないか。
いいように操られて、使い捨てにされるんじゃないか。
なんでだかわからないけど、ものすごく被害妄想になってた。
この人に会うのは、もうやめよう。
れんさんは、危ない。
絶対によくない結果になる。
決心したら、胸が痛んだ。
ほら、もうほだされてる。
こんなキスくらいでグラグラするな、あたし!