一.葉桜の下で突然
校庭にある桜の木は、すでに葉桜になろうとしていた。
玲子は背丈ほどの高さの枝にそっと優しく手を添えた。
(葉桜も綺麗なのにな……)
花びらが散ればほとんど見向きもされなくなる桜の木を、毎年少し寂しく感じる。その葉桜の隙間から青い空をぼんやりと玲子は視界に入れる。
時折、吹きつける春風が長いストレートの艶やかな髪をふわりと柔らかく舞い上げた。
「桜は葉桜が一番キレイだよなぁ」
いつの間にか隣に誰かが立っている。
「なぁ? 里見」
てっきり独り言かと思って耳に聞き入れていた玲子は、名字を呼ばれて初めて自分に話し掛けられているのだと気づく。
「……そうですね」
「なんだ、里見。気のない返事だなぁ。まぁ、しゃーない。俺もかったりぃー」
そう言って、大きく背伸びをしたのは、この春から新しく担任となった工藤だった。
里見玲子は、ここ県立丸鶴高等学校通信制課程に通っている。通信制高校とは、下は十五歳から上は無限の老若男女が、共に集い勉学に励む学舎である。
ふと、
「里見、おまえって単位ギリギリだったのな。特に、数学の」
工藤の何気ない一言。途端、
──ガラガラガッシャーンッ
玲子の頭の中で何かが派手な音を立てて崩れ落ちた。
そのタイミングをまるで見計らったかのように強い突風が吹きつけ、ブワァッと髪の毛が逆立ってグチャグチャとなり、顔面に髪の毛がだらーりと垂れ下がる。
なぜ、今それを言うのか?
たった今、三学年へと無事に進級をすることができた事を一人静かに喜び感慨にふけっていたというのに、だ。
玲子は怒りと悲しみと虚しさと情けなさと……その他、いろいろ。数え切れない思いに、乱れた髪の毛を整えもせず、その場に立ち尽くす。
「ん? どした?」
工藤が玲子の顔を覗き込もうとして、後方から生徒達の呼び声がした。
「工藤ー何してんのぉー?」
「なぁ、レポート教えてくれー」
校舎一階の玄関前にある自販機前で、休み時間を過ごしている生徒達が呼ぶ声がする。
「ヤダね、面倒くせー」
無責任に投げやりな返事を工藤は返した。
「うっわ、ひでぇセリフ」
「どっちがだよ、まだ授業でもやってないだろ。せめて俺の授業に出てから聞きに来いっての」
生徒たちとじゃれ合う工藤の姿は、生徒の年齢によってはどっちが教師で生徒か区別がつかない。赴任して来たばかりだというのに、早くも生徒の間で人気者だ。良くも悪くも教師らしくなく、明るく気さくな性格に男子生徒とは友人同士のようであるし、女子生徒からは若くてイケメン! と、ちょいともてはやされている。……もちろん、そこには既婚の年配女性の生徒も含まれた。
「ちょっと、クドー、聞いてよ」
早速、若い十代の女子生徒が甘える。
「世界史、どうにかしてよー。何この範囲、ムリ! 選択問題とか全っ然ないし」
「……なんで数学の俺が文句言われてんの? 直接、世界史の先生に言いなさい」
工藤の担当科目は数学である。
そう、数学だ。
文系である玲子にとって数学とは憎き科目だった。数学が憎けりゃ、その教師まで憎く見えてくる。坊主憎けりゃ袈裟までというやつである。
しかも工藤が担任である以上、あまりにも目に余る点数を見せていると他の単位に影響を及ぼしそうで、授業にもレポートにもプレッシャーが重くのしかかっているのだった。
玲子はすっかり色を失った瞳を遥か彼方へと遠のかせている。
──キーンコーンカーンコーン
ポカポカ陽気にほのぼのと平和的なチャイムが校舎に響き渡った。
「はい、撤収ー」
工藤が手をパンパンと叩くが、誰に言われなくても自主的に生徒達は教室へと向かう。
単位取得のためもあるが、週一の授業は勉学に励むための貴重な時間だ。けれど働いている者にとっては、休日に七時限もある授業を受けるのはかなりキツイ。気だるく体を引きずるようにゾロゾロとした動きで校内へと生徒達は入って行った。
しかし、玲子は教室へ戻らずに桜の横にある植木を囲んだ煉瓦の上へと腰かける。
(なんか、疲れた……一限休もうかな)
担任教師と科目の問題について疲れているのは間違いなかったのだが、
ゾクリ──
急に寒気が起こって全身に鳥肌が立つと共に、体が重くだるくなっていく。身に覚えのある感覚に、玲子は嫌な予感をする。
(そんな、まさか……なんで?)
この場所は安全な事が分かっていた。
玲子は背後から感じてくる気配に、そっと息を殺して首を後ろに回す──、
「どした? 具合でも悪いのか?」
「ギャア!」
いきなりドアップに映り込んできた工藤の顔に、思わず玲子は叫ぶ。
「そんな、カラスみたいな鳴き声で驚かなくてもいいだろ。失礼だなぁ。なんか顔色悪いけど、大丈夫か?」
「……大丈夫です」
カラスに例えられ、少々ムッとして答えた。しかし、大丈夫ではなかった。まだ後方の怪しい気配が気になる。後ろに回そうとした首は、工藤のせいで前に戻していた。
「授業は? 次、古典だろ?」
「サボります」
堂々と言い切った玲子に対し、
「素直でよろしい」
と、褒めると玲子の隣に腰を下ろして、紙パックのオレンジジュースをストローでちゅーちゅー吸って飲み出す。その様は似合っている。
「先生こそ、授業はいいんですか?」
「この時間は、なっし」
と、くつろいでいるが、玲子はそれどころではない。
工藤を追い払うべく、脇に置いてあるトートバッグの中から、今朝受け取ったばかりの全教科のレポート用紙を取り出し、その内容にザッと目を通していった──勉強するからあっち行け。との合図だ。
「あぁ、さっき言ってた世界史ってそれな。なんだ、用語説明ばっかじゃん。こりゃあ、参るわな。福原先生、きっびしぃー」
全然、意図が伝わらない工藤にイラッとしながら玲子は無視をする。
「俺のは? 質問するなら今がチャンスだぞー」
ついさっき、面倒くせー。とか言っていたはずだ。女子には甘いのか、たらしめ。と玲子は心で毒づく。
別に悪い教師ではなく、嫌いという訳でもないのだが、一年、二年と続けて担任だった前任の教師が厳格だっためか、どうもこの軽いノリにいきなり慣れることができないでいる玲子だ。
数学のレポートなど質問しようにも、もはや何から質問すればよいのかさえ分からない。そんな玲子は、数学の事を考えると頭が痛くなる。
ズキッ──
こめかみに鋭く強い痛みが走った。これは数学のせいではなく、体の具合が悪化しているせいだ。全身に鉛のような重さがのしかかってくる。このまま放っておけば間違いなく動けなくなり倒れるだろう。
「里見? やっぱどこか……」
「……いる」
「ん?」
「いるって、何がだ?」
辺りをキョロキョロ見渡している工藤は異変を感じていない。どうやら、そういう体質のようである。ならば、いっそこのまま見捨てて一人逃げ去ろうか。玲子は冷や汗を垂らしている脳裏で残酷にも思いつく。だが、それでは後々困るのだ。
「……違う、人じゃない」
「じゃ、何だ?」
「……私、人に視えないものが視えるんです」
理解されてもされなくても別に構わない。玲子はさっさと答えを出した。
「ん? 視えるって……何が? まさか、小さいおじさん?」
「だったら、いいなぁ。って、違います」
「じゃあ……あっ、分かった! アレか、幽霊だろ?」
「ピンポー……はい、普通はそう考えますよね」
「なんだ、不審者じゃないのか。刺股を使う時がついにやって来たのかと思ったじゃねーか」
なぜか肩を落として工藤は残念がる。玲子は話し方を間違ったと後悔した。キャーと叫んで、刺股でも何でも取らせに行かせるべきだったのだと。
「あれか、霊感ってやつ? 里見んちの実家って確か、えーと何て言ったか……」
「目生神社です!」
もう悠長に担任と家庭環境について話していられる状況ではなく、皆まで言わさぬよう強い語調で言いくくった。背中越しには、その相手が気配を大きくしているのが分かる。玲子の霊視能力は極めて優れていた。なのに──玲子は、
────お祓いができない!
漫画やアニメのように、カッコ良く除霊とか浄化など何もできない。しかも、神社の娘として生まれ〝巫女〟だというのに……これでは、ただただカッコ悪いだけだ。
だが、相手が脆弱ならば玲子にも祓えないこともない。しかし、今日はそうもいきそうにもない雰囲気だった。
「私、視えるだけですから。憑かれたくなければ自力で逃げて下さいっ」
説明している間はなかった。素早くバッグの中からペットボトルの水を手に取ると、開栓しながら後ろを振り向きざまに中身を振り撒く──そこには、赤黒く禍々しい色をした邪霊が一体。形も保てぬままウヨウヨと渦を巻いて蠢いていた。
一瞬、浄めの水に邪霊が怯んだが、すぐに触発されたようにその身をうねらせて拡大すると威嚇し咆哮を上げながら、工藤の方へと向かい襲いかかった。
「──っ!」
平然と呑気に座ったまんまの工藤を、グイッと引っ張り寄せる。
「離れ……っ」
その瞬間──、
邪霊が何かに跳ね返されたて後方へと吹き飛ばされる。
そのまま邪霊は飛散して、蒸発するかのようにシュワワッと消えていった。
「…………」
一体、何が起こったのか。こんな現象は今まで一度も見た事がない。玲子は分からないままに呆然とする。
「……里見、苦し……っ」
玲子は、ハッと我に返る。気づけば、工藤の襟元を掴んで締め上げていた。
「里見……俺、なんかおまえに嫌なことしたか?」
清めとして撒いたペットボトルの水で髪は濡れてしまい、水滴をポタポタと滴らしながら、工藤はシュンとした。
さすがにこれは、マズい、ヤバい。
単位が──吹っ飛ぶ!
パッと手を放した玲子は、動揺する心を必死に隠しながら、平静を装って言った。
「いえ、別に何も。ちょっと……うっかり手を滑らせてしまっただけです。すみませんでした」
さらりと述べて一礼をすると、くるりと踵を返す。そのまま華麗な姿で立ち去ろうとしたが、ピタリと動きを止めて肩に掛けたバッグの中をゴソゴソ漁る。
「これ、返さなくて結構ですので」
取り出したタオルを、濡れている工藤に強引に押し付けて渡した。再び踵を返すと、今度はダダダダダッと手足をバタつかせて逃げるよう去ったのだった。
読んで頂きありがとうございました!
初めて挑戦した長編です。
ストーリーや設定はシンプルにして、とにかく「完結」を目指して頑張って執筆しました。
しかし、
弱っちい主人公……
どうかこれからの成長していく姿を温かく見守ってやって下さいませ。
では、
ぜひ最後までお付き合い頂ければ嬉しいです。
どうぞよろしくお願いします。
※舞台が通信制高校となっていますが、実在する個人・団体などとは一切関係ありません。