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母・美月

「……きて」

 まどろみの中に響く、愛らしい声。

「……起きて」

 揺さぶられる感触。

「……早く起きて」

 鼻孔をほのかな味噌の香りがくすぐる。

 そして……。

「起きてったら!」

 ……思い切り布団を引っぺがされた。


「……おはよう」

 重いまぶたをなんとか開けると、そこには、

「おはよう、お母さん(・・・・)。まったく、相変わらずねぼすけなんだから」

 いつも通り、沙羅……愛娘の、困ったような笑みがあった。



「ほら、もうあんまり時間ないんだから、ちゃっちゃと食べる!」

 そう言って沙羅が食事を並べていく。

 いつも通りの雑穀入りのご飯と味噌汁、それに今日は鮭の塩焼きとサラダ。

「ありがとう、沙羅。……今日も美味しそう」

 そう、我が娘、沙羅は料理が得意なのだ。

 ……最近、家事全般を頼りっぱなしで母親の威厳がピンチな気もするけれど。


「そんなたいしたことはしてないよー、別にきっちりダシ取るところからやってるわけでもないし」

 娘はさらりとそう言うけど、もはや私より料理が上手いような……いや、考えるのはよそう。

「全く、出来のいい娘を持って私は幸せ者だわ」

「にへへー、ほめてもなにも出ないよぉ」

 ……こういう笑顔はまだまだ年相応なのだけれど。

 幼い頃から苦労を掛け通しで、高校生とは思えぬほど大人びてしまった沙羅。

 わずかに湧いた苦いものを、味噌汁で流し込んだ。



「ほら、忘れ物はない? 今日は帰りに降るかもしれないから折りたたみ傘も持って! 急がないと電車、間に合わないよ!」

 のんびり食べているうちに、かなりぎりぎりの時間になってしまった。

 沙羅に急かされながら出掛ける準備をする。

 ……普通とは親子が逆なような気もするけど。


「よっしぜんぶオッケーだね! さあ急いだ急いだ!」

 軽い自己嫌悪に陥りながらも、玄関を開けようとし――、……たところで足が止まった。

 まだ、少しだけ時間は、ある。

 振り向いて沙羅を見た。

「ん? どうした? 忘れ物でもした?」

 ……分かっている癖に。

「…………あの、あれ」

「あれねぇ……? あれ、じゃ分かんないなあ?」

 口元を緩やかに吊り上げ、楽しそうに、されど意地悪く微笑む。

 いつからこの子はこんな表情をするようになったのか……。

「…………」

「黙ってちゃわからないよ?」

 私は短い葛藤を経て、こう言った。

「……………………行ってらっしゃいの、ハグ、して」


「まったく、しかたないなぁお母さんは。時間もないのに」

 沙羅はそう言いながらも、私の前で両手を広げる。

 私は身をかがめ、娘の腕の中に飛び込んだ……。

「よしよし、いつもお仕事おつかれさま。今日もがんばってね?」

 沙羅は私をギュッ、と抱きしめる。

 その上で、頭も撫でてくれた。髪型がくずれないよう、そっと。

「ほんとにしかたのないお母さんだ」

 ……恥ずかしくて顔が上げられない。きっと今、私は真っ赤になっているだろう……。

 娘の胸の中は、とても落ち着く香りがした。




 間一髪で滑り込んだ通勤電車の中。

 私は小さく息を吐く。

 思うのは娘の事。……それに付随して今朝の痴態を思い出しかけるけど、そちらは記憶の深層に押し込めておく。

 いったいいつからこんなことになってしまったのか……。

 きっかけは、やはり10年前のあの時だと思う。

 当時、夫を亡くして娘を育てるのに必死だった私。

 幸い、私は結婚してからも勤めは続けていたから、生活の心配はそこまで無かった。

 ただ、娘1人だけとはいえ、子供を育てるには色々と物入りで。

 保育所に無理を言って夜遅くまで沙羅を預かってもらい、ぎりぎりまで残業してから急いで迎えに行く……といった事が常態化していた。


 沙羅には随分と寂しい思いをさせたと思う。

 沙羅が小学校に上がってからも状況はあまり変わらなくて。

 学童などもフル活用したけれど、どうしても家に1人残すことが多くなった。

 沙羅のことを心配しながらも、沙羅のため必死に働く日々。

 自分では気付かなかったけど、相当疲れていたのだと思う。


 それは繁忙期が終わり、少しは早く帰れるようになった頃。

 家の扉を開けると、まだ幼い沙羅が出迎えてくれた。

 沙羅はどことなくそわそわした様子で私を引っ張っていく。

 連れられていった先は我が家の居間。

 そこのダイニングテーブルの上には……。

 不恰好な、おにぎりが並んでいた。


「たべて! おかーさん!」

 そこには満開の向日葵のような笑顔。

 沙羅が……。

 きっと、いや間違いなく私のために作ってくれたのだろう。

 そう思い至り、私は……。

 


 その場で泣き崩れてしまった。

 


 今、思い返してもかなり恥ずかしい……。

 私は相当参っていたのだろう。

 ひょっとしたらうつ病寸前の状態だったのかもしれない。

 いきなり泣き出した私を沙羅は心配そうに見つめた。

 そして。

 

 ギュッ! と抱きしめられた。

 そして、沙羅は私の頭を撫でながらこう言ったのだ……。

「だいじょーぶ。おかーさんがんばってるの、わたしがいちばんしってる」

 その言葉に私は――。




『この列車は〜間もなく〜……』

 車内アナウンスによって、はっと現実に引き戻された。

 もうすぐ会社の最寄り駅だ。

 しかし、随分と回想に没頭していたような気がする。

 ……もしや挙動不審になっていなかっただろうか?

 不安になりつつも電車を降りた。

 

 毎日毎日、歩き続けた通勤路。

 寒さに身を震わせつつ、私はまだ娘の事を考えている。

 思えばあれからなのだ、沙羅が料理を始めたのは。

 もちろん最初は下手だったけれど、気付けば驚くほど上達していた。他の家事についてもそうだ。

 沙羅なりに、ずっと私の事を気遣ってくれていたのだろう。

 子供に心配をかけたことに自省の念を抱きながらも、やはりその気持ちを嬉しく感じた。その成長に対する喜びと、一匙の寂寥も覚えつつ。


 そう、あれを機に沙羅は一気に大人っぽくなっていった。

 そして私は……。



 沙羅に抱きしめられた時のことを忘れられず今に至る。

 


 ……我ながらどうかとは思う。

 沙羅はあれ以来、私のことをよく抱きしめるようになった。それこそ母が子にするように、私を胸にかき抱き、頭を撫でてくる。……普通の親子とはまるで逆転しているけれど。

 そして私もそれが嫌ではない……どころか、むしろ自分から求めるようになる始末。

 夫を亡くし、淋しかったのもあるだろう。私は娘に依存していった……。

 これは親馬鹿とはまた少し違うだろう。マザーコンプレックスならぬ、ドーターコンプレックスとでも言うのだろうか?



 ふっと気が付くと、いつの間にか会社に到着していた。

 またしても考え事に集中しすぎたらしい……。

 いい加減、気分を切り替えないと。

 そして今日も頑張る、沙羅のために!

 私は胸を張ってオフィスビルに入っていった……。



 時期的にそれほど忙しくはなく、私はそこそこ早い時間に退勤できた。

 とはいえ時節柄もあり、外は真っ暗だけれども。

 早く帰って、沙羅に会いたい。

 そんな気持ちで会社を後にした。



「あ、お母さん。お帰りー」

「ただいま」

 帰宅の挨拶を交わすなり、沙羅がこちらに駆け寄ってくる。そして、

「はい、ギュー!」

 朝と同じように、私を抱き寄せる。

 ふと見上げると、沙羅はいたずらっぽい笑みを浮かべ、

「お母さん、朝にイジワルしたらすねちゃったみたいだし」

 と言った。


「…………」

 私は何も言えない……。

 娘に完全に見透かされて、恥ずかしいやら嬉しいやら、胸中はもう大混乱だ。

 けれど、沙羅が腕に力を入れ、より強く引き寄せられるともう何もかもどうでもよくなって。

「……今日もがんばったね」

 沙羅は頭を撫でながら、囁くように言う。

「うん……」

 沙羅の腕の中で、私は確かに安らぎを感じていた……。恥ずかしくはあるけれど。



 しばらくの後、夕食。

「ほいほい、今日の晩ごはんだよ〜」

 朝と同じく雑穀ご飯、おかずは沙羅特製のおから入りハンバーグに野菜スープ。

 どうも私の健康を気遣ってくれているらしい、前にダイエットかと尋ねたら「お母さんのためだよ!」と満面の笑みが返ってきた……。

 なんだかさらに頭が上がらなくなってきたかもしれないが、気のせいということにして食事を頂く。


「いただきます」

 まずはスープをごくり。

 そしてハンバーグもパクリ。

 ……やはり美味しい。おから入りハンバーグなんてどうしてもパサつきがちなのに、ほとんどそれを感じさせない仕上がりになっている。

 野菜スープも地味に手間暇かけてあるような……。

 それに何より娘の手料理だ、美味しくないわけがない。


 最近、私はこの夕食を楽しみに1日働いていると言っても過言ではない。

 沙羅はお弁当も作ってくれるけれど、やはりどうしても冷めてしまう。

 朝はゆっくり味わっている暇が無い。

 とすると、沙羅のご飯を味わうには夕食が一番いいことになる。

 最近はほとんど外食もしていない。そのため残業か飲み会が無い限り、毎食、沙羅が作ったものを食べていることになる。……我ながら依存しすぎじゃないだろうか。


 内心は微妙な気分でも、沙羅のご飯は美味しくて、自然と顔はほころぶ。

 沙羅は私が帰ってくる前に食べたようなのに、向かいの席に座ってじっと私が食べるところを見つめている。

「……何?」

「いや、お母さんやっぱりおいしそうに食べてくれるなーって」

「美味しいもの、実際」

「うれしいもんだよ、わたしの作ったごはんでそんなに笑顔になってくれると」

「見てて飽きない?」

 沙羅はニヤッと笑って答える。

「ぜーんぜん。お母さん、食べてるときの顔がけっこうカワイイし」

「な……!」

 まさか娘の言葉でこんなに恥ずかしくなるなんて……!

 ニヤニヤしたままの娘を前に、私は黙々と食事を続けるほか無かった……。



 そして、夕食後。

「ねえお母さん、先にお風呂入っていーい?」

「別に構わないけど……」

「ありがと! ……あ、それとも一緒に入る?」

 またニヤリとしながらそんなことを言う。

「……馬鹿な事を言ってないでさっさと入りなさい、もう子供じゃないんだから」

「ちぇっ、残念」

 沙羅がお風呂場に向かう。

 

 その直後。

 私の顔が物凄く熱くなってきて。

 なんとはなしに咳払いをした。

 ……にしても一緒にお風呂って……!

 いや、何もやましい事なんて無い、親子が一緒にお風呂なんて当たり前のことだ、ちょっと年齢的におかしいだけで。

 そう、私がさっき言ったように、沙羅はもう子供じゃない。まだ大人とも呼べないけれど。

 でも親子で裸の付き合い、ぐらいなら別におかしくは……裸?

 ………………!

 何だろうこれ、さっきよりも顔が熱くなって、入浴中でも無いのにのぼせそう……。

 私はソファーで仰向けに横たわり、腕で目を覆った。

 

 

 それぞれ入浴した後。

 沙羅が今度は「一緒に寝よ!」と言ってくるのをあしらい、自分のベッドに入った。

 そう言われた瞬間、また顔が熱くなったのはきっと気のせいだ。

 私と一緒のベッドに入った娘が、私の頬に手を当てて、『みづき……』と優しい声で私の名を呼ぶなんてそんなこと……。

 ありえない、絶対にありえない!

 大体、沙羅は私の事を「お母さん」としか呼んだことが無いのだ、後はせいぜい「ママ」ぐらいで、娘が私の名前を、あまつさえ呼び捨てにすることなどありえないのだ。

 そう、ありえないし、そもそもあってはならない、だから無い。

 そういうことにしておかないと……。

 

 


 闇が降りた自室で物思いにふける。

 最近、自分は母親としてどうなのかと。

 この際、家事について頼りっぱなしだとかはいい、いや本当はよくないけど、目下の問題はそれ以外の部分にある。

 毎日、娘にハグをねだる母親ってどうなんだ……?

 今更ではあるけれど、ここのところしょっちゅう自問自答している。

 娘を可愛がるのはいい、けれどこれはちょっと行き過ぎじゃないのか?

 というか、もはや可愛がっているというより、ただ私が娘に甘えているだけなのでは?

 それはそれでどうなんだ……?

 そんな考えが脳裏をよぎる。

 

 それに、娘の裸……。

 いや何でも無い、娘の裸なんて赤ん坊の頃に散々見た今更どうだというのだ。

 でも成長してからの姿は知らない……ってそうじゃない!

 

 

 一体何を考えているのか。

 私は最近おかしいのだ。

 娘が愛しいのは当たり前のことだけど、近頃は特に娘の事ばかり考えている気がする。

 確かに夫を喪ってから今日まで、私は娘に全てを注ぎ込んできた。沙羅が可愛いのはもちろんのこと、そうすることがあの人との繋がりを保つ事にもなると信じて。

 そして沙羅は立派に成長してくれた、これ以上は無いほど満足だ。

 

 それなのにおかしいのだ。

 沙羅はまだ彼氏を家に連れてきた事など無い。だけど、年頃なのだからいても不思議ではない。いちいち親に報告しなければならないようなものでもなし、私の知らないところですでに恋人を作っていてもおかしくない。

 

 けれど沙羅に恋人が出来た場面を想像すると、胸にガラスの破片が刺さったようになる。

 私は娘に独占欲を抱いているのか?

 いや、嫁に送り出す時に感じるものと同じだろう、多かれ少なかれどこの親も同じ気持ちを抱くはずだ。

 でも嫁に行く時を想像すると今度は心臓が潰れそうなほどの痛みが……。

 いやこれは普通(・・)のはず、何もおかしくなんてない……。

 

 沙羅はいい子に育ってくれた、だから私もいい親でなければいけないのだ。

 

 

 こうして私は今日も、自分の中の大きすぎる何かから目をそらした。

 直視してはならない、見てしまえば決定的に何かが変わる……、そんな気がするのだ。

 

 心のどこかで、きしむような音がした。


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