六話 『100グラム50円の男』
「ハア、ハア、ハア、ハア、ハア、ハア……!!」
そんじょそこらの変質者よりも荒い息だけが己の存在の証明。
我ながらひどい存在の証明もあったものだと思いながらも、トウジは荒ぶる呼気をそのままにすることでしか精神状態を保てそうになかった。
沸騰しそうになる頭、頬を伝っていくとんでもない量の汗。
そもそも頭も頬も今のトウジには何処にもないのだが、それは気分のようなもので、ともかく、それくらい途方もなくとんでもない状態というのが、今この瞬間だった。
肉の塊――。
そのまんま、肉の塊としか言いようがない。
「これ……スーパーとかで売ってるやっすい特売の鶏のむね肉じゃねえかゴラアアアアアアアアアア!!」
健康的なピンク色の皮。丸くて大きくて滑らかな体躯。
ツヤツヤと太陽の光に反射するその姿かたちは、疑いようもなく精肉された『鶏のむね肉』そのものだった。
唐揚げとかにしたらかなり美味しくなるだろう。
――そんなビジュアル。
精肉コーナーでパック詰めでもされてれば普通に買ってしまうだろう。
――そんな食欲をそそる外見。
100グラム50円っぽい見た目。
それが仮にもほんの少し前までは人の形をしていた、シガラミトウジの末路の姿だった。
唯一、普通のムネ肉と違うのはそのサイズ感。
元が人型だけに、体重分がそのまま成形されたという理屈なのか、トウジの現在の容姿は大きな大きなムネ肉である。
大きな肉が直立不動している。
大変に肉厚でボリューミーだ。
世界広しといえども、こんな事になった人間はそんなにいないのではないだろうか。
貴重な経験にも限度がある。
「ま……う……おま……ちょっ……」
水たまりを見ながらプルプルと子犬のように震える。
水面の鏡に映る肉塊も釣られてプリンのように震えていることからも、この水たまりがただの反射物としての役割を十分に全うしているらしきことが伺えた。
つまり、トウジは鶏のムネ肉になっている。
――それにより、トウジの絶望がより際限なく深まる。
「え……ええ~……」
もう、誰か助けてくれ。贅沢は二度と言わないから、頼む。
そんな風に思いながら、正気なのか狂気なのか判然としないまま、まじまじとトウジは水たまりを深めに身を乗り出してのぞき込む。
自分が肉塊になったのは分かったが、なぜ意識があるのか。
なぜ声を出せるのか。
なぜモノを視ることが出来るのか。
なぜ移動できるのか。
それらの疑問が欠片ほども解決していない。まずは現状把握と言う名の現実への挑戦がしたかった。
現実逃避をしていても仕方がない。というか、このタイミングで現実から逃げたらもうどこにも逃げ場がなくなる。
究極的にはこの状態でどうやって生きているのか、という根本的な問題にたどり着く。
「…………あ」
しばらく――恐らく数分ほどは、水たまりと睨めっこをしていただろうか。
万全ではない思考の働き具合ゆえに時間がかかったが、ようやくトウジはこの肉塊状態に対する疑問に一つの答えを得た。
同時に、その疑問が解決すれば、連鎖的に他の問題にも答えが得られていく。
「そういうことかよ……俺キモすぎワロタ……ワロタ……」
なぜ声を出せるのか。
それはそこにちゃんと口があるからで。
なぜモノを視ることが出来るのか。
それは二つの目がしっかりと付いているからで。
なぜ移動できるのか。
それはさながら蛇のように、筋肉の収縮で移動しているだけだろう。
人体は血の詰まった皮袋。
そんな例えをよくアニメや漫画で三下っぽい悪役がしているが、現在のトウジはまさに文字通りその状態だった。
――つまりムネ肉の中に、内臓や血など重要器官がこれでもかとギッチリ詰まっている。
それだけだ。
目とか口もよく見たら肉の皮の表面にちょこんと付いてるし、耳も角度的に見えないが、多分頭部分の裏の方についてたりするんだろう。
「……おー、まい、がーっしゅ……ガチかよ……」
結論。
見た目はまんま鶏のムネ肉だが、体の機能自体はすべて健在。
十中八九、脳とかも肉の内部に格納されていると思われる。
生命を維持するための要素はすべて満たしている。脈拍正常呼吸正常。
万全の状態だった。
見た目は鶏のムネ肉だが。
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「……ははは、笑えるねえ」
一通り検分を終えたところで、どっこらしょ、といった様子でトウジは重い腰――(腰に当たる部分はないが)を地面に降ろした。
大の字になる。
俯瞰すれば、美味しそうな肉の塊が昼寝でもしてそうに見えるシュールな光景である。
肉の表皮の部分はぬめっておりテカテカで、普通の人間でいう皮膚の内側部分のはずだが、空気に晒していても特に痛みらしき痛みはない。
神経がそこを通ってないのか、あるいはトウジの痛みに対する感覚が鈍っているのか。それは定かではないが。
「……なんだったんだろうな、俺の人生」
トウジは長い溜息を吐いて、それからゆっくりと瞼を閉じる。
――決して長く生きてはいない。
それどころか太く短くですらない。太さなんて糸一本くらいすら全然ない、無価値で無味乾燥な自身の一生。
これが悲劇でなくてなんというのか。
昔の偉い人は『悲劇と喜劇は紙一重』なんて格言を遺してくれたらしいが、トウジの場合はどう解釈をいじっても改造しても拡大しても、喜劇に反転したりはしないだろう。
徹底的な愚か者。
どこにでもある、馬鹿阿保の日記の1ページみたいな歩みこそが、シガラミトウジのこれまでの人生なのである。
そしてそのラストは人ですらなく死した鳥類になってしまった。
俺はどうしてあっちの世界で頑張らなかったのか。
どうして彼女一人作れなかったのだろうか。
どうしてまともな友達一人出来なかったのか。
どうして家族にさえ見捨てられたのか。
どうして、どうして、どうして――
どうして、こうして異世界に呼ばれてしまったのだろうか。このまま肉としてそこらの獣に貪られて食い殺されるためだろうか。
都合のいい食料として俺は今度こそ死んでしまうのだろうか。
こんなめっちゃ気持ち悪い状態のまま。
「…………」
「…………」
「…………」
柄にもない反省。悔恨と後悔。
思考の渦――とりとめのない無限ループを繰り返すトウジ青年。
太陽がそろそろ高く、時刻は昼前、といったくらいの時間に差し掛かろうとしていた。
相変わらずここ一帯の天気はよく気候も素晴らしく、陽気が肉を優しく照らして、燻製にでもされているような気分を手軽に味わえる。
「は……どうしようか……これから」
とりとめもなく。
本当にとりとめもなく呟くトウジ。
そしてふと、彼は自身の身体の中の違和感に、小首――(首はないが)をかしげる事となる。
「…………あれ?」
脈絡もなく気付いた。なんとなく全てがしっかりと治ったような感覚に。
ぶちまけられ、傷ついていた内臓が。
飛び散って、ぐちゃぐちゃに地面を濡らしていた大量の血が。
バキバキに折れて、粉々のなっていた200を超える数の骨が。
すべて完治したのではないか、と脳がトウジに訴えかけてくる奇妙な感覚。
例えるならば、尿路結石を出しきったときのような、あるいは、長らく悩まされていた便秘をたった今全力開放したばかりのような。
――シモばかりだが、それくらいの爽快感が、トウジに唐突に到来しつつあった。
「…………!!」
何が起こっているのかと跳ねるように反動をつけて起き上がるトウジ。
自分に体の前面部分を隅々まで見つめてみるが、特にこれといって変化は――
「なんだこりゃ」
変化は、あった。
両胸だ。普通の人間で言うところの、両胸に当たる部分がふっくらと膨らんできていた。めちゃくちゃ簡単かつ簡潔に表現するなら、なにやら巨乳化してきている。
いや巨乳化というよりも、胸がとんがってきているという方がより適切だろうか。
そのまま、どんどんどんどん胸(胸に当たる部分はないが)は先鋭化し、先鋭化していって――。
「……はぁん!?」
弾けた。
少しばかりの肉と皮があたりに巻き散らかされる。
「何が――」
起こった、と己の胸を凝視してトウジは今度こそ自分の正気を疑った。
そこには骨がある。
さながら皮膚を強引に突き破るように出現したのは、二本の硬そうな長くて白い骨――これが俗に言う開放骨折という代物だろうか。
何もしてないのに骨が折れるとか、それは普通に意味不明すぎるというか、それ以前にナニガナニガナニガ――
混乱の極みに陥るトウジに、その変化は容赦なく次の段階に移行する。
「あ!? あああああああああああああああああああああああああああああああああうわあああああああああああああ――!?
激痛。
ドラゴンに殺されかけた時と同等レベルの激痛がトウジを襲っていた。
バキバキメキメキ、と。
およそ人体から発せられるはずもないような奇怪な音がコーラスを奏で、その音の出どころはトウジの骨が自由自在に形を変え、繋ぎ合い、離れ合い、折れ合わす音。
そして、内臓が縦横無尽に体内――肉内を駆け巡り、あるべき位置に収まろうとするわんぱく小僧のような移動音。
皮がつっぱり、張り巡らされ。神経が繋がれ、張り付き、設置され。
「が、あぁアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
死ぬ。
今度の今度こそ、それを強く確信して、トウジ青年は――。
「…………へ?」
元の、通常の人間の姿に戻っていた。
手があり足があり、目も鼻も口もあるべき場所にしっかりとある、冴えない顔をした無職日本人男性の姿に。
「…………? あ? ……?」
未だ事態を認識できていないトウジは己の両脚の存在を確認。
ボロボロになってはいたが、ズボンをしっかりと履いていて、上半身も同じく謎の液体でベトベトではあるが、シャツは着たままになっている。
肉の内部にこれらも格納されていたのか、それは不明だし、それどころではないのは誰の目にみても明らかである。
「な、なお――」
両腕を突き上げてガッツポーズ。
なんだか知らないが体が元に戻ったらしいことをようやく正しく飲み込んで、トウジは天に向けて渾身のガッツポーズをお見舞いする。
「ざ、ざ、ざまああみやがれアホドラゴン!! 死ね!! もう一回来てみろよバーカバーカバーもごっほおおおおおおおおおおおおおお!! むうううう――!?」
次の瞬間、目の前が真っ暗になって一瞬呼吸が出来なくなる。
ざらついた感触が皮膚を舐め、土埃のような匂いが鼻にまとわりつく。
どうやら袋のようなものに入れられて拉致されたらしい、とトウジが悟ったのはそれから約十分後の事だった。
しかし大変な目にあってる主人公だな……(白目)
序章はちょいゆっくりペースになってるかもですね。どうなんでしょう……?