三話 『ドラゴンとかいう奴』
竜。ドラゴン。龍。
伝説の上にあぐらを掻いて座る偉大なる怪物。
シガラミトウジ青年が今までのさほど長くもない人生で何度も、何百回も、誇張抜きに何千回も見てきた単語であり、触れてきた空想上の生物である。
爬虫類と鳥のカッコいい部分をあいのこで足したようなマッチョデザインは、多少オタク文化に造詣のある日本人ならば、必ずと言っていいほど目にしたことがあるはずだ。
「こ、こんちわ~……フヒヒ……」
だが、現実のドラゴンは意外と怖いしグロい。
そんな第一印象を猛烈なカルチャーショックと共に受けながら、トウジは必死で平静を取り繕う事に成功した。
混乱、恐怖、怯え、震え、パニック状態になりたい気持ちを頑張って押さえつけながらの健気なアクション。
片手をあげて意気揚々とドラゴンに挨拶を試みてからの、もじもじと内股になってズボンのシミをさりげなく隠す。
後半の方は思わず現実逃避からのダッシュで逃走をしかけたが、眼前の圧倒的で暴力的なまでのリアルはそれを許してくれそうになかった。
本当にいる。重量感を伴った、紛れもないドラゴンが。
「ぐるりゅ」
腹の音か、唸り声か。
どちらとも取れる音を出すドラゴンと、トウジの視線が濃厚に絡み合った。
「これはあれだな。もう、分かったわ俺……」
乾いた笑い声を立てながら、両手で顔を覆い隠し、両ひざをついて天を仰ぐ。
――遅ればせながら。
本当に遅まきではあるが、この巨大な怪物の登場により、トウジは己の中で確信に等しいものを抱く。
それは自分が今どこにいるのか、というプレイス(場所)であり、自分がどうなったのかというシチュエーション(状況)。
場所は異世界、自分は異世界転移したらしい、という厳然たる面白すぎる状況だった。
「はいキター、とうとう俺の時代が! き・ま・し・た・ね・っと!! うおらっ!!」
突然勢いよく跳ねるように立ち上がり、トウジはドラゴンに向かってどや顔でポーズを決める。
事態を(いささか早計だが)大まかに飲み込みつつある彼にとって、導き出された答えは胸がドキドキワクワクするもの以外の何物でもなかった。
急に上がってくるテンションに、体がついてくる形である。
「ハハハハハハハハハアハハハハ―――――!! フヒッ!!」
異世界転生オア転移――元いた世界では二日に一回は妄想していたくらいの王道過ぎるシチュだ。
これに並ぶシチュは学校にテロリストが潜入してきてそれを華麗に撃退して女子にモテモテとか、それくらいのレベルのモノではないだろうか。
そんなポピュラー極まる、ベッドで寝る前にしたくなる楽しい妄想ランキング第二位くらいの状態が、自分の身に起こってしまった。起こってくれた。
これにノリノリにならないなど明らかにオタクとしてどうかしている。
「まあ、異世界っていっても色々あるんだけどな。とりあえずドラゴンが出てきた時点でファンタジー的なあれは固いか。期待が膨らむねえ……」
つい一瞬前の怯えはどこへやら。
にっちゃりと。
舐めまわすような視線をドラゴンに浴びせかけ、今後への期待をこめつつ色々と値踏みを図る。
このドラゴンは自分の目の前に狙ったように降りてきた。
そこには間違いなく何らかの目的があるはずで、それはトウジの二次元的な知識と経験則に則って判断すれば、かなりいい兆候のはずなのだ。
すなわちそれは、
「チートハーレム……略してちいいいいいいれむうううううううう……」
腕をクロスに交差させて腰を落とし、コサックに近い軽快なステップを踏むトウジ。
本当に先ほど、つい数瞬くらい前までガクブルジョージョー状態が嘘だったかのように、その姿には自信と余裕が満ち溢れていた。
キモオタの環境適応能力は実はかなり高いのだ。
――こういうのは大体チート確定イベントだと、相場は決まっている。
「ドラゴンかあ……まあ基本を大事にしてるよな。ベタとも言えるが……どのパターンかね? 俺に超常的な神スキルや便利スキルを与えて『さらばじゃ……』と去っていくパターンか、それとも君が俺の眷属になる感じ? 俺の手下になってもらって、俺はドラゴンを操り世界を救う『ドラゴンソーサラー』とか『ドラゴンナイト』としてこの異世界で名を馳せる。さあ伝説の始まりだ! みたいな? おいおいイケメン過ぎて困っちゃうぜそれ……!」
「ふすん」
トウジ青年のハイテンションを首肯するように、ドラゴンは鼻をおもむろに鳴らした。
なかなか従順そうで有能そうなドラゴンだ。もし手下に加わるなら大事に乗りこなしてやろう。
そう先の事を思いつつ、トウジは目を閉じる。
思い描くのは、これから始まるクールでスタイリッシュでエッチなロマンスあふれる英雄譚だ。
そこには将来への漠然とした不安や、孤独との戦いや明日を生きるための日銭の事など、矮小な問題はどこにも存在していない。
現実――いや、ここも現実世界には違いないが、そうではなくて。
トウジが本来いた現実社会のような、つまらないことや下らない事にあくせくする、そんな必要が全然ないのが、きっとこの世界なのだ。
なんたる素晴らしきことか。
「笑いがとまらん!!」
おそらく、森を抜けた辺りに村か町があって、そこは想像を絶する美少女だらけで、トウジは特に何もしていないのに黄色い声を浴びせかけられ、褒めたたえられる。
自分にとって都合の悪い敵どもは全部指先ひとつで薙ぎ払い、トウジがすることは無条件で善認定で肯定される。
立ちはだかる者は常に絶対悪。無双プレイをした先には怒涛のハーレムが待ち受けていて、第二の人生は絶賛順風満帆営業全力開店中。
百パーセント、トウジにとって都合のいい完璧なワールド。
主にオタクコンテンツ的な意味で前の世界に未練がないわけではないが、それを補ってお釣りが一兆円はくるほどの、そんな場所に――、自分は今、立っているのかもしれない。
「ふほほ……むふふ……」
やり直せる。
やり直せるのだ。
感覚的にはつい小一時間ほど前まで人生が四方八方から塞がってきていた四面楚歌、そんな状態だったのが、今や完全に逆転している。
憧れだった、夢にまで見た、そんな絶好の機会が、こうして訪れているのだ。存分に、これから本当のライフを満喫させて頂こうではないか。
自分が異世界に呼ばれた理由なんてまるで分からないが、そんなものに興味はない。
そもそも理由なんて存在するとも限らないし、こういうのは傍若無人に振舞ってこそ楽しめるのだ。
覚悟はいいか、異世界よ。
加速していく妄想が臨界点に到達したところで、トウジはゆっくりと目を開いた。
「ふむ。くるしゅうないぜ?」
ドラゴンはさっきまでと変わらぬ姿勢で、静かで水面のような瞳でトウジを見つめている。
例えるならば主人の命令を待つ忠実なる下僕のような雰囲気だと、彼はなんとなく思った。
「あー、で? そろそろ人語を喋るなりなんなり、勝手にしてくれていいぞ。俺の方はとっくに腹据わってるから。はよチートか何かよこしておくれ」
まるで十年来の友達のように、気軽な調子で一歩、トウジはドラゴンに近づいた。もはやそこに恐怖の影は見られず、あくまで堂々としたものである。
「まあ、チートくれるんならアレだな。出来るだけ便利なヤツが欲しいわけなんだわ俺氏としては。古今東西色んなチートがあるけど、鉄板は……いや、いざ手に入れられると思うと、そんなすぐには思いつかないな。ちょっと考える時間ほしいかも……」
顎に手を当てつつ、悩む素振りを見せるトウジ。
近づいて、近づいて、両者の距離は手を伸ばせば届くほどに接近していた。
ついでに友好のパフォーマンスとして肩でも組んでみるかとドラゴンをじっと見つめるが、肩らしき箇所がどこかは不明なので諦めた。
そもそもサイズがトウジの身長の三倍はありそうなので、仮に肩があったとしてもそれは叶わなかっただろうが。
「――んで、無口タイムはもういいから。はよ何か言えって。バレてんだよお前がファンタジーの住人だってことは」
溜めなくていいから――、と続けようとしたところで、ドラゴンがようやくその重そうな口を開く。
赤々とした口内と、燃えるような舌。そして粘力の高そうな唾液がきらりと光って一滴、地面にポタリと落ちた。
生暖かく、ひどい臭いをたたえた口臭がトウジに容赦なく吹きかけられて。
「……えっと、お前って、歯とかあんまり磨かないタイプ……?」
その軽口を最後に、トウジの上半身が豆腐のようにかじり取られる。
黄色い脂肪と鮮血と内臓が辺りに勢いよくぶちまけられていた。