二話 『ここはマジでどこだよ』
「わーい、綺麗だね。すっごく良い匂いするし、花粉症ぎみの俺にしては割とノーダメージ。つまりこれは夢確定だな」
――ハイハイなんだ夢か。
トウジが恐る恐る目を開けて、最初に抱いた感想がそれだった。
妥当過ぎる意見だ。彼の目の前には目いっぱい……視界を覆いつくすほどの『花畑』がドーンと広がり、そして遠くの方にはうっそうと生い茂る若々とした森の木々が見える。
美しいかな大自然。
日本では中々見られないような絶景が、ここには無造作に展開されていて、蝶とか花とかに感動できるような繊細で感受性の高い類の人間ならば、しばらくは目を奪われていただろう。
涙すら流していたかもしれない。
それくらいには綺麗――そんな光景のちょうど中心に、あまり綺麗ではないもの代表こと彼は余りにも不自然に存在していた。
なんなら少し汚いものこと、シガラミトウジはぼんやりと立ち尽くしていた。
「しっかし、えらいリアルなドリームだな……」
首だけ動かして辺りを観察する。花びら一枚一枚が露をわずかに浮かせていて、今の時刻が恐らく早朝であることを伺わせる。
太陽は薄い雲に覆われていてまだ見えないが、視界は十分に確保されており、薄暗いというより薄明るいという感じだ。
空気は清浄で澄み切っている。
空中を見たこともない羽根を持った白色の虫がところどころ飛び、それよりはるか上空では鳥っぽいものが優雅にアクロバティック旋回を決めている。
静謐。
平和かつ、微妙に幻想的な眺めだ。
「…………ん?」
ふとトウジが足元を見ると、小虫が二匹折り重なって何かをしていた。
交尾だ。
「……は?」
その様子にトウジは耐えようのない怒りと言う名の嫉妬を感じ、一瞬で踏みつぶそうとするが、辛うじて残された理性と僅かな良心がそれを拒否。
降ろされる足の軌道をギリギリで逸らし、すぐそばの地面に足跡をくっきりとスタンプした。
虫たちは事なきを得たが、振動に驚いたか、明後日の方向に飛び去っていく。
「虫さんにジェラシーを感じるのはいよいよ末期って感じはするけど……危ねえ危ねえ。まあ、『蜘蛛の糸』みたいにね、本来なら踏みつぶすところを見逃したという善行が、いつか恩返し的に返ってくるかもしれないしな」
――虫を踏み潰すか踏み潰さないかの選択。
それはゼロがマイナスになるか、ゼロのまま平行線を辿るかの違いでしかなく、虫目線では恩返しするに足るプラスになる要素が実は全くないのだが、自分で言っていてトウジはそのおかしさに気付かない。
それはともかくとして、
「……というか今のくだりでふと思ったんだが、いや……まさかな……」
再び大空を見上げてみる。
雲が切れて、いよいよ本格的に太陽が顔を出してきていた。日差しの強さから考えて、季節感は春あたりだろうか。
ここまできて、トウジはこれまであえて触れてこなかった可能性、そこから目を背けるのをやめる。
「ここって……“あの世”とかそういうのじゃ、ないですよね? いや、まさかね……ハハ」
死後の世界。
可能な限り出したくなかった可能性を口に出してみると、どんどんそれが信憑性を帯びてくるような気がして、トウジは軽く眩暈を覚えた。
洒落にならない。
最後の記憶、それが重要だ。
この質感、触感、リアリティでまさか夢という事はないだろう。明晰夢と言う線も考えたが、そもそもその手の経験をしたことが一度もないトウジにとって、これは限りなく考えにくい可能性だった。
幻覚の線もなし。オクスリも精神疾患も患っていないし、肉体だけは無駄に健康そのものだ。
「…………鼓動、脈拍、呼吸よしだよな」
胸に手を当て、手に呼気をあて、自身の存在を五感で感知。
普通に生きているような気がするが、これが生前までの残留思念による錯覚と言われれば、それはそれでそれまでの気がする。
非常にあいまいな感覚に、心臓の奥で不安の種が芽吹きつつあるのをトウジは必死で抑える。
「いやでも、仮に死後だとしても、ここ天国くさくねーか……?」
自分が極楽なんぞにいけるハズがないと自覚しつつ、そんな願望を投げやりに口にしながら、彼は最後の記憶を粛々と思い出そうとする。
意識が途切れる直前だ。
自分は最後に何を見た? どういう経緯でここに来たのか、思い出せないか?
額に手を当ててぬめる脂汗をゴシゴシとこすり、
「確か――」
グチャリ。
「…………いやいやいやいやいやいや……」
――よく分からないが、とんでもなく規格外の痛みが脳天を貫いた感覚だけが、思い出せる限りの最後の記憶だった。
それ以前は「ママ助けて――!」とか叫びながら夜の街を練り歩いていた気がしなくもない。
我ながら、かなり気持ち悪いうえに恥ずかしい情景が脳裏に思い浮かんで、それっきり搔き消えた。
「はあ~……どうしよう……ひとまずそこらを歩くか」
とりあえず、この場で堂々巡りをしていても仕方ない。まずは現状と現在地の確認が先だ。
結局長々とした思考に何の収穫も得られぬまま、トウジは遠くに見える森に向かって最初の一歩を踏み出したのだった。
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「代わり映えしない景色だな……」
かれこれ、もう三十分近くは歩いただろうか。
引きこもりガチ勢を自称しながらも、彼は一人暮らしである以上、日常生活を営むためには外出しなければならない。
友人や彼女がロクにいないトウジにとって、外出先はスーパーや本屋など、決められたルートを踏襲することに限られているが、それと似たものを彼はほのかに覚えつつあった。
すなわち同じ眺めと景色の連続だ。
「…………」
ほぼニートといっても別にお外が怖いとか、人の目線に震えるとか、そういうのは特に全然ないトウジではある。
しかし、それとは逆――別の恐怖が少しずつ頭をもたげつつあった。
人の気配が全く感じられないという事実だ。
自分が拉致されたのか、あの世なのか。
ここがどこなのか、その答えを得るとかそれ以前に、ひたすら広い花畑と森、大自然の息吹と芽吹きしか感じられないこの現状に、トウジは焦り始めていた。あと十分も歩けば森の入り口に到達するだろう。
それから、森の中に入るのか、それとも森に沿って歩いていくのか。どうにも判断材料が足りなすぎる。
山で遭難した時なんかは頂上を目指すといい、というのはどこかで聞きかじった事があるが、ここはそんなに標高が高そうな場所でもなさそうだった。
「さ……寂しくなんかないんだから!! 怖くなんかなくってよ!」
嘘だ、実はそろそろ本格的にビビり始めている。
小便を漏らすとまではいかないが、背筋にぞわりとしたものが浮き出てきそうではあった。
空はこんなにも晴れてポカポカとした陽気なのに――
トウジは本日何度目かになる空を仰ぎ見る。
「……?」
そして気づいた。
最初に見た時はアクロバティック飛行をしていた鳥が、まだその場でぐるぐると旋回している。
さらに、段々とトウジの方向へと近づいてきているという事に。
ついでに言えば、その鳥はトウジが最初に想定していたよりも、数段――かなり大きいサイズだという事実を、同時に思い知らされる。
「――――」
ドン!!
轟音が響いた。
それは巨大な足が草花を容赦なく踏み潰す音。巨大な尾が土をえぐり、砂のつぶてをそこら中にまき散らす音。
禍々しい斑点を携えた両翼がゆるりゆるりとその勢いを弱めて、体の側面にぴったりと張り付く。
鋭く真っ黄色な眼光、突き出した口元から覗くのは象の牙よりも大きいだろう、とがり切った刃の如き歯である。
「……ドラゴンさん?」
トウジの呆けた口からそんな馬鹿げた単語が飛び出す。
普通の状況ならそれはゲームとかアニメとか漫画の世界でしか聞かれないものだったが、現として目の前にいる今の状況では――
「ど、ども~っす。エヘヘ……」
トウジはもの凄い勢いで小便を漏らすしかなかった。