暗殺者
ーーその男は強かった。
生まれた頃から天才と呼ばれ、有する異能は二つ。
誰にも負けず、男は敗北の苦汁を知ることなく健やかに育った。
ただ、それが悪かったのだろう。
男は自身の能力を過信し、慢心した。
己は特別な人間なのだと思い、自分勝手に振舞った。
自分は強い。
そう思い、男は努力することすらも怠るようになっていった。
その結果、彼は初めての敗北を味わった。
彼に初めて勝ったのは、自分よりも遙かに才能のない者だった。
異能は一つしか持たず、その異能も彼のものに比べると矮小に過ぎない。
ただの凡人。
そんな直前まで見下していた相手に敗れた彼は、その高いプライド故にかつてないほどの憤りを覚えた。
彼は憤り、だがしかしその憤りをバネにして自身を研鑽し、更なる高みを目指していれば、きっと彼の往く道は違ったのかもしれない。
だが、当時の彼はそうすることができなかった。
凡夫に敗れた彼は、その高すぎるプライドが傷付けられたことに耐えることができなかった。
結果、その憤りを別の方法で発散することにした。
それは自分を負かした相手への闇討ちである。
自分が敗北したことを認められず、そのまま行動に起してしまった。
影に潜み、憤りのままに彼は、自分を負かしたものを襲撃した。
だが、その結果、彼は返り討ちにあい、片腕と右目を失った。
それからだ。彼の人生の転落が始まったのは。
隻腕隻眼となった彼は、今までのように能力の強さだけで勝つことができなくなった。
見える世界が半分になるというのは思いのほか彼の能力に制限をかけ、また片腕になったためかその攻撃の手数が減った。
そしてついぞ彼は誰にも勝てなくなり、だがそれでも彼には高いプライドだけは残っており、負ける度に「ハンデがあるから仕方なかった」「相手が卑怯な手を使ったのだ」と言い訳を続けることになった。
その結果がこのざまだ。
負け続け、また歪んだ人格の彼には居場所はなくなり、酒に溺れ、その末に多額の借金を抱えて、こうなった。
栄光の道からは外れた哀れな天才。
それがその男だった。
「……」
男は息を呑み、その身を影の中に潜める。
暗殺の依頼があった。
誰からの依頼かまでは彼にはも分からない。
殺しの依頼は、依頼する側も身を滅ぼしかねないので基本的に自ら依頼することはない。
幾つもの仲介の果てに暗殺者の元に依頼が下る。
今回のように標的が貴族の場合は特に、だ。
今回の暗殺の標的は、貴族の子供。
まだ幼く保護されるべき子供。
年齢は五歳程度で名前はエルリスという。
上から開示された標的の情報はそれだけだが、子供なので特に問題はないだろうと彼は思う。
(ふん、あんな立派な家で育ったボンボンを殺せばいいのか。楽な仕事だ)
ぐいっと男は酒を飲み、視線だけを標的のいる屋敷に向ける。
警備は中々に厳重だが、夜になれば警備が少し手薄になることは調査済みだ。
実行は今日の夜。
彼は再び酒を口に含み、凶悪に口角を歪める。
(ちょうどいい。あのガキを始末した後、あの家から金目のものもいただいていくか)
からんと酒の入った瓢箪状の瓶を後ろに放り捨てる。と、その時だ。
「っ!!」
ぞくりと背筋に悪寒が走った。
(なんだ!?)
がくがくと足が震え、体に冷や汗が滝のように流れる。
怖い。高層ビルの屋上のフェンスを越えた先でつま先立ちするかのような、腹の底が引き締められる冷たい恐怖。
ーー恐ろしい。
何が恐ろしいかは彼にもわからないが、ただ恐ろしい。
今すぐこの場を立ち去りたいというような本能的な恐怖を感じ取った。
(落ち着け、落ち着け)
震えを堪えて息を整える。と、どれだけ立ったのだろうか。
気が付けば背筋の悪寒が消えていた。
「……はあ……はあ、なんだったんだ、今の」
額の汗を拭い、胸を撫で下ろす。
よく分らないが、あの家は危険だ。
彼は本能的に実感する。
(くっ……、さっさと依頼を終えてここから立ち去りたい……)
そう思いながらも視線を屋敷に向ける。と、がさがさと背後の茂みが揺れた。
「!!」
咄嗟に彼は懐に収めていた短刀を引き抜いて、身構える。
先ほどのあの悪寒の残滓のせいでどくんどくんと激しく鳴る心音が煩い。
がさがさがさがさと茂みが動く。
何が出てくる。
獣か、それとも自分のことに気が付いたあの家の護衛か。
ごくりと彼は喉を鳴らし、警戒を強める。
何が出てきても直ぐに対処できるように……。
そして……、ついにぴょこんと小さな子供が茂みから顔を出した。
「あれ、おにいさん、こんなところで何をしているのかしら」
男はその顔に驚き、だが直ぐに歓喜へと変わる。
(これは……僥倖)
男は笑い、短刀を強く握り締める。
今目の前に現れたその子供が何かを彼は知っている。
雪のような白い髪に赤い瞳の、人形のように可愛らしい女の子。
その姿は暗殺の標的たるエルリスそのものである。
この子がどうしてこんなところにいるのかわからない。
標的は普段ソニアという護衛メイドと共に行動しているはずだが、子供の行動は大人には読めないことも多い。
きっと護衛の目を盗んで、外に出てきたと考えるのが妥当だろう。
(馬鹿なガキだ。こんなところに一人で出てくるなど)
彼は笑い、それからようやく標的の問いに答える。
「ああ、俺はね、道に迷って、ここがどこかおしえてくれるかい」
ゆっくりエルリスの元に近づいていく。
「ええ、いいわよ」
にこりと無邪気にエルリスは笑い、近づいてくる暗殺者を迎え入れて、
お互いの手が届くくらいまで距離を縮めたところで、
(ここだーー)
逆手に握られた短刀が、エルリスの首へとギロチンの如く振り下ろされた。