貴族の力
「……」
室内は薄暗い。
もう寝ているのだろう。
ソニアは短刀を強く握り締める。
殺すが楽には殺さない。
苦痛を与え、今までの全てを後悔しながら喉元にこの短刀を突き刺してやる。
まずは足からだ。
足を切り落として逃げられないようにする。
この十年で、色々なことを学んだ。
まずはどうするべきか。
ソニアは寝室のベッドにそっと近付く。
(殺す)
蛇のように這いより、鷹のように獲物を狙う。
ごろりとベッドの上の者が寝返りを打つ。と、そのタイミングでソニアは一気に距離を詰めて、その短刀をベッドの上のその男の足へと突き刺したーーかのように思った。
「っ!」
何か見えない力に弾かれて、短刀はソニアの手から離れた。
(な、に……)
ソニアが思考を巡らす為に、僅か動きを止めた。その刹那の間隙に、目の前のそれは動き、ソニアの腹部を蹴り上げていた。
「ーーがっ!」
背を背後の壁に打ち付け、短い悲鳴が漏れた。
何が起きたのか。ソニアがそう理解するよりも前に、目の前のそれは立ち上がった。
「……小娘風情に舐められたものだな。お前如きに私が討てると思うたか」
ゆらりと布団が剥がれて出てきたのは筋骨隆々の大男。
ディアボロス家の当主にしてエルリスの父親。そして、自分の故郷を滅ぼす命令を下した人物。
ーーアラス・グランド・ディアボロスそのひとである。
「ええ、全くですね」
その隣、男の巨体とは正反対の可憐な美女ーーミーナ・レイ・ディアボロス。アラスの妻にして、エルリスの母親でもある人物だ。
「あ、ぐ」
ソニアは蹴られた腹部を抑えながらゆっくりと立ち上がる。
息を吸うたびに激痛が走る。が、その激痛は飲み込みながら立つ。
(ど……して。この時間は、寝ているはずでは……)
メイドとして雇われての一週間前、事前に就寝の時間は確認していた。
この時間は既に業務を終えて、就寝しているはず。
いや、それ以前に就寝直前の最もリラックスしている状態を狙ったのだが、それなのにこの対応。これではまるで……。
そこまで考えて頭を振る。
(……いや、そんなはずはない。私が油断、していただけだ。だけど、もう油断はしない!)
立ち上がったソニアは手を前に突き出して『異能』の発動に備えた。あの晩、あの場にいた暗殺者を皆殺しにした強力な異能ーー『暴風支配』。
「何だ? まだ立つか。小娘の分際で存外タフなのだな」
アラスは笑う。全く身構えもせず、そこには戦意すらない。
あるのはただの圧倒的格下に対する態度だけ。
「うる、さい。うるさい、うるさい! お前は、喋るな。ただ黙して天に懺悔し、それから過去の罪に喰われて死ね!!」
ソニアの声が膨れ上がるのと共に、寝室の窓が一斉に砕けて、黒い風が巻き起こる。
「成程。これがお前の異能か……、くだらない。この程度で私に刃を向けるとは……、愚かを通り越して哀れにすら思うぞ」
アラスは両腕を広げる。
「そも過去の罪だと? この私が一体何をしたという」
彼には罪の意識は皆無だ。欲しいものは何をしてでも手に入れる。その為に踏み付けた屍は数え切れないほどあるのに。
それなのに彼の心には罪の意識などは芽生えることはない。
「……ルキアの花を、その為に村を一つ滅ぼしたでしょう。それがお前の罪だ!」
そう吠えて、ソニアは全ての黒い風に命令を送る。
目の前の怨敵を殺せと。
「成程、ただの復讐か。やはり平民の思考は私には理解出来ぬ」
迫る黒い暴風を、アラスはまるで羽虫でも払うかのように消し去った。
「なっ!?」
驚き、その驚きが沈静するよりも早くにアラスの巨体よる拳がソニアの腹部に叩き付けられた。
「その程度の異能で、貴族に楯突くなど」
「ーーごふっ!!」
吐血し、ソニアはよろめく。
「そも何故、我らが社会的地位を得ているか。それは我らが強いからに他ならない」
「ぅ、く、そ」
「おいおい、どうした。私が憎いのではないのか? その為だけにここまで来たのでは?」
髪の毛を掴み、さらに一撃。
「……ぁ、が」
ソニアの腹部に叩き付けられた。
意識が飛びそうになる。が、何とか意識を手放さずに済んでいるのは目の前の者達に対する憎悪のおかげ。
憎悪に奮い立たされなければ今頃は間違いなく意識は闇の中に沈んでいたことだろう。
「それにしても馬鹿な娘ね。私達に利用されていたことも知らずにここまで来るとは」
ベッドに座り、ミーナは冷笑する。
「ふん、そうだな。私達の手で、あの子を始末することもできないからな」
何を言っているのか。
利用されていた、とは一体。
ソニアは口の端から血を垂らしながら顔を上げる。
「どうやら本当に何も分かってはいないようだな。まあ、冥土の土産として教えてやろう」
アラスはソニアの頭を踏み付ける。
「お前は己の力のみでここに来たと思い上がってるようだが、それは否だ。お前は単にエルリスを始末する為に我々が利用していただけに過ぎない」
どういうことだ。
あの子は、愛娘ではなかったのか。
ソニアは目の前の者達の言葉に困惑する。